3 風のジン
中央砂漠南の山脈、ハルバラド側の麓で雨が降った。川を溢れさせ、山肌を削る豪雨だった。雨は三日三晩降り続き、土砂を押し流し、砂漠と熱帯林を繋ぐ山道を寸断した。
ハルバラドは交易路となっている道の復旧のため、軍の派遣を決定した。人足の一部は、ザウィヤに駐留するトロール討伐部隊からも出された。出現するトロールの数や種類が増す中、人員が削られて討伐が続けられるのか、疑問視する声もあったが黙殺された。目に見えた成果の上がっていない現状では、強く出られないのは致し方のないことだった。
親しくなったいく人かの兵から得た情報をダワが伝えると、ルーペスは考える仕草をしつつ笑みを見せた。
「狙い通りにはなりましたね。気象に干渉するのは正直気が進みませんでしたが、人やトロールが傷つくことを思えばずいぶんましです。根本的な解決ではないので、時間稼ぎでしかありませんが」
ニーナも顎に指をあてて頷いた。
「シルキーとルーペスがいたからできたことね。二人がうまく誘導してくれなかったら、人を巻き込んでいたかもしれない。人が減ったこの間に、軍を引きあげさせるか、砦を無力化する方法を考えないと」
討伐部隊の砦からしばらく歩いた森の中の野営地で、ダワを含めた四人は円座していた。ある程度のことは精霊を駆使して知ることはできるものの、人の言葉からでは情報の明瞭さがまるで違う。ダワは砦内で顔を知られてはいたが、持ち前の要領のよさと気受けのよさで、人の口からの情報収集に協力していた。
唇を湿しながら思考を巡らせるニーナに、シルキーが顔を向けた。
「火薬の武器をどうにかすることができれば、トロールを追い払うことも難しくなります」
「それなら、案外できるんじゃないかな」
シルキーの言にダワが反応し、ニーナ達は彼に顔を向けた。地べたに胡坐をかいていた彼は、体勢を正すように足を組み直した。
「火薬を水に浸してしまえばいい。水につければ、成分が溶け出して使い物にならなくなる。火を放り込んで全部ふっ飛ばしてしまうっていうのも手だけど、それはさすがに乱暴すぎるか。量によってはどこまで燃えるかも分からないし。いずれにしても、火薬の保管庫に潜入する必要があるけど、君達なら手があるんじゃないかい」
ダワが上目ぎみに三人の方を見た。ニーナは彼から目をそらして、ジン二名とちょっと顔を見合わせた。
「どう思う?」
「火は確かに伴う危険が大き過ぎますが、水ならあるいは」
低く言ったシルキーの言葉に、ルーペスも頷く。
「それだけではやはり時間稼ぎにしかならないでしょうが、やりようによっては討伐部隊の撤退まで持ち込めるかもしれない」
「火薬の保管は他の武器よりも厳重だろうから、それなりの作戦は必要だろうけどね」
念を押すようにダワが言い、ルーペスは考える様子でふむと唸ってわずかに眉を寄せた。
「少々手荒ではありますが、人の少ない今の内に砦を完全につぶしてしまうという選択肢もあります」
「そんな……」
ニーナは被せぎみに言ったが、こちらを見たルーペスの目は冗談を含んでいなかった。
「放っておけば近い内に人が赤道を越え、どう少なく見積もってもハルバラドは失われることになります。アストラはすでにそのように動き始めているのでしょう。それでも今ならまだ、砦一つで済ませられるかもしれない。砦の無力化という意味では、一番確実ではあります」
ルーペスの言葉は確かにその通りであり、ニーナは小さく唇を噛んだ。この期に及んで、悠長にことを構えている余裕がないのも確かなのだった。
思い詰めるニーナの表情を見て、ルーペスは安心させるように目元を和ませた。
「そういう選択肢もあるという話です。わたしも人を傷付けたくはありませんからね。できるだけ人的被害を出さずに済む方法を考えていきましょう」
人と森を隔てる塁壁の頂上に座りこみ、ニーナは柵で囲われた砦を見下ろした。伝統柄の織り込まれた大小の天幕が文様を描くように並び、その間を兵卒や騎士達がせわしく行き来している。ニーナはその中にエリヤの姿を探してみたが、外に出ていないのか見つけることができなかった。
鈍色の塊となった雲が、遠くに見えていた。それほど待つことなくここまで流れてきて、地上を水で満たすだろう。南国の雨は強く、移ろいも早い。
立てた膝に口元を埋めていると、後ろに気配が立った。
「ニーナ様」
応えずにいると気配はゆっくり真横へと移動し、ややあってからニーナにならうように隣に座った。
「まだ、迷っておいでですか」
気づかう声でシルキーが囁き、ニーナは吐息と同時に目を細めた。
「そういうわけじゃないの。ただ……」
ちょっと言い淀み、ニーナは遠くを見たまま襟から首飾りを引っ張り出した。ダワに貸していた風の精霊石もすでに手元に戻り、日にかざせば四つの石が色違いの輝きを放つ。石を透かして見た景色は歪んで色を変え、ニーナの内心を映し出しているようにも見えた。
「息巻いて、勢いだけでここまで来たけれど、結局あたしにできることなんてほとんどなかったんだなって思って。シルキーとルーペス、なにも知らないダワまで、こんなに考えて、動いてくれてる。それなのにあたしは、一体なにをしてるんだろうって」
エリヤが南に来るくらいなら、自分が来た方が、星のためにも、人のためにもできることがあるに違いないと考えていた。しかし実際にはどうだろう。森の伐採も、トロール討伐もいまだ止めることができていない。シルキーとルーペスは常ならば手を出すことのない気象に干渉し、本来関わりのないはずのダワも国を渡って奔走してくれている。ニーナのしたことといえば、彼らに心配をかけることばかりだ。
「ニーナ様がいらっしゃるから、わたくし達は動いているのです」
静かに、それでもはっきりと発せられた声に、ニーナは顔を向けた。シルキーの瞳は強い意思をたたえており、振り向く動きに合わせて揺らめくように色を変えるその輝きに目を吸い寄せられる。
「ニーナ様が現状を変えたいと望み、行動を起こしたからわたくし達はここにいるのです。そして、ニーナ様の望みを叶えたいと、わたくし達は願っています。それがジンの本能と言われれば、否定はしきれないかもしれません。だとしても、わたくしはわたくしの意思でここにいる。ダワ様もおっしゃっていましたよね。したいようにしているだけだと。わたくしもそうです。そして、ニーナ様が望み、行動を起こしていなければ、わたくしもルーペス様も動くことはありませんでした。それは、とても大きなことです」
ふわりと、シルキーが柔らかく笑んだ。信奉や恭順でなく、親愛からの笑みだった。なにがあっても慕い、隣にい続けてくれる少女に、ニーナは自然と笑みを返した。
「ありがとう、シルキー」
笑みを深めたシルキーの表情を見て安堵する自分を感じ、ニーナはいつの間にか大きくなっていた彼女の存在に感謝した。
* *
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ぽつり、と肌を叩くものがあり、エリヤは顔を上げた。頭上には濃く暗い雲が垂れ込め、灰色のうねりを見せている。ほんの数舜前まで青空が見えていたはずだが、南に来てからは突然の雨に見舞われることは珍しくはなく、エリヤは驚くでなくやや眉を寄せた。間を置かず、また肌に冷たい雫が降って来た。雫はたった一度まばたいた間に、数を増やして視界を白く埋めた。外に出ていた者達は慌てて天幕へと駆け込み、エリヤもそれにならった。
「今日の雨は一段と強いですな」
エリヤの脱いだマントを受け取り、アーサーは重く濡れたそれを自身のマントと一緒に天幕の梁に吊るした。その間にエリヤは、隙間に雨が入り込んだ甲冑をはずし、床に並べていく。
「そうだな。だが、今の砦にいる人数だけでは雨でなくても大したことはできない」
「隊長殿も機嫌が悪そうでしたな。仕方がないことですが」
ぼやくようにいったアーサーの言葉に同意しながら、エリヤは布をとり出して甲冑を拭いた。
討伐部隊の人員は、以前の三分の二になっていた。この数では、出没したトロールを地道に追い払うことはできても、以前のような掃討作戦は難しい。もしディーリアからの援軍がなかったならば、討伐部隊として動くのも難しかったかもしれない。錆が浮かぬよう丹念に甲冑を拭く手を休めることなく、エリヤは考えた。
トロールに襲われたもう一つの町、ハーファに行った者達はあと数日もすれば戻ると思われた。さりとて砂漠と繋がる交易路の復旧にあてられた人員がどれくらいの期間で戻るかは、現時点ではまだはっきりとしない。当分は今の状況が続くと容易に予想された。
天幕を叩く雨の音に、低い雷鳴が交じった。獣の唸り声にも似たその音が、まばゆい稲光をともなって吠え、空気を伝って一帯のものを震わせる。吊るしたランタンが揺れ、手元の影が落ち着かなげに行ったり来たりする。作業のしづらさからエリヤは立ち上がると、揺れを止めようとランタンに手を添えた。
ふと、雨音と雷鳴の間隙を縫って、別の音を聞いた気がした。耳鳴りのように細く甲高く聞こえたその音をもう一度聞こうと、じっと耳を澄ます。
「どうしました?」
立ったまま身動きを止めたエリヤに、アーサーが怪訝そうな声をかける。エリヤは耳に意識を集中させたまま、私兵隊長にはぼんやり返した。
「今、なにか音が……」
今度はエリヤの声をさえぎるほどはっきりと、その音はした――否、これは音ではない。金属がきしむのにも似た、鳴き声。聞き覚えのあるそれに息をのんでアーサーと顔を見合わせ、エリヤは天幕の外へと飛び出した。
天幕を出た途端、痛いほどに雫が肌を叩き、雨音なのか人のざわめきなのかさえ判然としない騒音が鼓膜を圧した。打ち煙る豪雨に視界はかすみ、濁った雨水が地面を流れて淀みを作っている。ぬかるみに足をとられながらどうにか顔を上げるも、降り注ぐ灰色の雨にたまらず眼前に手をかざして目を細めた。
空が光った。青白い光に縁どられ、怪鳥の影がはっきりと姿を現す。雨音さえも掻き消す、甲高い鳴き声が響き渡った。
「空のトロールだ! 配置につけ!」
伝令の怒号が走り抜けた。エリヤはすぐさま踵を返そうとした。だが天幕に駆け戻る寸前、頭上から雨粒を取り込んだ突風が押し寄せ、足を止めてどうにか堪えた。空のトロールは、手が届くのではと思えるほどの低空まで急降下し、弧を描いて再び一気に上昇する。生じた風圧で天幕が一つ吹き飛び、エリヤのいた天幕もひしゃげた。
「アーサー!」
中にいるはずの私兵隊長に向かって叫べば、歪んで半分の高さになった天幕からアーサーがはい出てきた。
「若、これは……」
「それが……」
「森からも来るぞ!」
誰かが叫び、エリヤの言葉は遮られた。
「塁壁に人員を! 大砲を出せ!」
「今やっている!」
叫び合う声は、絶えない雨音と雷鳴にすぐさま掻き消える。だが、騒音の向こう側からわずかに届いた言葉だけで、状況を理解するには十分だった。
「塁壁を見てくる。アーサーはみなに協力を」
「若!」
エリヤは早口に言って、アーサーの制止も聞かず駆け出した。
頭上には空のトロールが次々と飛来していた。金切り声で鳴き交わすのが、いやにはっきり聞こえる。怪鳥は豪雨をものともせず、雨粒を叩き落すように羽ばたいては、人々の混乱を楽しむかのように降下と急上昇を繰り返していた。
風にあおられた雨が四方から打ち付け、跳ね上げた泥で靴とズボンは黒く重く足にへばりついた。全身に泥をかぶりながら、どうにか塁壁までたどり着いたエリヤは、開かれた門扉から外を見て凍り付いた。
塁壁の外にはトロールを迎え撃ち、追い払うための大砲が森に向かって並べられている。その向こう、雨の白いしぶきの合間に、人の体長を軽く超す影がうごめいていた。稲光が空を覆った。影の中で、正円の目玉がらんっと光るのが見えた。いち早く駆け付け、配置についた者達が必死で大砲の照準を合わせようとしているが、ぬかるみに車輪が埋まり、足を取られ――間に合わない。
「退避! 退避だ!」
エリヤは声を張り上げた。声はかろうじて届いたのか、大砲の周りで足掻いていた者達が顔を上げる。迫るトロールとの距離にようやく気付いたように、刹那動きが止まる。稲光にくっきりと姿を現したのは、森のトロール。兵は火打ち箱を放り出し、逃げ出した。
兵卒が逃げた門の方向へと、トロールは顔を向けた。しかしすぐに興味を失った様子で進行方向に向き直る。機敏とは言えない動作で歩む彼らは、高く上げた足で大砲を踏みつけた。木製の砲架は重みに耐え切れずきしんで砕け、鉄の砲身は泥にめりこんだ。
森のトロール達は始めからそれが目的であったように、並ぶ大砲をひとつひとつ踏みつぶしていく。その間に塁壁を守っていた兵卒達も、次々に退避行動をとった。その光景に小さな違和感を覚え、エリヤは束の間恐れを忘れて門からやや身を乗り出した。
(人に、興味を示していない?)
トロールはその場の大砲を破壊しつくすと、先行した一体が塁壁に向かって腕を振り下ろした。壁が震えた。土嚢が裂け、雨を吸った土がかたまりとなってなだれる。さらに次の一体が体当たりし、骨組みの木材がぎしぎしと悲鳴をあげた。立て続けに与えられる衝撃に、きしみがエリヤのところまで到達する。丸太で頑丈に組まれた門までもが強く振動し、エリヤはたまらず後退った。
ひと際強い重低音が轟き、塁壁の一部が崩れ落ちた。それとほぼ同時。門の丸太を繋いでいた綱が切れた。地面に深く打ち込まれた杭は、普段であれば綱一本が切れても直ちに倒れることはない。だが雨水を吸って緩んだ土に、丸太を支える力はなかった。
とっさに引いた足が、泥ですべった。エリヤがしまったと思った時には、鼻先に黒い樹皮が見えた。反射的に目を閉じた途端、横からなぎ倒されるような衝撃に襲われた。
痛みはなかった。正面から風が吹き付けて、前髪がなぶられるのを感じた。遅れて、両足が地面についていない事に気付き目を開いた。天幕の屋根とその間を右往左往する兵卒、そしてゆっくりと進撃する森のトロールが真下に見えた。
羽ばたきの音を聞きつけて顔を持ち上げると、黄色い翼が視界に入った。大きな翼に不釣り合いなほど細い胴に乗った顔が、騒ぐなと言いたげにこちらを一瞥する。黄色い羽毛に囲われてぎょろりと回る青紫の目玉に、エリヤは腹の底が冷えるのを感じた。エリヤの体は、怪鳥の後ろ脚でつかみ上げられ、砦の上空を横切っていた。
エリヤをとらえた空のトロールは、他のトロールよりも小さかった。人間よりも、やや大きい程度だろうか。それで恐ろしさが減るものではなかったが、どこか異質さを覚えた。
トロールはエリヤをとらえたまま砦を離れた。どこへ連れて行く気かと思った矢先、それほど遠くない森の中へと降下した。濡れた草の上に下ろされ、戸惑いのまま振り返れば、小さなトロールも地面に降り立ち、こちらを見ていた。
なにをされるかと、エリヤは身構えた。だが目の前のトロールはその場から動く事も唸る事もなく、こちらを見据える。危害を加える気はないらしい様子に、エリヤは訝しんで眉を寄せた。雨に打たれてもなお張りのある黄色い羽毛が、木立を抜ける風にゆるくなびいている。青紫色の目が、緑や朱に揺らめいた気がした。
トロールが身を翻した。大きく翼を広げる背中に、エリヤは思わず手を伸ばした。
「待て!」
だがトロールがエリヤの制止を聞くはずもなく、その姿は瞬く間に舞い上がり、遠ざかる。枝間をすり抜けた黄色い影は、砦の方角へと飛び去った。小さなトロールが消えた先からは、いまだ轟音と悲鳴が聞こえていた。





