7 襲撃
食堂のテーブルにフォルワース州の地図を広げ、エリヤ・ハワードは錆色の髪を刈り上げた男と向き合っていた。男は角ばった指で、街道を示す線を差し、なぞるように滑らせる。
「先日、州都の南で荷馬車を襲った強盗団は、東に逃げ去りました。そのまま一度情報が途絶えていたのですが、昨日、北のナージングの町で一味の一人が目撃されました。それを元に足取りを追ったところ、どうやら奴ら、東の州境近くまで行った後、北に折れてシルワ山麓へ続く道を北上したようです。現在ナージングの市中を自警団によって捜索中です」
男の報告を聞きながら、エリヤは口元に手を当てて思案した。
「アーサー、ナージングの町の出入りは見張っているな」
「もちろん」
「強盗団が町を出たという情報は?」
「今のところありません」
「それなら――」
エリヤは、ナージングと書かれた文字の上に指を置いた。
「町の北と西は薄くしていい。その代わり南と東を確実に押さえるんだ。州外に出してはいけない。西へ出れば、この州都を通らずには州外へは向かうのは難しいはずだし、北はボースリー村がある以外は森と、あとは山脈を越えて国外へ出るしかない。よほどの装備がなくては無理だ」
エリヤの指の動きを追いながら、アーサーは鷲鼻を掻いた。
「動かせる人員としては、ぎりぎりといったところですが、まあなんとかなるでしょう」
「州都はハワード家が直接張っている。西へ逃げられてもここで押さえられるはずだ」
「北へ行った場合、ディザーウッドに逃げ込まれると厄介ですな」
危惧するように言ったアーサーを、エリヤは眼差しを強くして見据えた。
「ああ。だからナージングとボースリーの自警団の連携が不可欠になる。その統率も君に任せたい。できるか」
問いかけの形をとっていたが、それは指示だった。
分厚い胸板の前で腕を組み、ハワード家の私兵隊長は四角い顎をなでながら少し考える素振りをした。だが最後にはやや面白がる様子で口の端を上げた。
「分かりました。やりましょう」
アーサーが退出した後も、エリヤは立ったまま、ゆくゆくは自身が治めることになる領地の地図に見入っていた。
強盗団がまだナージングの市中にいるのであれば、先ほどの指示で問題ないはずだ。だが、すでに町を出てしまっていた場合のことも、可能性として考えておかなければならない。
動員できる人数を踏まえて、とれる行動の選択肢を頭の中でつぶしていると、背の高い少女が扉からひょっこり顔を覗かせた。
「お邪魔かしら」
思考を中断してエリヤが顔を向けると、少女はそっと扉を閉めて食堂に入って来た。
「楽しそうですわね」
「……なにをどう見たらそういう言葉が出るんだ」
エリヤはげんなりして、薄茶の巻き毛を結い上げた妹を見た。彼女の方こそ楽しげな様子で、エリヤの隣に並んでならうように地図を見下ろした。
「これも次期伯爵に必要な下積みですもの。お兄様には頑張っていただかないと」
「言われずとも分かっている」
エリヤは軽くため息をついた。
「ベロニカ、そんなことを言いに来たのではないだろう。なんの用だ」
薄荷色の目を笑みの形に細めて、ベロニカはエリヤの顔を見上げた。
「お兄様にお聞きしたいことがありますの。本当はもっと早くお聞きしたかったのだけれど、なかなか機会がなくて。今日はお目付け役のアマリアが出かけているから、心おきなく話せますわ。お兄様としても、あまり他の方のお耳には入れたくない話でしょうし」
ベロニカがもったいぶるように笑うので、エリヤはぞっとした。警戒を強めながら、言葉の先を促す。
「それで、なんだ」
ベロニカの瞳で光が躍った。
「お兄様を悩ませているものはなにかしら、と思って」
「は?」
拍子抜けして、エリヤは気の抜けた声を出してしまった。
「それなら見ての通りだ。今は強盗が逃亡中で……」
「そうではなくて」
ベロニカはやや強く遮り、少々呆れたような表情をしてから、気を取り直すように続けた。
「お兄様、この間ディザーウッドから奇跡の生還をされて来たでしょう。その後からなんだか様子がおかしいから、なにか悩んでいらっしゃるのかと」
言われて、エリヤは思わず考え込んだ。
あれから間もなく一ヶ月が経とうとしている。しかし変わったことと言えば、あの樹海に人が住んでいる事実を知ったことと、当分は森へ行くのを禁じられてしまったくらいだ。ブレイガム男爵ニコラスは先々週に領地へ帰り、カディーとの約束は守っている。
他に特別な変化はない。少なくともエリヤ自身はそう思っていた。
「変、かな」
「変ですわ。自覚ありませんの?」
「そう言われても、心当たりがなくてはなんとも」
「まあ」
エリヤは正直に言ったのだが、ベロニカはそうは取らなかった。
「わたくしに隠しことができると思っていらっしゃるの? 素直におっしゃられたらいかが。お兄様を悩ませているのはどちらの女性?」
妹の突拍子もない発言に、エリヤはぎょっとした。
「どうしてそういうことになるんだ」
「あら、違いますの? わたくしは絶対にそうだと踏んでましたのに」
「絶対に違う。なにを言い出すんだ」
「ふうん……」
ベロニカは引き下がったが、その顔は納得していなかった。
呆れて、エリヤは長々と息を吐いた。
「君といい、ニコラスといい。どうしてそう、わたしに女性をあてがいたがるんだ」
うんざりして言うエリヤに、ベロニカは芝居がかった仕草で頬に手を当てて憂うように答えた。
「だってお兄様ったら、浮いた話が一つもなくてつまらないんですもの」
「君だって縁談をすべて蹴っている。ひとのことは言えないはずだ」
「わたくしの場合、眼鏡にかなう殿方がいらっしゃらないだけですわ」
エリヤは反撃のつもりだったのだが、ベロニカには効かなかった。兄にまったく話す気がないと分かると、彼女は潔く会話を切り上げた。
「お兄様が言いたくないということでしたら、わたくしはそれでも構いませんわ。探る手立てはいくらでもありますもの」
去り際に片目をつむって見せ、ベロニカは長いスカートを摘まんで食堂を出て行った。
再び一人になったエリヤは、ここで三度目のため息をついた。
妹を嫌っているわけではないが、一緒にいるとどうにも疲れる。彼女には兄をからかうのを楽しみにしている節があり、いつも言動に振りまわされてばかりだ。
エリヤの異性に対する苦手意識の原因の大半が、彼女にあると言えなくもない気がした。
だが、今回ベロニカが言った内容は、エリヤに過去を顧みさせるだけのものはあった。
妹が変だと言い張るからには、心当たりはなくても、身近にいてそう感じさせるなにかがエリヤにあったのだろう。彼女の言う通り、もし――自身でも気付かぬ内に――恋着している女性がいるとしたら誰なのか。
考えながら、エリヤは無意識にテーブルの地図へと視線を落とした。北に連なる山の麓が、森を示す緑で広く塗りつぶされている。
(森で関わったとなるとニーナか……いや、まさか)
輝くばかりのプラチナの髪を思い出しながら、エリヤはその可能性を自ら否定した。
美しいと表現できる少女ではあるとは思うが、初対面からあれだけ正面切って嫌われたのだ。そんな相手に少々の苦さはあっても、好意など持ちえるはずはない。
それでもなんとなく物思いから抜け出せないまま、エリヤは地図に書かれた「ディザーウッド」の文字を見つめていた。
* *
日没後。森へ分け入る、いくつもの影があった。夜空は晴れ渡っていたが、銀の月光は厚く絡み合う梢に遮られて地上へは届かない。足元さえおぼつかない闇の中を、彼らは奥へ奥へと突き進む。
一人が、あ、と声を出し、前方を指さした。そこは他となにも変わらない闇であるようだったが、見る角度が変わると、木々の合間にちらりと灯りが見えた。さらに歩を進めれば、誰の目からも灯りが確認できるようになる。
彼らは目配せし合うと、灯りの方角を真っ直ぐに目指した。
* *
洗い終わった食器を片付けながら、ニーナは小さく欠伸をした。外はすっかり夜の装いで、テーブルのランプと炉の火だけで照らされた室内は暗い。だが、ジゼルは孫の様子にすぐに気付いた。
「ここはいいから、もうお休み」
「え、でも……」
まだ片付けが途中だと言おうとしたが、ジゼルが微笑んで押し止める。
「あと少しだ。やっておくよ」
ニーナは一瞬迷ったが、ありがたく任せることにした。
「それじゃあ、先に休むわ。ありがとう。おやすみなさい」
「おやすみ」
前掛けをはずしながら短く挨拶を交わし、ニーナは梯子を上った。
梯子を上がってすぐのベッドでは、すでにロイが寝息を立てていた。もう一方のベッドは空いている。今日はカディーが留守なのだ。
弟の乱れた布団を掛け直してやり、柔らかい髪を撫でながら額に親しみのキスをした。それから、間仕切りの向こうにある自分のベッドへ向かう。寝間着に着替え、布団に潜りこんだが、ニーナはすぐに眠ることはなかった。
眠る前のこの時間が、ニーナは好きではなかった。それまであった眠気が、束の間覚める。幽々とした静寂は、意識しなくとも彼女を過去の記憶へと引きずり込む。
早く眠ってしまおうと体を丸め、ぐっと目をつむった。一つ、二つと呼吸を数える内に、徐々に気が静まっていく。やがて、眠気が戻ってきた。
緩やかに沈み込む意識に身を任せる。しかし物音を感じて、意識が引き戻されてしまった。なんの音かと、ニーナは上体を起こした。
音は、下の居間から聞こえた気がした。ニーナが布団に入ってからかなり時間が経っているはずだが、祖母がまだ起きているのだろうか。
ベッド横の蝋燭に灯を入れて、ニーナは布団から滑り出た。すると、誰かが梯子を上がって来る音がした。
「おばあちゃん? どうかしたの?」
ロイを起こさぬよう声を低めて、ニーナは衝立から顔を覗かせた。そこにいたのは祖母ではなく、見上げるほど大きな黒い塊だった。
一瞬、夜闇が実体を持ったかに見えた。しかし蝋燭の小さな光でそれが人であることを見出すに至り、ニーナは大きく息を吸い込んだ。
「だ……」
誰なのか問おうとしたが、その前に黒ずくめの人影が目の前に迫り、床に押し倒された。真上に影が覆い被さり、口を塞がれる。感じる体熱と息遣いが、相手が悪意ある人であることを伝え、ニーナは戦慄した。
「姉ちゃ……」
さすがに目を覚ましたらしいロイの声が聞こえたが、鈍い音と共に途切れた。事態に思考が追い付かないままニーナはますます恐慌し、半狂乱になってあがいた。
「おい、なにしてる」
知らない男の声がして、ニーナを押さえ付けている人物が切羽詰まったように答えた。
「ちょっと手伝え。この女、暴れて……っ」
後から現れた男は舌打ちして、横から手を伸ばした。
「口はいい。肩と腕を押さえろ」
いくつもの手がニーナを押さえ込み、気付けば頬が床に押し付けられていた。腕が背中でねじり上げられ、自由がきかない。
「ほら、そっちしっかりつかんでろ。下に連れて行くぞ」
力ずくで引っ立てられ、ニーナはなお抵抗した。
「いやだっ、放して! いや!」
ニーナは叫び、そのまま引きずられるようにして階下へと連れて行かれた。