1 令嬢
フォルワース伯爵令嬢ベロニカ・ハワードは、無蓋の馬車の上でつば広の帽子をかしげ、緩い土手に囲われた野外競技場で行われているものを見物していた。周りには彼女と同じように、なん人もの貴人達が馬車を留め、あるいは並木に騎馬を繋いで土手に立ち、物珍しげに競技場を眺めている。
緑の芝が敷かれた広々とした競技場で現在行われているのは、技術やチームワークを競い合う競技会ではなく、デトラフォード公爵の招集に応じた兵士達による軍事訓練だった。
東のサマクッカ帝国が征西を始めたとの報せがあったのが約三ヶ月前のこと。だが大陸中央の砂漠は広大であり、大軍を率いては簡単に踏破できるものではないと、ディーリアの貴族の多くは静観していた。好戦的とされる革新派の人間でさえ、帝国の軍勢をどう迎え撃つべきかで保守派と対立の姿勢を取りつつも、それほど真剣でない者が少なくなかった。
ところが、このたった三ヶ月で状況は一変した。サマクッカ帝国が、砂漠の二つの交通路の内、北の山脈沿いを通る北路の東半分を瞬く間に制圧してしまったのだ。帝国軍は現在、砂漠中央やや西寄りに位置するモンスデラ共和国の手前、シャルクの町に駐留している。モンスデラが落ちてしまえば、破竹の勢いのあるサマクッカ帝国はあっという間にディーリア王国まで手を伸ばしてくるだろう。
ディーリアの議会は、モンスデラへ援軍を送るか否かで革新派と保守派が真向から対立した。そして、王の詔勅を待たずして、デトラフォード公爵が私軍を立ち上げた。公爵はデアベリーからほど近い公領にある競技場を練兵場とし、派手な演習を始めたのだ。
ディーリア王国は大陸でも大変歴史が古く、その上で武力侵攻なしに発展して来た国だ。ハルバラドへのトロール討伐軍に続き、モンスデラにまで援軍を派遣するとなれば、過去に例のない事態と言えた。
外の散策にはまだいささか冷える時季ではあるが、競技場見物に来ている人々を見れば、やはり公爵の軍隊になんらかの関心を持っている者は少なくないのだろう。もちろん、ベロニカのような、敵情視察も含めて。
(お兄様ったら、肝心な時にいないのだから)
兄の南行きはなんとしても止めるべきだっただろうかと思ってしまう。兄が恋しいとか、どうしても力が必要とか、そういったことでない。彼は宮廷での駆け引きや騙し合いに興じるよりも、トロールに立ち向かっている方がよほど生き生きしているだろうことが分かるからだ。
兄が頼りにならないという意味ではなく、自分が物憂い時に、彼が楽しそうにしているのが気に入らない。実際に見たわけではないのだが、ベロニカは兄がトロール退治を楽しんでいるに違いないと勝手に決めつけていた。
「ねえ、アマリア。トロール討伐に向かった志願兵と、ここにいる軍隊の違いはなんだと思う?」
ベロニカは、同じ馬車の斜め向かいに座るお目付け役に問いかけた。アマリアは赤茶色の眉をわずかに寄せてから、澄ましたように居住まいを正して答えた。
「トロール討伐の皆様は、若様も含めて、ハルバラドの人々をトロールの脅威から救うという大義のために志願されたのです。しかし、ここの方々は戦争のために集った軍隊である以上、人を殺すことを目的とされています。ハワード家の皆様が関わるべきではございません」
四角四面なアマリアに、ベロニカは冷めた視線を投げかけた。
「ここの方達だって、帝国から王国や同盟国を守るために集まっているのよ。それは、大義とは言えないのかしら。トロールから人を守るのか、人から人を守るのか、それだけの違いではなくて」
「お嬢様、そのような言い方をされては……」
アマリアが衰えの表れ始めている目元をしかめたので、ベロニカは肩をすくめた。
「意地悪を言ってしまったわ。それでも、わたくしは言うほど大きな違いはないように思えてしまうの。むしろ、王国に対する直接的な貢献度で言えば、ここの方々の方が分があるかもしれないわ。トロール討伐への出兵だって、間接的にはディーリアのために違いないけれど」
揃いの黒い軍服を着て行進や集合離散を繰り返す人々を眺めながら、ベロニカはぼやくように言った。
「お兄様は異国を見たいと言って南へ行ったけれど、こんな軍隊を編成する公爵だって、ある意味では異国を見ているのだわ」
自分はどうだろうかと、ベロニカは考えた。
国外の情勢は宮廷にいれば勝手に得られるものだ。だがそれに関心を向け、熱量を傾けられる者がどれだけいるだろう。少なくともベロニカは――本当に戦争にでもならない限り――異国など知らなくても伯爵令嬢としていずれかの貴族に嫁ぎ、安穏と暮らすことも可能だ。だが、それも大変につまらない人生だとも思えた。
アマリアが咳ばらいをし、ベロニカは彼女へ視線を戻した。お目付け役の苦みある眼差しがこちらを見ていた。
「差し出がましいことを申し上げますが、今のは少々、保守派のハワード家の姫君としてはあるまじきお言葉かと。どこで誰が聞いているとも限りません」
ベロニカは、ちょっと息を吐いた。
「分かったわ。でもここにいてはまた余計なことを言ってしまいそうだから、帰りましょう。出してちょうだい」
ベロニカの指示で、馬車が動き出した。冷えた風を顔で感じながら、伯爵令嬢は遠ざかる競技場を小さく振り向いて見た。規律のとれた軍隊が一糸乱れぬ動きを淡々と行っている様は、美しさもあるが、不自然で人ならざるものに見えることもある。小さな嫌悪感が、ベロニカの眉間を撫でた。
(お兄様がトロールから人を守るのなら、わたくしはわたくしの方法で、人から人を守ってみせるわ)
保守派の姫君として持ち上げるのであれば、戦争を避ける行動を止められる言われはない。手段は違えど、兄にできて自分にできないことはないのだと、ベロニカは真剣に考えていた。





