5 動く町
地上に降り立ったニーナは、静まり返った町の様子に眉をひそめた。見渡す町には高床の家がいくつも建っているが、そこに人の気配はなく、乾いた大地にわずかばかりの草が風になびいていた。
「ねえ、本当にここ?」
「そのはずなのですが……」
ニーナが隣に立つシルキーに問いかければ、風のジンは自信なさげに言い淀んだ。
トロール討伐軍が駐留するザウィヤの町から、休みを挟みつつ風で飛んで東へ丸一日。トロールに襲撃されたというハーファの町に二人は来た。
ハーファは、確かに荒れ果てていた。しかしトロールに破壊されたというよりは、住む者がいなくなり、手入れされずに朽ちた印象だった。しかもザウィヤと同じ林業の町と聞いていたが、一帯は所々に砂色の草が茂る以外は赤い地面が露出しており、ぽつぽつと残る灰色の枯れ木と切株だけが、元は森林であったことを示していた。
二人はひとまず町をひとまわりしてみたが、やはり人がいる様子はなく、覗いてみた家も皆もぬけの殻だった。唸って、ニーナは腕を組んだ。
「真っ直ぐ東へ来たわよね」
「それは間違いありません」
シルキーが断言し、ニーナは口元を歪めて考え込んだ。念のため確認してはみたものの、自然を司るジンが方角を間違えるとは、やはり考えにくい。
「やっぱり変よ」
ザウィヤを発つ前にちらとだけ確認した地図を思い浮かべ、ニーナは顎に手を当てた。
「地図では確か、ザウィヤの東はずっと森だったはずでしょう。でも、ここは森が途切れてしまってるもの。ハーファも確か森の縁にあったはずだし、ここは違うのかもしれない」
シルキーは困惑顔で首を傾けた。
「座標は合っているはずなのですが……そうですね。南下して、森の縁を辿ってみましょうか」
南に顔を向ければ、地平線をなぞるように、緑が極細の線を描いているのが見えた。彼方まで続く乾いた大地には目安がないので、そこまでどの程度の距離があるかまでは分からない。だが見えている以上は、風に乗って行けばすぐに着けるだろう。
そこまで考えて頷こうとしたところで、ふと耳元をかすめたものがあり、ニーナは、はっとした。シルキーも同時に気付いたらしく、青紫の目がやや鋭く細められる。
「シルキー、今の」
ニーナの声かけに、シルキーは首肯した。
「トロールですね」
「早く行きましょう」
ニーナは急かすと、駆け出すように空へ舞い上がり、シルキーもそれに続いた。
森林が近くなると、空気を揺さぶる重低音が轟き、薄く立ち上る煙が見えた。
「やっぱり」
胸の内に動揺が走り、ニーナは加速した。その手を、横に並んだシルキーが強くつかんだ。驚いて顔を振り向けると、冷えた色の瞳がニーナに向けられていた。
「焦らないでください。先日のような無茶をされては、今度はわたくしがなにをするか分かりません」
シルキーの声音に込められた険を感じ取り、ニーナは息をのんだ。しかし彼女が怒っていたとしても仕方のないことであり、ニーナは自身への反省も含めて頷いた。
「分かってる。もう、あんなことはしない」
ニーナは言ってはみたが、シルキーは信用ならないとばかりに手を離さず、少女達は手を繋いだまま音の方角へ向かった。
見た目以上に距離があったのか、急く気持ちを反映してか、森林に辿り着くまで思ったよりも時間がかかった。眼下の赤い地面にちらほらと緑が増えていき、やがて一面が密に茂る樹木に覆われる。その赤と緑の境界、緑の側へくさび型に食い込む町があった。その形は、ニーナ達が昨日まで滞在していたザウィヤの町と酷似していた。
町の上空に着いたころには、爆発音はすでにやんでいた。それでも、くさびの先端の方から上る煙が、まだかすかに見える。森の中に降り立ち、木立の合間から慎重に様子を窺えば、広く切り開かれた場所に、町の者と思しき男達が集っていた。彼らが見詰める先に、トロールの気配を感じる。だがそれは森の奥、南へと遠ざかっており、姿までは確認できなかった。
「大砲があるわ」
隣で息をひそめるシルキーに、ニーナは囁いた。半円を描くように並ぶ男達の中心に、見覚えのある鉄の筒が二つ並んでいる。ザウィヤに駐留する軍隊のように、たくさん所有しているわけではないのだろう。それでも、トロールにとっては脅威に違いなかった。
彼らもトロールが遠くへ去ったのを感じたのか、緊迫していた空気を緩め、方々へ散り始めた。ニーナ達の方角に歩いて来る者もおり、二人はは気付かれる前にそそくさと森の奥へ身を隠した。
町から離れ、安全を確かめたところで、ニーナとシルキーは額を突き合わせた。
「ここがハーファの町で間違いなさそうね。こっちは、トロールを追い払うだけで討伐をしてるわけではないみたいだけど」
「そのようですね。ザウィヤから兵の一部がこちらに向かっていますから、今後どうなるかは分かりませんが」
危惧する様子でシルキーが言い、ニーナは顎に指を添えて考えた。
「討伐軍の兵が来る前に、なにがあったかだけでも確認した方がよさそうね。さっきの町に人がいなかったのも気になるし」
話が決まると、二人は大きくまわり込むように森を出てから、乾地と密林の境界線上にある町の入口へと向かった。
町は形だけでなく、緑を背景に高床の家が並んでいる様も、ザウィヤとよく似ていた。だがこちらには軍の駐留する砦はなく、森と町を隔てる塁壁もずっと簡易で低い。塁壁は一部が崩れたままになっており、その手前に倒壊した家屋の瓦礫が積まれていた。しかしそこに至るまでの間には、まだまだ手付かずの瓦礫も山となっている。その下にあるなにかを探すように、老若男女が山を掘り返していた。
目の前の無残な光景に、ニーナは堪らず眉間に皺を寄せた。
「お嬢さん達」
たたずむ少女達に声をかける者があり、二人は揃って振り向いた。そこにいたのは、ふくよかで小柄な中年の現地女性だった。ハルバラドの伝統柄を染め抜いたワンピースを着た彼女は、濃色の瞳に訝しむ色を覗かせていた。
「お嬢さん達、外国の人でしょう。ここは観光に来るようなところじゃあないし、一体なにをしに来たの」
ニーナはシルキーは視線を送り合ってから、女性に向き直った。
「あの、ここってハーファの町ですよね」
二人を見る目に不審げな色を増しながら、女性は頷いた。
「そうだけど、それがなにか?」
「近くにもう一つ町がありましたよね。少し北に行ったところに。あそこはなんていう町ですか」
女性は怪訝そうに首を傾けた。
「北に町?」
心当たりがないのか、女性は頬に手を当ててなん度も首をかしげている。そんな馬鹿なとニーナは思いつつ、自分達が目にしたものを伝える言葉を探した。
「ここから北の、乾地の真ん中に町があるのを見たんです。荒れていて、誰もいないようだったけれど。あそこはなに?」
そこまで説明して、女性はようやく得心がいったようだった。
「ああ、あそこのこと。あそこもハーファよ」
彼女の言うところが分からず、ニーナは聞き返した。
「どういうこと?」
「ハーファだった、と言った方がいいかしら。ほら、ハーファは林業の町だから」
やはり分からずにニーナがいると、それを察してか、女性は言葉を続けた。
「前はあの辺りまでずっと森だったんだけど、最近、伐採の量が増えたのもあって木がなくなっちゃったからね。木のあるところまで町ごと移って来てるのよ」
「町ごと……」
ニーナは唖然とし、思わずまくし立てた。
「でも、南に行けばそれだけトロールに襲われる危険が高まるわ。それは考えなかったの? 現に、こうして町が襲われてしまってる」
「それはそうなんだけど……」
言い淀んで、女性は困ったように口の端を上げた。
「火薬武器が帝国から入って来きて、トロールを追い払えるようになったから――もしかしたら、それでトロールを怒らせてしまったのかもしれないけど」
女性は眼差しにやや影を見せて、広がる惨状へと顔を向けた。
かーん、と木に斧が振り下ろす音が、塁壁の向こうから聞こえた。余韻が消える前にまた同じ音が響き、数を増やして重なり合って行く。町全体に響き渡る軽快な重唱に、女性は目を細めた。
「町を立て直すためにも、わたし達は木を切り続けるしかないのよ」
翌日、夜を町の外で過ごしたニーナ達は、再びハーファの町を訪れた。野宿では拭いきれない疲労感を抱えつつ、ニーナとシルキーは、森の伐採作業を見下ろせる塁壁の上に並んで座った。
果てない海原のようにも見える熱帯林から、斧を振るう音が高くこだましている。その音が溶け切る前に、新たな音が連なるように響いた。切り倒された木々は縄で括って森から引き出され、塁壁の前の広場で出荷の時を待っている。
「サマクッカ帝国、か」
昨日、町の女性から聞いた話を思い出しながら、ニーナは呟いた。
女性は、正体の分からないニーナ達に始めこそ警戒を見せていたが、根は話し好きであったらしい。水を向ければ、彼女の口から流れ出る言葉が止まることはなかった。当り障りのない会話を交えつつ、結果的にハーファについていくらかの情報を得ることができた。
ハルバラドが帝国で作られた武器を無数に保有している時点で、二国の繋がりはニーナでも察せられるものだった。そして、ここで伐採された材木の多くもまた、東へ運ばれているという。材木の行先をはっきりとは聞くことはしなかったが、件の帝国に違いなかった。ハーファはハルバラドの中でもかなり東寄りだ。帝国への距離の近さから、ザウィヤよりずっと伐採量が増えているのだろう。
「見えて来たわね。トロールの動きが大きくなっている原因が」
隣に座るシルキーに語りかければ、彼女は静かに頷いた。
「サマクッカからの材木の大型需要と、見返りとして手に入れた火薬武器。トロールを退ける手段を手に入れたハルバラドは、元々行っていた森林伐採の範囲を拡大し、人が急速に南下を始めた。トロールが町を襲うことになっても、いたし方ないかもしれません」
シルキーの冷静な分析に、ニーナは膝を抱えて深々とため息を吐き出した。
「ねえ、シルキー。このまま人が赤道に辿り着いたら一体どうなるの?」
シルキーは一度ニーナの方を向き、考える様子ですぐに顔を正面に戻した。
「正直、わたくしにも分かりません。ですが、赤道の向こうは女神の領域です。神域に触れれば、町一つで済むことはないでしょう」
「人を守るには、人を止めるしかないのね……」
森と広場を行き来する人々を見下ろしながら、ニーナは膝の上で手を重ねた。
「ここの人達に、今すぐ木を切るのをやめてなんて言えないわ。あの人達のこれまでの暮らしを否定することになってしまう。それに……」
ニーナはかたわらに手を突き、体のひねって塁壁の内側へ顔を向けた。そちらにあるのは、瓦礫の山と、いくつかの墓標。その前に供えられた野花。身内を失う悲哀が、体内を焼くようにニーナを心をえぐる。
「今は、ここの人達が元の生活を取り戻すための収入源が他にないもの。あたしに提案できる代案があるわけでもないし。ハルバラドの軍隊が早く着けばいいのかもしれないけど、それはトロール討伐への潮流も加速させるわ」
手のひらの土を払って立ち上がると、ニーナは森の方を向いて伸びをした。
「なんか、どこから手を付けていいか分からなくなっちゃった」
ニーナは吐息交じりに呟き、従うように立ち上がったシルキーにちょっと目線を向けた。
「エリヤは、このこと知ってるのかしら」
伯爵家の若者の名前をなにげなく出せば、シルキーが淡く笑んだ。
「どうでしょうか。ディーリアにはなにがしかの話が伝わっている可能性はありますが、それが辺境まで届くかは、微妙なところですね」
「やっぱりそうよねぇ」
なんとも悩ましい気分で、ニーナは体の前で指を組んだ。
ハルバラドとサマクッカの関係をエリヤが知れば、トロール討伐から手を引かせることができるだろうか。しかし彼の正義感の強さを思うと、結局は変わらない気もして、ニーナはその考えを頭の外へと追いやった。伯爵家の御曹司は、自身で決めたことについてことさら頑固なことは身に染みていた。
これからどうしようかと、ニーナが思考を戻した時だった。
「おーい」
離れたところから呼ぶ声があり、少女達は振り向いた。塁壁の内側を見下ろせば、こちらに向かって手を振る男が目に付いた。大きな背負子を背負ったその男は、周囲の目も気にせず、瓦礫を避けるように塁壁の下まで駆けて来る。見知った姿にシルキーが嘆息するのを聞きながら、ニーナは苦笑しつつ手を振り返した。
「ダワ、ずいぶん早かったのね」
塁壁の上から声を張れば、東方人の男は得意げに笑んだ。
「おれが本気を出せばこんなもんさ」
胸を張るダワにおかしさが込み上げるのを感じつつ、ニーナはシルキーの手を引いた。
「行きましょう」
シルキーは気が進まなそうに口元を小さく歪めたが、主人の言葉に素直に従い、二人揃って塁壁を下りた。





