4 祈り
ディーリア王国の特使が、東の砂漠の国モンスデラへと発った。若き男爵と伯爵令嬢を乗せた黒い箱馬車は、北東の山地をまわり込んで国境を越え、二週間をかけてかの国へ向かうこととなる。
それにわずかに先行して、地のジンが風の力を借りて、東の空へと飛び立った。瞬く間に小さくなって行くその姿を、塔に残ったジュリアは自室の窓から見送った。
ジュリアの内心を写し取ったように、空には鈍色の雲がかかっていた。緩く畝を描く雲に雨の気配は薄いが、眼下の庭園と町並みの色は褪せ、どこか精彩を欠いる。明るい色調で整えられているはずの室内も、今は灰色にくすんで見えた。
感覚を研ぎ澄ませ、遠ざかる地の気配を追いながら、ジュリアは祈るように両手を組み合わせた。地のジンは、ジュリアがまだ幼かった頃から何十年とかたわらに居続けたのだ。離れるのが不安でないはずがなかった。
窓の縁で、緑の陰が小さく跳ねた。視線を下ろせば、苔に似た毛に覆われた地の精霊が、窺うように体を傾けてこちらを見上げている。ジュリアはかすかに微笑むと、丸く短足なその生き物をそっと撫でた。塔を発つ前、ルーペスが部屋を跳ね回る精霊達に、ジュリアを守るようによくよく言い聞かせていたのを、彼女は知っていた。
「可哀そうに」
唐突に声がして、ジュリアは息をのんで振り向いた。塔に入れる人間は、イヴしかいないはずだ。にもかかわらず、彼女の背後に、若い男が立っていた。彼はジュリア越しに窓の外を見ているようだったが、彼女が振り向くと共に視線を合わせて来た。
動きに合わせて多彩に輝く青紫の眼差しと、誰よりも長く艶めく黒髪に覚えがあり、ジュリアは言葉を失った。
若者は不機嫌そうに眼を細くした。
「最近のイヴときたら、なぜ揃いも揃って、ジンの気持ちを蔑ろにするのか」
純白の衣の裾を揺らし、若者は窓辺へ寄ってジュリアの真横に並んだ。若者が手を差し出せば、地の精霊が身を摺り寄せるように掌に乗る。彼は精霊を持ち上げると、慈しむ動作で包み込むように撫でた。
息を詰めてその様子を見ていたジュリアは、ようやく声を絞り出した。
「アストラ……一体なにをしに来たの」
創世女神の弟神は、精霊を抱いたままジュリアを一瞥した。
「イヴ達があまりにも勝手をするから、少し苦情を言おうかと思って――ジンを、あまりいじめないで貰いたい」
言いながら、アストラは地の精霊から手を離した。精霊は浮かび上がるように宙がえりをして、もといた窓の縁に着地する。アストラは体を反転し、窓の縁に腰を預けて立ち、ジュリアを見た。
「ジンを遠くへやってしまうなんて、君もイヴの自覚が足りないのかな。それとも、娘の破天荒に感化されてしまったのか。どちらにせよ、ルーペスがあまりに可哀そうだ」
責める響きでアストラに言われ、ジュリアは痛む胸に手を当てた。
「ルーペスには、申し訳ないと思っているわ。でも、わたしくは間違っているとは思わない。この星と人の未来の為に、守るべきはニーナだもの」
ジュリアは、自身の手へと視線を落とした。肉はそげ、節が目立つようになったその手に、かつてのような張りが戻ることはない。老いは確実にジュリアの体を蝕み、イヴの力も日々衰えて行くのを感じる。もはや満足に役目を果たせなくなった自分の、この星での価値はなにか、ジュリアは考えるようになっていた。
そんな彼女の思いを見透かすように、アストラが鼻を鳴らした。
「確かに、今、イヴとして重要なのはニーナだろう。でも、手塩にかけたジンが苦しむのは、やはり気分が悪いものでね。ジンにとって、ただ一人のイヴがすべてである以上、それを守らずにはおけない」
アストラの瞳で朱色の光が揺れ、眼差しに険が宿った。
「正直に言えば、わたしはイヴが嫌いなんだ。わたしがどんなに大切に育てても、ジンはイヴに縛られ、イヴのために傷付く。イヴの守護者として生み出された存在である以上は仕方ないが、あまりに報われないと思わないかい。命さえも、イヴに左右されるんだ」
「それは……」
返す言葉が見つからず、ジュリアは口をつぐんだ。アストラが、皮肉っぽく口の片端を上げた。
「せめてイヴのそばで幸せにあればと思っているけれど、当のイヴがそれをさせないのであれば、文句も言いたくなる」
窓の縁から腰を浮かせ、アストラは再びジュリアの背後にまわった。ジュリアは振り向かず、背筋を撫ぜるような彼の気配に息を詰めた。
「リオの二の舞はごめんだから、ひとまず強行な手段に出るつもりはないけれど、あまり目に余るようであればわたしにも考えがある」
後ろから、ジュリアの両肩に手が置かれた。
「今の君に、ルーペスに守護されるほどの価値はない。彼をリオやカロルのようにすることがあれば、わたしが許さない」
耳元で囁き、アストラはジュリアから離れた。瞳一つ動かせず立ち尽くす彼女の背で、若者の気配が溶けて行く。やがて気配が完全に消え去ると、糸が切れたように体の強張りが解け、ジュリアは膝を突いた。
心臓を握り込まれるような心地から解放された途端、額から汗が噴き出した。アストラと対面したのは、ジュリアがまだ娘だった折以来だ。ジンや精霊とは違う圧倒的な空気が、彼が神であることを改めて彼女に思い知らせた。
リオ、とアストラは言った。もうずいぶんと聞いていなかったその名に、隅へ追いやっていた記憶が引きずり出される――リオは、エベリーナのジンだった。哀れなジンの末路は、今でもジュリアの胸をさいなんでいる。そしてその憂いは、エベリーナによって次代のジンにまで引き継がれた。
深く息を吐き、ジュリアは胸を押さえて震えた。
リオを知っているからこそ、ジュリアのルーペスに対する罪悪感は強い。それでもあえて、今は離れることを選択した。アストラが言っていた通り、今の彼女に、守られるべき価値は失われてしまっているのだ。
どうか、とジュリアは祈った。
(ニーナと、この星の命を守って……)





