6 濃霧
翌朝、梯子を下りたエリヤ達の視界に飛び込んできたのは、鮮烈な赤だった。
今にも燃え広がって、周囲を焼き尽くすかのような緋色の髪。背中まである真っ直ぐなそれを一つに束ねた人物が、こちらに背中を向けてテーブルについている。一見すると線の細い印象はあるが、広く張った肩は男のものだった。
二人の気配に気付いて、彼が座ったまま振り返った。動きに合わせて瞳が緑や朱色に光って見えたが、正面から見ると深い青紫色だった。
「君達が昨日来たっていうお客さんか」
エリヤ達とそれほど歳が違わないだろう若者は、切れ長い目を細めて柔らかに微笑んだ。
正体の知れない相手に、エリヤは一瞬返答に困った。そこへ、もはや耳に慣れた、少女の凛然とした声が響く。
「カディー。そんなの相手にしなくていいわよ」
カディーと呼ばれた若者の前に、湯気を立てるカップが置かれる。それを取りながら、カディーは苦笑した。
「駄目だよ、ニーナ。お客様には優しくしないと」
おっとりと窘められて、ニーナは口を尖らせた。
「するわよ、優しく。お客がこんなのじゃあなければね」
つんとする少女に、カディーはやれやれとでも言いたげに肩をすくめた。
「あら、お二方も起きてみえたんですね。おはようございます」
二人に気付いたパーカー夫人が炉の前から挨拶をし、気後れから脱したエリヤ達もようやく笑みを返した。
「おはようございます」
「どうぞ座ってください。ちょうど食事ができ上がったところですから。ニーナ、ロイを起こしておくれ」
「はーい」
夫人が鍋からミルク粥をよそっている間に、ニーナは炉の横に走り寄った。
昨夜、自分のベッドを追い出されたロイは、仲よくなった猟犬ヤンと過ごすことにしたらしい。犬と身を寄せ合うように、炉の近くに丸まって掛布を被っていた。
居間では会話が繰り広げられ、すぐ横では食事の支度をするパーカー夫人がせわしく動きまわっているのだが、彼が目を覚ます気配はない。
「ロイ。起きなさい、ロイ」
ニーナが少年の肩を揺すぶると、犬のヤンが先に目を覚ました。起こすのを手伝うように、首を上げてロイの頬に鼻を押し付ける。それでもしぶとく眠り続ける彼に焦れたように、耳元で短く吠えた。
そこまでしてようやく目を開いたロイだったが、起き上がっても顔を何度もこするばかりでなかなか動き出そうとしなかった。
「ご飯にするわよ。早く顔を洗って来なさい」
「うん……」
布団を引き剥がし、ニーナがロイを追い立てる。足元が危うい少年を心配するようにヤンも立ち上がり、連れ立って外へと出て行った。
エリヤ達がテーブルにつくと、正面に座る若者が手を差し出した。
「自己紹介が遅れたね。ぼくはカディー。この家に住んでいる」
「エリヤ・ハワードだ」
「わたしはニコラス・ヘネシー」
エリヤとニコラスは、代わる代わるカディーと握手した。二人が名乗ると、彼はやや不敵な笑みを見せた。
「フォルワース卿のご令息と、南のブレイガム男爵か。大変な賓客をお迎えしてしまったみたいだね」
カディーの言に、ニコラスが驚きを表すとともに感心した。
「まさか、わたしのようなしがない男爵を知ってくれているとは光栄だ。北では誰も知るまいと油断していたが、少し身の振り方に気を付けた方がいいかな」
エリヤは横目に、若い男爵を見た。
「君の場合、手を広げ過ぎなのだと思うが」
「北の色白なご婦人は大変魅力的でね。なかなか難しいところだ」
肩をすくめるニコラスに、悪びれる気はないようだった。
ミルク粥を盛った皿が並べられ、顔を洗ったロイもテーブルについた。テーブルは四人掛けだったため、家事をこなすご婦人方に先んじて男性陣で食事を始めた。
「そういえば、食べ終わったら、我々はできるだけ早く出発をしたいんだが」
「無理よ」
エリヤの言葉に答えたのは、ロイの寝具を片付けたニーナだった。
「外を見てみなさい。一寸先は白よ。この霧じゃあ、多分昼まで出かけるのは無理ね」
エリヤとニコラスは、少々困って顔を見合わせた。二人の様子を見たカディーは、食事を進めながら問いかけた。
「急ぎなのかい?」
エリヤは頷いた。
「昨日、森の外に人と馬を待たせたままだったんだ。早く戻らないと人を増やして探しに来るかもしれない」
「なるほど。それは確かに少しまずいね」
カディーは少し考える素振りをしてから、二人に提案した。
「ぼくが森の出口まで送ろう」
「カディー」
不満の声を上げたのはニーナだ。
「今朝帰ってきたばかりじゃない。別にカディーがそんなことしなくたって……」
「困っている人を助けないわけにはいかないだろう」
「でも……」
「これ以上、お客が増えても厄介だしね」
あくまで穏やかな口調を保ちながら、否と言わせないカディーに、ニーナはむくれた。
「人が好過ぎよ」
いかにも不服そうながらニーナは引き下がり、カディーは微笑ましげに笑った。それを驚くべき光景として見ていたエリヤに、カディーが向き直る。
「というわけで、すぐに出られるよ」
「それはありがたいが、霧が出ているのだろう? 迷うことはないのか」
「心配しなくても、ぼくなら目をつむってだって森を抜けられる」
カディーが請け合い、他にあてもないので、エリヤは彼を信用することにした。
「それでは、よろしく頼む」
ニーナの言葉の通り、森は右も左も分からないほど濃密な霧に覆われていた。
近くの樹影がおぼろげに見えるだけで、視界はほぼないに等しい。服の中に忍び込んだ霧が体温を吸い、雨に濡れた時とはまた違った、しっとりとした重さを伝えて来る。
すべてを打ち消す白の中にあってなお目立つ赤い髪を正面に見ながら、エリヤとニコラスは歩いていた。犬がきちんとついて来ているのを確認しながら歩を進めていると、特に会話もなかったところでニコラスが口を開いた。
「カディー、その髪の色は染めているのか?」
ニコラスの素朴な質問に、カディーは笑った。
「これは地だよ。派手な色だろう」
「その色では、どこへ行っても随分と目立ちそうだ」
足を休めることなく、カディーは笑みを苦笑に変えた。
「少し派手すぎるとは自分でも思うよ。正直、あまり気に入ってないんだ」
赤毛とはよく言うものだが、それにしてはカディーの髪色は鮮やかだった。
しかもただ赤いだけでなく、彼の動きに合わせて時折、オレンジがかった輝きを見せる。そのさまは、燃えて揺らめく炎を思わせた。染料で染めたところでこのような輝きが出るとは思えない。
本人が言うように、やはり地の色なのだろう。
急に、カディーが立ち止まった。つられてエリヤとニコラスも足を止めると、彼は緩やかに振り返った。その表情は穏やかだったが、つい先ほどまであったはずの笑みがなかった。
「君達に、言っておかなくてはいけないことがある」
カディーの態度の変化に、エリヤは少し身構えた。
「なんだ」
真正面から二人を見つめ、カディーはわずかに間を置いてから静かに言った。
「この森で見たもの、出会った者について、外で絶対に誰にも言わないで欲しい。そしてできれば、忘れてくれ」
切実な響きと共に、漂う霧の密度が増した気がした。
「なぜ、そんなことを?」
口をついて出たエリヤの問いに、カディーは目を細めた。
「理由は言えない。でもどうか、ぼくらを――ニーナをこのままそっとしておいて欲しいんだ。もしそれが約束できないのなら、このまま君達を帰すことはできない」
カディーの声音は穏やかだったが、神経を刺すような不穏さもはらんでいた。背筋に霧のせいだけではない冷たさを感じながら、エリヤは答えた。
「分かった。約束しよう。君達のことは誰にも言わない」
「わたしも、約束は守る主義だ」
ニコラスもエリヤに続くと、カディーは少しだけ表情をほころばせた。
「それを聞いて安心した。君達は信用できそうだ」
カディーは体の向きを変え、前方を指差した。
「その木立の向こうはもう森の外だ。連れの人ともすぐに会えるだろう」
カディーの言葉にほっとして、二人は前へと進み出た。
「ありがとう。君達には本当に世話になった」
エリヤが素直に感謝を表すと、カディーは笑みを深めた。
「恩を売ったつもりはないよ。だから早く行くといい。森を出たら真っ直ぐ帰るんだ。もう君達と会うこともないだろう」
最後の一言は気になったが、エリヤ達はまた口々に礼を述べて森を出た。
カディーの言う通り、彼らは涙目になった従者とすぐに合流することができた。
従者は、もしもの可能性への対応のために屋敷に戻り捜索に出直すべきかを、検討しているところだった。
結果的にそれは不要になったわけだが、エリヤ達は心配させてしまったことへの愚痴と説教を散々聞かされるはめになった。
エリヤは父親の伯爵から、ディザーウッドに行くことを禁止され、当分の間は楽しみを我慢せざるをえないことに、肩を落とすのだった。