9 神の審判
天高く飛び上がったニーナは、乾地の上を縦横に移動しながら必死で首を巡らせた。
(カディー、どこにいるの)
火の気配を追おうにも、ハルバラドを覆い尽くさんばかりに広がり、北上するトロールの中から火のジンを見つけ出すのは困難だった。被害は砦のあったザウィヤの町に留まらず、街道沿いの町村も次々とトロールの強襲にあい、無関係な者の暮らしまでが踏みにじられていく。その光景は耐えがたく、しかし今のニーナに彼らを救う手立てがあるとすれば、やはりカディーを見つけるしかなかった。
《あそこ》
誰かが囁いた。先ほども聞いた、少女の高い声だった。振り向く前に水の精霊が視界にすべり込み、ニーナに背中を向けて、斜め上へと真っ直ぐに飛んだ。青空の中心、乾地全体を見渡す場所に、赤い影がたたずむようにいた。
「カディー!」
呼べば、彼は驚く様子もなくゆっくり振り向いた。わずかに遅れて、炎のたてがみが揺らめく。かつておぞましさに怯え、拒絶したジンの姿に、ニーナの胸の奥がざわりと逆立った。しかし今はもう、恐れることはない。
「カディー」
向かい合う位置に立ち、もう一度呼びかけた。だが彼はじっとこちらを見るだけで、反応を返さなかった。ニーナは息を吸い込んだ。
「カディー、トロールを止めて」
カディーの青紫の目が細まった。
《先に神域に触れたのは彼らだ。禁足地に踏み込む者を、神達は許さない》
「だとしても、無関係な人を巻き込むのは間違ってる」
ニーナは声を荒らげそうになるのを努めて押さえ込んだ。代わりに、少女の意思をくんだかのように、二人の周りを風が渦巻き始める。カディーのたてがみの炎があおられ、低い音をたてた。周りを飛ぶ風の精霊を、彼は一瞥した。
《ニーナは知らないかもしれないけれど、これが初めてではないんだ。人が神域に触れようとしたのは》
鼓膜のさらに奥へ届くカディーの言葉に、ニーナは眉をひそめた。火のジンは言い聞かせるような口調で、ゆっくり語った。
《人は、侵略をする生き物なんだ。歴史をさかのぼれば、南征した国は他にもあった。そして神域に踏み入れ、滅ぼされた。今もまた、同じことが起きているだけだ。それでも、こうして星が存続し続けてるのは、女神達の慈悲だ》
カディーの声は静かだった。まるで取り出すように淡々と、事実を並べる彼の冷静さに反する形で、ニーナはじわじわと血が上って来るのを感じた。
「慈悲? これが? 無関係な人を巻き込んで、傷付けて、それが慈悲だって言うの!」
ニーナはついに叫んだ。
「確かに、禁に踏み込んだのは人かもしれない。でも、赤道より先が不可侵だなんて、誰も知らないことなのよ?」
《そうだね。だから、今日まで待った》
カディーがまばたきした。口と目ばかりが大きいジンの顔は表情に乏しかったが、どうしてか悲しげに見えた。
《なん度も警告を送って、これ以上進むべきでないことを伝えたんだ。でも人は、南へ行くことをやめなかった――民の暮らしや安全よりも、国の利益と土地を取ったんだ、ハルバラドは》
カディーの言うことが分からないニーナではなかった。だからといって、受け入れられるはずもなかった。彼を見る目が、自然と鋭利になる。
「だから滅ぼすというの? 人ごと、国を?」
《人は集まって根付く。根付いたものは根ごと刈り取らなければ、すぐに元通りになってしまう。そう、女神達は考えているんだ》
「刈り取るですって!」
ニーナは髪を振り、いよいよ激昂した。
「人を生み出したのは女神でしょう? それで思い通りにいかなくなったら簡単に消すなんて、そんなの勝手すぎる! そのせいで、おばあちゃんも、ロイも、お父さんとお母さんも、皆いなくなってしまった――もう、そんなことさせない」
服の中から首飾りを引き出し、四つの石をまとめて握った。
「イヴがすべての命の母だって言うなら、あたしがイヴである以上、全部の命を守ってみせる」
二人を取り囲む風が密度を増した。ニーナの怒りに呼応し、カディーを覆うように地と風、そして火の精霊までが寄り集まって来る。風に砂塵が混じり、熱気が塵を溶かす。降り注ぐ、灼熱の雨。
だが、それを浴びるは、カロルの名を持つジンだった。
ため息をつくように、火のジンの口がかすかに動いた。
《……君が扱える程度の力で、ぼくは捕まえられない》
白い炎が、精霊達を食らった。かろうじて逃れた精霊も、熱波に弾き飛ばされた。熱い風で、肌がじりじりと焼けるかに思われる。目の乾きを感じながらも、ニーナはカディーから視線を離さなかった。
精霊を焼き尽くした炎が消える。その瞬間を、逃さなかった。
水の精霊が飛んだ。
《水?》
カディーの反応が一瞬遅れた。空に生まれた高波が、火のジンの頭上から打ち寄せた。赤い姿を飲み込んだ水が、さらにひとかたまりとなって彼を押さえつけた。水に捕らえられたその姿は、目の前でカディーを失った夜を想起させたが、胸は痛めてもニーナは躊躇しなかった。
ごぽっ、と。音を立てて水面で泡がはじけた。ニーナが息をのむ間に、水のかたまりが白く泡立つ。泡は即座に蒸気へと変わり、みるみる体積を増して火のジンを覆い隠した。
沸き立つ雲が流れるように、熱を帯びた風が蒸気を連れ去った。その後に水塊はなく、炎の色のうろこだけが光っていた。彼を捕えきれなかったことにニーナは動揺して、次の手を決めかねた。
《君が、なぜ水を……》
声に戸惑いが混ざり、青紫の目が怪訝にすがめられた。
《ニーナ様!》
叫び声と同時に、黄色い翼がニーナの視界を埋めた。
「シルキー」
ニーナは驚いて、飛来したジンの名を呼んだ。
「シルキー、エリヤ達は」
《ヘスカルアへ運びました。ニーナ様をいつまでもお一人にはできません》
主人を背にかばうようにシルキーは滞空し、火のジンに向き合った。さらにその向こう、火のジンを挟んだ反対側に、緑に苔むした大きな姿が現れた。
《急ぐのは分かりますが、わたしのことも忘れないでください》
どこか呆れを含んだ声音で、ルーペスはぼやくように言った。だがその目はしっかりと、目の前の火のジンに向けられていた。
風と地のジンに前後を挟まれる形になったカディーは、二人にちらとだけ目をやり、不快げに顔を歪めた。
さて、とルーペスが気を取り直すように言った。
《どうしますか。わたしは、心づもりができていますが》
ルーペスに同意するように、シルキーが羽毛を膨らませた。炎に焼かれ、一度は散り散りになった精霊達も、再び集まり始める。
縮まり始める包囲に、火のジンは鬱陶しそうに尾を振り、片腕を持ち上げた。
「やめなさい」
声が降って来て、ジン達が一斉に頭上を振り仰いだ。彼らよりさらに高い場所から、ゆるやかに降下してくる人影があった。
《アストラ……》
動揺をみせたカディーが、彼の名を呼んだ。
長い黒髪が尾を引くようにたなびき、白い衣の裾が空気をはらむ。カディーのかたわらにまで下りて来た創世女神の弟は、ジン達の視線をひるむことなく受け止め、見渡すように視線を巡らせた。
「ジン同士の争いは、わたしが許さない」
多色に光るその眼差しに、ジン達が体をおののかせた。彼らの様子に、アストラは苦笑じみたものを口元に浮かべた。
「反抗的なのはイヴだけではなかったみたいだ。共にある以上は、影響を受けてしまうものなのかな。カロルも、同等の力を持つ元素二人相手では分が悪いことくらい分かっているだろう」
アストラの声色は、子をたしなめる親のそれに似ていた。
「それに――」
ジン達へ順にやっていた目を、アストラはニーナへと向けた。かつてカディーを連れ去った彼の姿は少女の記憶にも焼き付いていたが、突然のできごとに今は呆然と見詰め返すしかできなかった。アストラの目が、笑みの形に細められた。
「リオも、ニーナに味方したようだ」
呟く声量で言い、アストラはもう一度ジン達を見回した。
「四人のジンの力を手にするとは……君は、本当に規格外だ。いや、他のイヴもそれを望んでいたのか」
なにがおかしいのか、アストラは喉を鳴らして笑った。
「これだけの元素を突き動かしたイヴは初めてだ。四大元素を従えたイヴがもたらすのは変革か、滅びか……それを見届けるのも悪くない。星とイヴのあり方が、変わろうとしている」
面白がる様子を隠さないまま、アストラは再びニーナを見た。
「今回はニーナに免じてトロールを退こう」
《でも、それだとソルとルナが……》
「姉達にはわたしからなんとでも言うさ。わたしだって、姉に従うばかりではないんだ」
たじろいだカディーに、アストラは黒髪を掻きながらいたずらっぽく言った。
「カロルはここに残りな。姉達に文句を言われるのはわたしだけでいい。君は、ニーナのジンだ」
火のジンの目が見開かれた。
《いいの?》
「言っただろう。わたしは見届けると。君もその一端だ」
アストラは感慨深そうに腕組みした。
「君達の思う通りにしてみるといい。よほどのことがなければ、わたしは口出しをしないことにするよ。姉達の苦情は増えるだろうけれど、まあ、かまわないさ。過保護なんだ、あの方々は」
肩をすくめて言うアストラが妙に人間臭く見え、ニーナは奇妙な心地になった。姉弟の関係というものは、神々であっても人とそれほど変わらないのかもしれない。人知を超えた存在であるはずのアストラに、わずかながらも親近感を覚えることがあろうとは、ついぞ思わなかった。
そんな思考まで読み取る能力がアストラにあるかは不明だが、彼はニーナを見て、口の片端を不敵に上げた。
「次に会うのは、次代のイヴが生まれる時かな。それ以外でわたしが出て来る必要がないよう、願っているよ」
最後の一言と共に、アストラの姿がかすんだ。白黒の影は瞬く間に輪郭を失い、洗い流されるように消散した。
アストラが消えたと同時に、ジン達の間にあった緊張がゆるんだのが分かった。いつの間にか詰めていた息を吐き出して、ニーナは自身も緊張していたことに気付いた。常に冷静なルーペスでさえ、一声も発さなかったのだ。アストラがいかに並外れた存在か、ニーナはようやく現実味をもって理解した気がした。
ニーナはカディーへと目をやった。彼はアストラが消えた場所を、放心したようすで見詰めていたが、やがて視線に気付いたように振り向いた。
《ニーナ、ぼくは……》
カディーはなにか言いかけたが、ふと目線を下へと向けた。つられるように同じ方を見て、ニーナは、あ、と声を漏らした。
「トロールが……」
見える限り広がり、北を目指していたトロール達が、方向転換を始めていた。人を追っていたものも、急に興味を失ったように歩みを止め、来た方角へ引き返していく。風のトロールが、引き波のように南を目指す色の群れに影を落とし、ニーナ達の横を通り過ぎた。
《神の考え方さえ変えさせるとは。確かに規格外なのかもしれませんね、ニーナは》
感心した響きで言ったルーペスの声は、やや笑みを含んでいた。
《すべて解決したわけではありせんが、まず一つ、大きな目的を達したと言えるんではないですか》
ルーペスが言葉にしてくれたことで、今の状況にニーナの思考が追いついた。目の前の光景がやっと喜ぶべきものとして映り、胸の辺りが熱くなる。シルキーも似たものを感じているのか、発せられた彼女の声にも晴れやかさがあった。
《一度ヘスカルアへ行って、ダワ様とエリヤ様に合流しましょう。お二人も、よい知らせをお待ちのはずです》
「そうね」
風のジンに同意して、ニーナは再びカディーを見た。
「カディーも一緒に」
元々大きなジンの目が、さらに見開かれた。当惑の長い沈黙の後で、彼は苦労するように言葉を発した。
《……いいのかい》
ニーナは自然と微笑み、カディーのそばへ寄って手を差し出した。
「アストラが言ったでしょう、好きにしていいって。あたしは、カディーに帰って来て欲しいって思っているわ。カディーが嫌だと言うなら、無理強いをする気はないけれど」
カディーはまだ困惑を見せて、ニーナから視線を外した。少女の向こうにいる風のジンに顔を向け、わずかに首をひねって、背後にいる地のジンにも目をやる。二人のジンはなにも言わず、ただ静かに頷いた。
ニーナに目を戻したカディーは、そうしてようやく気まずさが薄らいだようだった。
《ありがとう、ニーナ》
差し出された少女の手をカディーがとり、ニーナは万感の思いでその手を握った。そして、家族としてなん度となく交わして来た言葉を互いに口にした。それは、ディザーウッドを出て以来、二人の間でされることがなくなっていたやりとりだった。
「お帰りなさい」
《ただいま》





