3 特使
ベロニカは扉の前に立つと、今の自分の姿を確認した。花柄の織り込まれた深緑のドレスは自分の薄荷色の瞳とよく合っているし、結い上げた巻き毛も後れ毛なく整っている。化粧にも乱れがないよう、部屋を出る前にきちんと鏡を見て来た。
背筋を正すと、ベロニカは右手を上げて目の前の扉を叩いた。
「入りたまえ」
返答があり、伯爵の側近によって扉が開かれた。
フォルワース伯爵の街屋敷の執務室は、図書室を兼ねていた。入って左の壁は一面が書棚となっており、各地から買い集められた本が所狭しと敷き詰められている。正面奥にはタイル貼りのマントルピースを持つ暖炉があり、部屋の主はそれを背にするように据えられた執務机に向かっていた。
足音を消す絨毯を踏みしめてベロニカが進み出れば、伯爵は顔を上げ、緊張を表情に見せる長女の姿に目を細めた。
「わたしに話があるそうだな」
伯爵が先に口を利き、ベロニカは動悸を押さえ込むように胸の前で両手を重ねた。
「お父様に、お願いしたいことがあります」
伯爵は体を起こして、椅子の背もたれに身を預けた。
「言ってみなさい」
父に促され、ベロニカは深呼吸して意を決した。
「ブレイガム男爵閣下がモンスデラ共和国へ派遣されるとお聞きしました。そして、女性の同伴者を探されていらっしゃるとも」
一度言葉を区切り、ベロニカは伯爵の様子を見た。だが彼は、眉間にかすかな皺を一本増やしただけで、それ以上の反応は示さなかった。唇を湿して、ベロニカは続けた。
「わたくしに行かせてはいただけませんか――いいえ、わたくしに行かせてください」
しばらく沈黙があった。ベロニカは息を詰めて伯爵を見つめ、伯爵もなにか考える様子で微動だにしない。じりじりとしたもどかしい間の後で、ようやく伯爵が口を開いた。
「まずは、お前がそうしたいと願う、理由を聞こうか」
ベロニカは背筋に力を込めた。
「わたくしは、異国を見たいのです」
伯爵の眉がひそめられたが、ベロニカはなにか言われる前に言葉を継いだ。
「お兄様が同じことを言って、ハルバラドへ行ったのは知っています。お兄様が許されるのなら、わたくしだって許されていいはずです」
伯爵は厳しい表情のまま、机の上で指を組んだ。
「なるほど。だが、エリヤへの対抗心だけが理由ならば、賛成しかねることだ」
「もちろん、それだけではありませんわ」
ベロニカは小さく口の端を上げて見せた。
「ブレイガム男爵閣下は中立を宣言されているとはいえ、革新寄りの方。モンスデラで戦争を招く働きをされないとも限りません。ならば、同伴者は保守派から出すのが妥当であるはず。ですが、真に革新派というわけでない男爵閣下の同伴ですから、保守派でも中心に立てる方よりも、娘であるわたくしくらいの立場の人間がちょうどよいのではありませんこと」
父を見据える眼差しを、ベロニカは強めた。
「わたくしは保守派ハワード家の娘です。ですが、革新派の方々から異国を知らないゆえの保守などと言われたくはありません。異国を知ってこそ、守れるものはあるはずです。お兄様がご自身の正義を貫かれるなら、わたくしだってわたくしのやり方で、ディーリアを守ってみせますわ」
ベロニカが一息に言い切ると、伯爵はやや唸って、組んでいた指を解き顎に添えた。
「お前の言いたいことは分かった。確かに、もっともな言い分かもしれない」
伯爵は言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「だが、お前である必要はない。こういった任に着くのは多くの場合、既婚婦人と相場が決まっているし、適任者は他にいくらでもいる。本来であれば、お前に要請されるなどまずないことだ」
顎をなん度か撫で、伯爵はベロニカを見据える。
「正直、お前のような娘を戦闘中の他国へやるような危険はおかしたくはないが――お前が相応の覚悟を持って言っているのであれば、考えなくはない」
期待が高まり、ベロニカは胸の前で手を組み合わせた。
「必ずやり遂げてみせます。ブレイガム男爵閣下はお兄様のご友人でいらっしゃいますから、わたくしもよく存じておりますし、うまく協力できれば、より確実で大きな結果も残せるとわたくしは思っておりますわ。どうか、行かせてください。保守派の娘だからと、屋敷に引きこもってなどいたくはないのです」
ベロニカが言い募れば、伯爵は机に肘を突いた。いくぶん眉を開いた彼は、固い決意を瞳に燃やす自分の娘に、小さく息を吐く。
「分かった。議会でかけ合ってみよう。そこまで言うのならやってみなさい」
ベロニカは瞳を輝かせた。
「ありがとうございます、お父様。大好きです。必ずや、ハワード家の娘として恥じない成果を上げてきますわ」
「あまり期待しないで、報告を待とう」
言いながら、いつも渋面の多い伯爵が珍しく微笑んだ。その顔は、大領主ではなく我が子を見る父親のものだった。
「どうやらわたしは、お前達を自由に育て過ぎたようだ」
* *
温めておいたカップにお茶を注ぐと、湯気を立てるそれをルーペスはジュリアの前に置いた。
「ありがとう。いい香りね」
カップを持ち上げて微笑む主人に、ルーペスの表情も自然とほころぶ。
「ブレンドを少し変えてみました。口に合えばいいんですが」
干し葡萄のケーキをルーペスが取り分けている間に、ジュリアは爽やかな香りの立つお茶を口に含んだ。お茶の甘みを舌と喉でゆっくりと楽しみ、彼女は目尻を下げた。
「とっても美味しいわ」
主人の反応に満足しながら、ルーペスは自分のカップを取って彼女の隣に座った。
こうしてジュリアと並んでお茶を飲む時間が、ルーペスの至福だった。彼女は物静かなわけではないが、決して活発なタイプではない。ただ静かに、穏やかに暮らすことを望んでおり、ルーペスはそれを叶え、寄り添うことを喜びとしている。ジュリアは年齢の影響か、最近では体の動きが悪くなって来たようだが、ジンに老いはないのでルーペスが手助けすれば問題ない。むしろ、ジュリアに頼られ力になれている嬉しさも、どこかにはあった。
「そういえば、モンスデラへ派遣されるブレイガム男爵の同伴者は、ハワード家の娘に決まったそうですよ」
「まあ、あそこのお嬢さんが?」
ルーペスが外で得て来たことを話題にすると、ジュリアは灰色の目をわずかに見開いた。
「同伴者は保守派から出されるとは思っていたけれど、ハワードのお嬢さんは意外ね」
「自分から名乗り出たそうです。大人しい女性ではないとは聞いていましたが、彼女の兄もトロール討伐に志願していますし、保守派と言いつつ豪胆な血族かもしれませんね。まあ、そうでなければ北の雄にまで上り詰めていないのでしょうが」
少し考える表情で、ジュリアはお茶を飲んだ。
「そうなると、今回の特使はずいぶんと若いのね」
「若いとは言っても、正統に爵位を持つ者と、ハワード家の長女ですから、それほど失礼ということもないでしょう。ブレイガム男爵は要領のいい若者ですし。レイモンドも取り立てて心配はしていないようです。今回の特使でより詳しく東の情報を得られれば、帝国とハルバラドの繋がりもなにか見えるかもしれませんね」
ルーペスが見解を述べると、ジュリアはやや難しい顔をしてカップを置いた。その様子をルーペスが怪訝に見やると、ジュリアは正面から彼の目をとらえた。
「ルーペス、お願いがあるの」
「どうしました。改まって」
一瞬ためらうような間があってから、ジュリアは告げた。
「東へ行っては貰えないかしら」
ジュリアの言うところをつかみ損ね、ルーペスは束の間黙った。動揺を抑えるようにおもむろにカップを置いて、主人に向き直る。
「わたしに、東へ行けと」
ルーペスが慎重に確認すると、ジュリアは頷いた。
「南のハルバラドにはニーナが行っているわ。かの国が帝国となにがしかの繋がりを得ているのなら、ニーナが成そうとしていることにも関わっているかもしれない。精霊から得られるものは知れているし、人から伝わるには時間がかかり過ぎるわ。東の状況を探ったら、そのままニーナの所へ行って力になってあげて欲しいの」
震えを押さえるように、ルーペスは自身の胸に手を当てた。痛みさえ感じるほどに、鼓動が速くなっていた。
「わたしに、一人で行けと、そう言うのですか。……ジュリアを置いて」
ジュリアは静かに微笑んだ。
「わたくしは行けない。もう体が言うことをきかないもの。だから、あなたに頼んでいるの」
「それなら余計に、離れられるはずがない」
思わず声を大きくして、ルーペスは立ち上がった。
狼狽え取り乱す彼を、ジュリアは真摯な瞳で見上げる。揺るがない静けさをたたえた主人の眼差しに、ルーペスはたまらず、彼女の前に両膝を突いた。
「ジュリア、どうして……街に買い物へ行くのとはわけが違うんですよ。いつ戻って来られるのかさえ分からない。わたしがいなくなったら、あなたが一人になってしまう」
痛切に言い募るルーペスの手を、ジュリアは握った。
「分かっているわ。でも、大丈夫。ルーペスのように手際はよくないけれど、一通りのことはできるし、一人でもなんとかなるわ」
「ですが……わたしは、ジュリアのジンだというのに」
顔を悲痛に歪めるルーペスをなだめるように、ジュリアは彼の苔色の髪を撫でた。
「あなたにとって酷なことを言っているのは分かっているわ。でも、これから先、この星を支えて行くのは老いたわたくしではなく、ニーナなの」
「ジュリア、しかし……」
「これは命令よ。ルーペス、東へ行きなさい。そして、困難に立ち向かっているニーナを、どうか助けてあげて」
主人の鋭い声音に、ルーペスは表情から見る見る力を失い、やがてうなだれた。
「……あなたはずるい。そんな言い方をされては、逆らえるはずがない」
意気消沈するルーペスの頭を、ジュリアはそっと抱きかかえた。
「ごめんなさい。でも、精霊の目と、人の言葉を持つあなたにしかできないの――ニーナと、この星の人々を守って」
愛すべき主人の香りに包まれながら、ルーペスはその胸に頬を寄せた。老いて痩せた彼女の温もりに、切なく目を伏せる。ルーペスに人の性にまつわる感情は理解できないが、ジンがイヴに寄せる気持ちは、人が恋と呼ぶものに似ているのかもしれない。それが抗いようのない本能によるものだとしても、彼女と離れると考えるだけで、ルーペスの胸は締め付けられた。
ルーペスは肩と瞼を震わせてやっと顔を上げ、ジュリアを見詰めた。
「分かりました……あなたがそれを、望むのなら」
身を二つに裂かれる思いで、ルーペスは答えた。





