8 水のジン
高く飛び上がれば、目的のものはすぐに見えた――森が、震えている。
果てなく見える緑の地平が、南から北に向かううねりをともない震えていた。波打つ緑の下を、無数のトロールが這い、駆けているのが分かる。緑のうねりの上を、風のトロールが黄色く塗りつぶすように飛んでいた。
「なんて数なの」
見渡す限りのトロールの大群に、ニーナの声は震えた。
時に木々さえ踏み倒しながら、トロール達が地面を踏み鳴らして押し寄せる。加速した風のトロールが、ニーナ達をよけるように頭上をかすめた。翼に日は遮られ、一帯の緑が色を深くする。
爆発音が、空へ走った。トロールの足音さえ掻き消すその音は、もう聞き慣れたものになっていた。音の方角を見れば、やはり煙が立ち上っていた。
「シルキーはあたしと一緒に砦へ。ルーペスは町を見て来て」
《はい》
風と地のジンが同時に返事をし、身を翻した。
ニーナが砦に駆け付けるまで、爆薬の音は絶え間なく続いた。そこにトロールの悲鳴と、人の叫びまでもが混ざり合い、鼓膜からさらにその奥までも振動した。頭の中心が痺れるような感覚に耐え、ニーナは素早く視線を巡らせる。
砦の南に、これまでのなん倍あろうかという数の大砲が並んでいるのが見えた。それらが次々と火を噴き、押し寄せるトロールを退けようとしている。砲弾を受けた先頭のトロールは、確かにひるんだ。だが圧倒的な数の前では、さしたる足止めにならない。
砦の柵の内側、地面に亀裂が走った。砂礫をまき散らし、はじけた地面から飛び出したのは、緋色のトロール。真紅の尾が振られ、天幕が吹き飛び、柵がなぎ倒される。
「シルキー、砦の中の人を!」
ニーナの声にシルキーが瞬時に反応し、今まさに火のトロールに焼かれ蹂躙される砦へ進路を向けた。
砦の外では、間断なく火薬が炸裂し、しかし煙が厚く重なりかえって、大砲の狙いが危うくなりつつあった。
ついに、戦線から逃げ出す者が現れた。一人が悲鳴をあげてトロールに背を向ければ、それに続く者も出る。逃げるなと叫び留まろうとする騎士もいるが、一度のまれた恐慌から容易く抜けられるはずもない。
森から出でたトロールの脚が、ついに討伐隊の前線に届く――寸前、ニーナの服の中で精霊石がきらめいた。
砂の壁。人とトロールの間に立ち上がったそれは、トロールの猛攻を防ぎ切るほどのものではない。生じた一瞬の猶予に風を起こし、逃げる人々の背を押す。誰もが前だけを見て逃げ惑う中、不意に顔を上げた人物と目が合った。足を止めたその若者がエリヤであることを見てとり、彼の無事にわずかな安堵が胸に落ちる。それも束の間、トロールが砂の壁を突き抜けた。ニーナはとっさに降下をした。
少女と交差するように、灰色のかたまりが飛来した。苔むした岩に似たそれは、エリヤに迫った地のトロールに打ち当たり、ひるんだトロールを両の腕でなぎ倒した。
「ありがとう、ルーペス」
駆け付けた地のジンに声をかけながら、ニーナは呆然としているエリヤの前に着地した。
「エリヤ、よかった」
「ニーナ、これは……」
「話はあと。ルーペス、町はどうなっているの」
ニーナはエリヤの問いかけをさえぎり、早口に言った。
《トロールはすでにいましたが、町に兵士以外の人の姿はありませんでした》
「町に人がいない? エリヤ、どういうこと」
ルーペスの情報を受けて、ニーナがそのままエリヤに問いを向ければ、御曹司は面食らった顔をしてからすぐに表情を引き締めて答えた。
「町の人達は避難している。だが、最後の馬車は出発したばかりだから、まだ近くにいるはずだ」
「トロールはもう町の向こうにも行っているわ。助けに行かないと。ルーペス、シルキーを呼んで。エリヤも来て」
「ニーナ、なにを……」
戸惑うエリヤにかまわず、ニーナは彼の腕をつかんで地面を蹴った。
風の精霊はエリヤもろとも少女を軽々持ち上げた。肝をつぶしたエリヤがとっさの様子でニーナの腕をつかみ返し、いくらか足をばたつかせた。
「飛んでいる!」
「落ちたりしないからじっとして」
動揺するエリヤを一蹴し、ニーナは加速した。
砦と町が、眼下を疾走する。その先にはむき出しの赤い大地があり、砦で防ぎ切れなかったトロール達がそこかしこで砂煙をあげ、黄色い怪鳥が飛び交っていた。
「あれだ!」
エリヤが前方を指さした。幌付きの馬車が二両、踏み固められた街道を疾駆していた。道の凹凸で跳ねるように進む馬車と並走するのは、緋色の鱗を光らせた火のトロール。
「追われてる!」
ニーナが叫んだのと、前を走る馬車の荷台が跳ね上がったのほぼ同時だった。石を踏んだのか、片輪が大きく持ち上がり、勢いのままに横転する。投げ出された人の悲鳴がニーナを震わせた。
もう一方の馬車がたたらを踏むように止まった。だがその真後ろにも、火のトロールはいる。
砂を巻き上げて足止めしようとするも、地中さえ進む彼らを退けるにはいたらない。竜巻で吹き飛ばすくらいのことをすればよいのかもしれないが、馬車まで巻き込むおそれがあった。
《まかせて》
鈴を鳴らしたような少女の声が、ニーナの耳元をかすめた。必死で思考を巡らせていたニーナは、それをシルキーの声だと思った。だがニーナの視界を横切ったのは、青い影だった。
「水?」
水の精霊石を持っていないニーナに、水の精霊の声が直接聞こえることはない。にもかかわらず、現れた水の精霊は瞬く間に、馬車のところまで宙を泳いでいった。すると、最初に現れた一匹に呼応するように、無数の水の精霊が集まって来た。彼らはあっという間に火のトロールを取り囲み、一斉に水を吐いた。水は広がることなく寄り集まり、巨大なドームとなって中に火のトロールを閉じ込めた。
「なにが、起きたんだ」
エリヤが呟いた。彼に精霊の姿は見えないが、突如出現した水の山に驚かないはずがなかった。馬車にいる人々も同様だろう。
ふと思い立ち、ニーナは襟から首飾りを引き出した。金鎖に連なる四つの石は赤、黄、緑――青。
「石の色が……」
母の死と同時に失われたはずの青だった。なにが起きているか飲み込めず、ニーナはその青に見入った。
「ニーナ、馬車のところへ行こう」
真横からエリヤの声がして、ニーナはすぐ我に返った。
「え、ええ」
エリヤに促され、ニーナは首飾りを襟の中にしまいながら下降した。
馬車を追っていた火のトロールはすべて水に取り込まれてもがいていた。それを隙と判断したらしい後ろの馬車に乗っていた者達が、横転した馬車に駆け寄っている。ニーナが倒れた馬車の真横に着地すると、エリヤは真っ先に彼らに走り寄った。
「大丈夫か!」
空から降って来た二人に町民達はいかにも仰天した反応をしたが、見覚えのある騎士の姿にやや安堵を見せた。
エリヤが町民達の安否確認をしている間に、ニーナは上空へと視線をやった。他のトロールを威嚇するように飛び回る、シルキーとルーペスの姿が頭上に見えた。二人に内心で感謝を向けながら、ニーナはさらに首を巡らせた。
「ニーナ」
エリヤに呼びかけられ、ニーナは外に向けていた意識を引き戻した。眉を厳しく寄せた若者が、再びそばまで来ていた。
「御者が怪我をしているんだ。代わりにわたしが馬車を動かして、なんとか彼らを避難させようと思う」
ニーナは頷いて、エリヤの判断に同意した。
「シルキーとルーペスに守らせるわ」
「君はどうする」
「あたしは、カディーを見つける」
ニーナが断言し、エリヤの眉間のしわが怪訝に深くなった。
「カディーが関係しているのか」
「今、トロールを止められるとしたらカディーだけだわ」
ニーナはエリヤを見上げて力強く言った。
「ハルバラドの人達を守るにはそれしかないわ。必ず近くにいるはず。こんなこと、絶対にやめさせる」
ニーナは決意を込めて言った。だが向かい合うエリヤの瞳に浮かんだのは複雑そうな色だった。籠手のこすれる音をさせて、彼の手が少女の頬をなでた。
「無茶はするな」
案じるエリヤに、ニーナはつい微笑んだ。彼の手のぬくもりに、焦りと恐れしかなかった心が緩んだ気がした。
「その言葉、そっくりそのまま返すわ。大丈夫。人の心以外はすべてイヴを守る方向に働くの。誰であっても、あたしに簡単に手出しなんてできないんだから」
ニーナはエリヤの手を包み込むように、そっと頬から引き離した。
「エリヤはあの人達をお願い」
「まかせてくれ」
エリヤと頷き合い、ニーナは身を翻した。





