5 帝国軍
太鼓の音が響いた。どーん、どーん、と一定のリズムを刻むその音に合わせるように、長く連なった赤と黒の色彩が行進をしていた。朱の服に黒の鎧を着た男達が長く隊列を組み、深皿を返したような銀の兜が鈍く光っている。
森からわずかに離れた乾地の中ほど。赤い大地の上をうごめく集団は明らかに異質だった。黄色い肌は東方のものであり、身につけているものも異国の色をしている。
はるかな上空からその全容を見下ろし、ニーナは息をのんだ。
「あれが、サマクッカ帝国の軍隊……」
「そうです。巨大な帝国軍の中でも少数の一部隊に過ぎませんが。戦争で大きくなった国だけあって、軍隊の規模もさることながら、統率技術も確立されている。帝国軍を見れば、ディーリアがいかに戦いを知らないかよく分かります。そして帝国軍は、東の砂漠、南のハルバラドを手中にすることで、二方向から着実にディーリアを射程に入れてきている」
隣を飛ぶルーペスの言葉に、ニーナは驚き直した。
ダワの情報を確かめるため、ニーナ達は再び東へと飛んだ。ニーナは帝国軍がどんなものかを知らなかったが、蠢動する東国の軍隊を見つけるのに時間は要さなかった。それだけ近くまで、彼らは進行してきていた。
広大な乾地を南北に切り分けるかと見えるほどに隊列は長く、大規模だった。黒い鎧と、つるりとした兜は甲虫を思わせる艶を放ち、一糸乱れぬその動きは、ぞわりとした不快感をもたげさせる。
隊列の中にはいくつもの大型の台車も見えた。一台あたり三頭以上の馬に牽引されたそれらには布が被せられ、なにが積まれているかは確認できない。だが彼らが帝国軍であることを考えれば、それがなにか想像にかたくなかった。
「あの軍隊を、トロールで押し戻すことはできる?」
ニーナが確認を兼ねた懸念を口にすると、ルーペスと反対隣にいたシルキーが答えた。
「動員するトロールの数が増やせれば、できなくはないかもしれません。しかし、数が増えればわたくし達だけでの統率は難しくなっていきます。先日のように、極力、人を傷付けないようにとはいかず、大きな衝突となるでしょう――犠牲は避けられません」
そうであろうとは思いつつも、ニーナは苦い心地で唇を引き結んだ。ニーナの様子を横目で見たルーペスが、考え込むように目を細めて息を吐いた。
「どちらにしろ、彼らが討伐隊と合流すれば、大きな掃討作戦が展開されるでしょう。武器もたくさん入って来ています。隊が合流する前になんとかしなければ、衝突は避けようがないと思いますよ。そして今の我々に、できることの選択肢はそれほど多くは……」
不意にルーペスが言葉を途切れさせた。ほぼ同時に、シルキーが息をのむのも聞こえた。一瞬遅れて、二人がなにに反応したのか、ニーナは気付いた――火の気配だ。
遠雷にも似た微動を感じるが、すぐ見える範囲に強い火の気はないように思われる。確実に大きな火が迫っているはずではあるのだか、それはそれがどこからなのか、ニーナは分からなかった。
「下です!」
戸惑うニーナに、ルーペスが声を張り上げた。
地面が震えた。赤い大地が音を立て、人々の足元が泡立ったかのようにぼこぼこと地面が膨れる。土くれを散らしてはじけた土山の隙間から覗いたのは、赤い鱗だった。
「火のトロール!」
声を引きつらせるように、シルキーが叫んだ。
とがった鼻先で土を振り払いながら、緋色の生き物が地面から這い出た。その姿はトカゲに似ていた。這いずる胴の厚みだけで人の背丈に匹敵している。人を飲み込まんとするように口を開けば、体に対し極端に大きな頭がばっくりと裂けたようだった。
予期せぬ地中からの強襲に、隊列が瓦解する。緋色の生き物が、次々と現れては、人に食らいつき、蹂躙していく。体表を覆う鱗が赤や金にてらてらと光り、その様は人を焼き尽くす大火に相違なかった。
炎に踏みにじられた人々の悲鳴に、ニーナは堪らず口を覆った。あまりのことに、かえって耳目を塞ぐことができなかった。襲いかかる火はあまりに凶暴で、ニーナの中の記憶と感情が波打ち泡立った。
こらえ切れず、ニーナは胸元の四連の石を握った。その手を押さえつけるように横からつかまれ、はっとして振り向いた。シルキーの厳しい眼差しが、こちらを見ていた。彼女は言葉を発しなかったが、青紫の瞳に差しているのは主人を守るという断固とした意志。反対からも肩をつかまれ、ニーナは顔を上げた。ルーペスはこちらを見こそしていなかったが、らしくなく寄せられた眉が、彼の言わんとするところを物語っていた。
目の前の凶行に注がれていたルーペスの目線が、ふとそらされた。厳しさはそのままに、右に左にと視線が巡らされる。彼がなにを探しているのか、ニーナはすぐに思い当たったがそれを口にするのははばかられた――トロール以外にも、火が近くにいる。今その火に遭遇しても、どうしたらいいか分からないでいる自分を、ニーナは自覚していた。
太鼓の音がした。その音に我に返ったように、瓦解したはずの隊列が再びまとまりうごめいた。トロールの襲撃を逃れた者達が、円を描くように広がる。太鼓が細かな調子を刻みながら打ち鳴らされる。ニーナにその意味は分からない。しかし兵達は確実に音の指示するものをくみ取り、トロールを取り巻く。トロールに仲間を削られようと、彼らがそれを意に介することはなく、空いた穴を数で埋めていく。
どんっ、と破裂音が轟いた。見れば、火のトロールの一体から煙が立っていた。トロールはうなって首を振り、巨体にしては華奢な前脚で鬱陶しそうに額を掻いた。
それが合図だった。トロールを取り囲んだ人々が距離を詰め、振り被り、なにかを投げた。爆発。無数の轟音が重なり、合わさり、その音と振動がニーナ達のところまで波状に押し寄せる。同時に吹き上がった黒煙が、軍隊とトロールの姿をすっかり隠す。遅れて流れてきた硫黄の匂いに、ニーナは鼻に皺を寄せた。
風が吹き、煙が流れた。薄らいだ灰色の向こうに透けて見えた赤は、帝国兵の着物の朱だけだった。あれだけ猛威を振るっていた大火の獣は姿を消し、彼らが這い出てきた無数の穴だけが地表に残っていた。
爆発の余韻が去り、兵士の群れが移動を始め、ニーナは詰めていた息をようやく吐き出した。寄り添うようにシルキーに肩を抱かれ、ニーナは自分が震えていることに気づいた。
「……消えましたか」
ルーペスが呟き、ニーナとシルキーは揃って彼を見た。地のジンは、トロールと帝国軍の衝突よりも、火の気配をたどる方に意識を向けていたらしい。だが、なん体もの火のトロールに加え、多くの火薬が使われたのだ。たった一つの火の気配を見つけ出すのは、ルーペスと言えど容易ではなかったようだ。
ルーペスはしばらく首を巡らせて気配を追っていたようだが、諦めたように視線を地上へと向けた。
「警告、のつもりなのでしょうね。あっさり退いたのはそのためでしょう。ですが、この程度の攻撃で帝国軍が動じるはずがありません。多少の足止めにはなっても、進行の妨げにはならない」
ルーペスの見解を聞きながら、ニーナもならうように地上を見下ろした。眼下では隊列が再び散り、けが人の救護に兵士達が駆け回っていた。そこだけを見れば、被害は甚大に思える。だが部隊全体を見れば確かに大きな痛手には見えなかった。それでも、一人ずつ地面に横たえ並べられる者達が時間と共に増えて行く。
この度の強襲でどれだけの犠牲が出たのか。それを数えることになるのが嫌で、ニーナは目を閉じた。
「ニーナ様……」
肩を抱く腕にわずかに力がこめられるのを感じ、ニーナは逆らわずシルキーの胸元に頭を寄せた。
「もう無理よ、こんなの……あたし達だけじゃ無理」
いつになく弱りきる主人をいたわるように、シルキーは少女の背中をさすった。
「きっと、手はあります。どうか、落ちついてください」
シルキーは柔らかく言ったが、ニーナは即座に首を振った。
「無理なのよ、今のままじゃ。あたし達だけでは、これ以上は無理。だから――あたし、話してみる」
「え?」
ニーナの言葉に対し、シルキーから返ってきたのは戸惑いだった。当然の反応ではあったが、もはやニーナの中に迷いはなかった。
実を言えば、ずっと以前から考えていることではあった。だが、なにが起きるか分からない状況では、どうしてもためらいを拭えなかった。
帝国軍とトロールの戦いぶりを眼前にして、ニーナの心は決まった。人とトロールの衝突は避けられないかもしれない。それでも、少しでも多くを救う道を探る手段が、今のニーナには他に思いつかなかった。
「あたし、エリヤに話すわ。イヴのことも、トロールのことも全部。彼なら必ず、力を貸してくれる」
* *
援軍と称して押し寄せた軍隊に、ディーリアの騎士達には当然ながら動揺が走った。
目の前の部隊だけで、ハルバラドとディーリアが合わさったトロール討伐部隊の、なん倍の人員がいるのだろう。それだけの人間が砦に納まるはずもなく、帝国の兵達は一部の上官をのぞいて、砦すぐ横に無数の天幕を張って陣とした。簡易ながら柵も拡張され、陣の面積だけでも、元からある砦より明らかに広い。帝国軍が持ち込んだ武器の量も、トロールによって破壊された数を上回っていた。
援軍とはいえこれだけの武力を他国へ差し向けるサマクッカの思惑も気になるところだが、それを容易く受け入れたハルバラドにも、エリヤは危機感を覚えた。
「地中から現れたやつらは爆発に驚いたのか、倒すことはできなかったものの、擲弾による攻撃ですぐに逃げていきました」
バルと名乗ったサマクッカの指揮官は、卓上の地図に指をすべらせ、砂漠から砦までの行程と、その間にあったことを詳細に語った。
バルは東方人らしく彫りの浅い顔をした小柄な人物だったが、威厳ある話し方で他者に侮らせない雰囲気を発していた。鮮やかな朱の服と、脇に抱えた金の兜が存在を誇張しているせいもあるかもしれないが、帝国の大軍隊を率いて来た以上、誰から見ても優れた人物に違いなかった。
「地中から現れた赤いトロール……火山のトロールか」
帝国軍の指揮官からの伝達と報告を聞いて、ハルバラドの指揮官ハカムは細い目をさらに細めて、眉間を険しくした。
砦中央の大天幕に、主立った騎士が呼び集められていた。大天幕はトロール襲撃で一度は破壊されていたが、真っ先に補修されて今は元通りの機能を取り戻している。いつもの顔ぶれにサマクッカの将を加えて、互いの情報交換の場が持たれた。帝国がもたらしたのは、援軍と武器ばかりではなかった。
「やはり、あれがトロールなのか」
バルが念押しするように確認すれば、ハカムはやおら首肯した。
「話を聞く限り間違いない。火山のトロールだろう。砂漠からずっと南の火口付近にしかいないはずだが……空のトロールに続いて火山のトロールまで。一体なにが起きている」
人里が襲われたことから始まったトロールの異変は、それまで縁のなかったディーリアの騎士達の目にも明らかなものになっていた。討伐が功を奏する実感はなく、ただ日を追うごとにトロールの出現が増えていく。無頼のような暮らしに摩耗し、逃げ出す者も後を絶たない。
そんな暮らしからようやく抜け出せるのではないかと、帝国からの援軍を歓迎する者は少なくなかった。だがエリヤには、彼らが本当に希望となりえるのか分からなかった。少なくとも、ディーリア王国から見ればサマクッカ帝国は東からの侵略者には違いないのだ。
帝国軍との協力の方針がまとまり、新たな掃討作戦については後日話し合いをするということで、この日の会議は解散となった。
日が落ちた陣内は、まばらなかがり火がある以外は青い闇に満たされていた。大天幕に集っていた者達以外はすでに食事を終えたらしく、広場では円座してゲームに興じている兵卒の姿もある。上官達の夕食はこれからなので、炉はまだ片付けられておらず、胃を刺激する匂いを立ち上らせていた。
いつもと変わらぬ喧騒のように思われたが、よく見れば朱の服の東方人が数人交じっている。ハルバラドの兵達は彼らを受け入れ、気安く談笑している姿が見られたが、ディーリア人は一歩距離を置いているよう思われた。それが、エリヤの個人的な偏見によりそう見えてしまっているだけならよい。そうでなかった場合、そのまま隊内の分裂に繋がる事を危惧せずにはいられなかった。
エリヤが他の騎士にやや遅れて広場に入る直前、不意に肩が後ろに引っ張られた。驚きよろめいて、慌てて態勢を立て直すように振り向けば、予期せず琥珀の瞳と目が合い心臓が跳ねた。プラチナの少女が、エリヤのマントをつかんで立っていた。





