10 仕かけ
議事堂を兼ねたモンスデラの官邸は、礼拝堂に隣接するように建っていた。赤いタイルの貼られた外観はディーリア風に丸柱を並べたものであり、正面の壁には丸い装飾窓がはめ込まれている。
モンスデラの首長らとの会食を終えたベロニカ・ハワードは、メイドに案内を頼んで、あてがわれた客室へと戻った。
モンスデラの官邸は、内装までがディーリア風に寄せて作られていた。砂漠気候で夜間は冷えるので、実用性のある暖炉も部屋に造り付けられている。
オレンジ色の傘を持つ照明に灯を入れたところでメイドを下がらせ、ベロニカはようやく息をついた。
会食には共和国の首長だけでなく、帝国軍の副官カイシャンまでもが同席していた。カイシャンはサマクッカの皇帝の息子だ。今日は初めて顔を合わせたこともあり、腹の探り合いに始終して踏み込んだ話題には触れなかった。それでも、ディーリアからの特使であるベロニカ達と食事を共にした意図は明らかだった。
(まさか、こんな展開になるなんて……)
サマクッカの人間と同席するなど、ディーリアを出てきた時には想定しているはずがなかった。帝国がモンスデラとの折衝に前向きなことをこれだけあからさまにアピールされては、このまま黙っていることもできまい。あらかじめ伝え聞いていればそれなりの準備をしたのだが、今回はその暇がなかったのだった。
だが、直接言葉を交わせる場所にいることには違いない。今回の訪問でベロニカ達に国家間交渉権はなくとも、なにがしかの働きかけは可能なはずだ。
必ず成果をあげてみせると父親に宣言したことを思い出しながら、ベロニカは暖炉の前を行ったり来たりして思考にふけった。
ふと、冷えた空気の流れを感じて、ベロニカは顔を振り向けた。部屋の奥、オアシスを望む窓のカーテンが揺れているのに目が行った。
日は落ちており、オアシスの周りに並べられたかがり火が、隣り合う建物の壁をほの明るく照らし出している。その光を背に浴びた黒い影が窓の前にあり、ベロニカは戦慄した。
人の形をしたその影は少女から見ればあまりに大きく、堪らず後退る。とにかく身を守り誰かを呼ばなければと必死で考えを巡らすベロニカに向かって、人影が微笑むように首を傾けた。
「驚かせてしまってすみません。あなたに危害を加えるつもりはありません。ここから動きませんし、用件が済んだらすぐに立ち去りますのでご安心ください」
ゆったりとした若い男の声に、眉をひそめる。どんなに穏やかな語り口であっても、この状況で警戒を解けるはずもなかった。
部屋の出口まで障害物がないことを横目に確認して、ベロニカは改めて人影を見た。彼は自身で言った通りその場から動く様子はなく、ささやかな灯火を映した瞳だけが様々に色を変えて光って見えた。
「……用件というのは、わたくしでなければならない内容ですか」
思案するように、男がまばたきした。
「絶対にあなたでなければいけないというわけではありませんが、あなたにお伝えするのが一番かと思いまして。あなたの聡明さはかねがね耳にさせていただいています。ベロニカ・ハワード」
はっきりと名前を呼ばれたことで、ベロニカの中で警戒心が増す。男から目を離さないよう意識を尖らせながら、ゆっくりと呼吸した。
「それで、わたくしに伝えたいことというのは?」
男の目が、うっそりと細まった。
「サマクッカに関する情報です。あなたならこれを、有効に使えるのではないかと思いまして」
息をのんで、ベロニカは目を見開いた。
よくよく男の姿を見れば、暗がりで分かりにくくはあるが、砂漠の人々のように焼けた肌はしていないようだった。わずかな灯りであっても顔に落ちる濃淡の影に、整った彫りの深さも見てとれる。頬にかかる癖のある髪は、瑞々しい緑色の艶を放っていた。
「……あなたは、ディーリアの人間なのですか」
「そう思っていただいて差し支えありません。国王レイモンドも、わたしをご存知ですよ」
男の嘘を見出そうと、ベロニカは黙って彼を見据えた。しかしいくら待とうと、その仕草にも眼差しにも動揺が現れることはない。ただ静かに、少女の言葉を待ってたたずんでいる。
ベロニカは深呼吸して、声に威厳を持たせた。
「分かりました。うかがいましょう」
* *
控えめに扉を叩く音を聞きつけて、ブレイガム男爵ニコラス・ヘネシーは、傾けていたゴブレットから顔を上げた。こんな夜更けに誰だろうかと考えている間に、出入り口の扉が再び小さく叩かれる。かたわらの小机にゴブレットを置き、暖炉前の安楽椅子から立ち上がると、ニコラスは大股に扉へと向かった。そして扉の隙間からうかがい見た廊下に少女が立っているのを見て、慌てて扉を大きく開いた。
「これはベロニカ姫。こんな時間にこのような場所へ来られるとは、いかがしましたか」
紳士的に腰を折るニコラスに向かって、ベロニカは強張った表情で口の前に指を立てた。
「どうかお静かに。内密のお話しがあります。中へ入ってもよろしくて」
ニコラスは面食らって伯爵家の令嬢を見た。少女の声は硬質であり、色のようなものは感じられない。それでも女性が夜に男の部屋へ行くなど褒められたものではなく、ニコラスは逡巡した。しかしベロニカのどこか切羽詰まった雰囲気に押され、周囲に目を配りつつ、身をしりぞかせて少女を招き入れた。
慎重に扉を閉めて身をひるがえせば、姿勢を正した令嬢がまっすぐにこちらを見ていた。
顔に落ちかかって来る長髪を、ニコラスは払いのけた。
「それで、わたしにお話しというのは?」
ニコラスは柔らかに問うたが、少女の表情の硬さは変わらなかった。むしろ薄荷色の眼差しが鋭さを増したようにも見えた。
「男爵閣下の手腕を見込んで、お願いしたいことがありますの」
手腕と言ったベロニカに、ニコラスの目がつい細まる。口の端を持ち上げると、男爵は身に着けた最大限の優雅さで、伯爵令嬢に礼をした。
「麗しいご婦人の頼みとあってはお断りするわけにもいきません。おうかがいしましょう。わたしの力の及ぶことでしたら」
慇懃なニコラスにベロニカは口を引き結び、意を決して改めて口を開いた。
「帝国軍の総大将ドルジンと副官カイシャンの対立、および帝国軍内の分裂について、早急に詳しく調べていただけますこと」
* *
翌日、一旦モンスデラの工房に戻って荷を整え直したダワは、ルーペスと連れ立って町を離れた。道をはずれ、人が通らない砂漠の中央へと徒歩で向かう。
昨夜、一人で出かけたルーペスがいつ帰って来たのか、ダワは知らなかった。少なくともダワが眠りについた時にはまだ帰っていなかったし、朝目覚めた時には部屋で当たり前のように寝起きのお茶を飲んでいたのだ。どこへ出かけたのかそれとなく聞き出す試みはしてみたが、本人の言うところの仕かけとやらが滞りなく済んだことぐらいしか分からなかった。
これといった目印がなく、景色からの情報だけでは現在位置がつかめない砂の大地を、先を行くルーペスがずんずんと進んで行く。昨日よりも心なし機嫌がよくも見える大きな背中が、不意に立ち止まった。
「この辺りでいいでしょう」
ダワも立ち止まって辺りを見回してみたが、相変わらず地平線まで砂地が広がっているばかりで、この場所になにかがあるというわけではなさそうだった。
「おれは、どうしたらいい?」
「なにもしなくて大丈夫です。不安があれば、わたしにつかまっていてください。ニーナ達の場所は、この子が知っています」
そう言ってルーペスは宙を掻くようにダワの頭上で手を緩く振った。ダワはそこに、なにかを見出すことはできなかった。
「さあ、こちらへ」
ルーペスが手を差し出し、ダワはやや眉尻を下げた。
「……手を繋ぐなら、女の子がいいんだけどな」
「贅沢言わないでください。置いていきますよ」
ルーペスが呆れ交じりに笑い、ダワは仕方なく彼の手をとった。
体の大きなルーペスにしがみつくのは、男の矜持が傷付く感じがして居心地が悪かった。しかし足が地面から離れるに至り、及び腰になる体をしっかり支えられると、途端に頼もしさを感じてしまうのだった。
「休まず行きます。力んだままでは疲れてしまいますよ」
気遣うように言われてしまい、ダワは苦笑いした。
「それは来るときにもう経験済み。大丈夫、その内慣れるさ」
「そうですか」
軽く言いつつも強張りが解けないダワにルーペスがもう一度笑い、二人は向かうべき土地――南へと顔を向けた。
第五章 了





