18 惜別
目覚めると、天幕の中にいるのはニーナだけだった。寄り添って眠っていたはずの若者の姿はなく、わずかな困惑と共に緩慢に身を起こす。天幕の細い隙間から差し込む光は白く、外からはすでに、人々が活動を始めているだろう喧騒が聞こえていた。身支度を整えて戸外に出れば、日は高く、少々寝坊をしてしまったことが分かった。
「ニーナ様」
日差しの眩しさに目をすがめていると、斜め向かいの天幕からシルキーが駆け寄って来た。
「おはようございます。ご気分は、いかがですか」
気遣う表情を見せるシルキーに、ニーナは微笑みを返した。
「おはよう、シルキー――ごめんなさい、心配かけて。あたしは、もう大丈夫。シルキーこそ、なんともない?」
安心させるために手を握れば、シルキーはほっとしたように顔を綻ばせた。
「わたくしはよいのです。ニーナ様さえご無事であれば。それよりも、なにかお食べください。昨夜から、なにも召し上がっていらっしゃいませんよね。ニーナ様の分の朝食は、取っておいていただいています」
言われてみれば確かに、体は空腹を訴えていた。
「そうね。ありがとう」
ニーナ達はそのまま並んで広場に向かったが、食事時に出されているテーブルとベンチは、すでに片付けられていた。それでもシルキーの言う通り、彼女達の分は別で取ってくれていたので、天幕へ持って行って食べることにした。
香辛料の匂いがこもるため、出入り口の戸布を開け放したまま、少女達は小テーブルで向かい合って食事をした。
「ニーナ様がお目覚めになる前、気になる情報が入って参りました」
お馴染みになった辛いスープをすすっていると、シルキーが改まった表情で切り出した。ニーナは一旦スプーンを置いて、眉をひそめた。
「なにがあったの」
「昨夜、ここより東にある町が、トロールの襲撃を受けたそうです」
「なんですって」
ニーナは思わず声を大きくした。信じられず、額に手を当てる。
「また町がトロールに襲われるなんて……一体どうなっているの」
「まだ詳しいことは分かっていません。ですが、ここの兵の一部も、そちらに向かうようです」
顎に手を当てて、ニーナは考え込んだ。
「あたし達も、そちらに行ってみた方がいいかもしれないわね。こことは違ったものが、得られるかもしれない。町の場所は分かる?」
「確認済みです。いつでも発てます」
シルキーの手際のよさが頼もしく、ニーナは思わず笑んだ。異国に来て以来、彼女の存在がどれだけ支えになるか、身に染むようだった。得難いパートナーに、ニーナは頷いて見せた。
「それなら、食べ終わったらすぐに出発しましょう」
* *
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話し合いを終えて大天幕を出たエリヤは、歩きながらため息をついた。今からなさねばならないことを思うと、やむを得ないとは言え、少々の憂鬱さを感じずにはいられなかった。
「今回ばかりは、仕方がありませんな」
半歩後ろを歩くアーサーが、エリヤの様子を察したように口を開いた。
「なんと言うか、ままならないものですな。せっかく思いが通じたと言うのに」
エリヤはぴたりと足を止めた。苦々しく顔を歪め、ハワード家の私兵隊長の方を振り向く。
「アーサー……さすがに趣味が悪いんではないか」
しかしアーサーは動じず、肩をすくめただけだった。
「わざわざ立ち聞くほど野暮じゃありませんよ。昨夜は気をきかせて外で寝て差し上げたんです。これくらい言わせて貰わなくては。それに、一晩同じ天幕にいたんです。もう噂になってますよ」
「…………」
反論の中身がなく、エリヤは忌々しい心地で顔を正面に戻して歩行を再開した。
今朝の話し合いで討伐隊長ハカムは、ニーナのディーリアへの送還を命じた。昨日の討伐ではいくつもの事象が妨げとなって不首尾に終わったわけだが、そこには確実に、ニーナが大砲の前に飛び出したことも入って来るのだ。ニーナの滞在自体、邪魔にならなければ、という条件付きだった。彼女の行いは妨害と取られてもいたし方なかった。
送り返すにしてもせめて自分の口から言いたいと隊長に申し出て、エリヤはその足でニーナのもとに向かっていた。共にいると言った舌の根の乾かぬ内にこのようなことになり、少女になにを言われるだろうかと、仕方がないとは言えやや及び腰になるのだった。
ニーナはシルキーと一緒に、彼女達が使う天幕の前にいた。昨夜のこともあり、その姿勢のよい立ち姿に、今まで以上に愛しさが募るようだった。エリヤが歩み寄ると、声をかける前に、ニーナの方がこちらに気付いた。
「あ、エリヤ」
ニーナの声に、シルキーもエリヤに顔を向けて会釈した。少女達は荷物を肩にかけて、まとめ髪を帽子に押し込んでおり、その姿をエリヤは怪訝に思った。
「ニーナ、体調はなんともないか」
昨日の今日であり、念のため心配して聞いてみたが、ニーナがはつらつと笑んで返した。
「平気。心配させてごめんなさい」
「そうか」
ニーナの明るい様子に、エリヤは一旦胸を撫で下ろした。
「話があるんだが、今、大丈夫だろうか」
エリヤの目を不思議そうに見上げて、ニーナは首を傾けた。
「大事な話? それならすぐに言って。あたし達、これから出てしまうから」
ニーナが急かすように言い、エリヤはシルキーの方にも目をやりつつ意を決した。
「シルキーも聞いて貰いたい。申し訳ないが、君達をここに置いておけないことになった。昨日、大砲の前に出たのが問題になったんだ。君達にはすぐにディーリアに帰って貰うことになる」
ニーナが怒るだろうと思い、エリヤは覚悟をして返答を待った。だが返って来たのは、あっけらかんとした声だった。
「それならちょうどよかったわ。まだディーリアには帰らないけど、あたし達、ここを離れようと思っていたから。それで、今出るところだったのよ」
事もなげに言うニーナに、エリヤはむしろ狼狽えた。
「ちょっと待て。それは聞いていない」
「今朝決めたんだもの。あんたには一言伝えなくてはと思っていたから、来てくれてよかったわ」
少女のあっさりとした様子に、なにやらもやもやとしたものを感じてしまう。しばしとはいえ離れることを悩んだ自分はなんだったのか。
「……わたしの、せいか?」
思わず問うと、ニーナは半眼になった。
「馬鹿ね。違うわよ。こっちの都合」
荷物が重いのか、ニーナは鞄の肩ひもをかけ直した。
「のんびりしている暇はないの。カディーが現れたのだって、必ず意味があるのだから」
ニーナはまだ、エリヤの知らないことをなそうとしているらしい。カディーさえもそれになにがしか関わりがあるとするならば、どうにも嫉妬じみたものを感じてしまうのは否めなかった。
「わたしは、手伝えないのか」
無駄だと分かりつつエリヤが言うと、ニーナがちょっと笑った。
「そうね。今のところは。あんたの手が必要になったら言うわ」
今はまだ、話す時ではないということなのだろう。昨夜の約束を思い出しながらも、心持ちとしては寂しさもある。だが、信じて待つと決めたからには、エリヤはそれ以上、食い下がることはしなかった。
「二人で行くつもりか」
「ええ」
「三人さ」
まったく別の方角から声が割り込んできて、エリヤとニーナは揃って振り向いた。大きな荷を背負った東方人が、当然のような顔でそばにいた。
「ダワ、一緒に来る気なの?」
度肝を抜かれたようすのニーナに、ダワは飄々と答えた。
「言っただろう。ほどほどに付きまとわせて貰うって。この前はすっかり後れを取ったからねえ。今度こそ一緒に行かせて貰おうと思って」
困り果てて、ニーナはシルキーに顔を向けた。シルキーは呆れを見せながら、ため息をついていた。
「ついて来るのは勝手にしていただいて結構ですが、一緒には参りません」
「つれないなあ。せっかく急いで支度したのに。仕方ない。目的地は分かっているんだ。また下から追い駆けることにするよ」
ダワは不満そうに肩をすくめたが、諦める気はさっぱりないようだ。そうと決まればとばかりに、砦の門の方角へ体を向ける。
「おれは先に出るよ。シルキー達の方が速いのは分かり切っているからね。また向こうで会おう」
ひらひらと手を振って、ダワが去って行く。その背を見送りつつ、ニーナとシルキーは顔を見合わせた。
「あたし達も、そろそろ行きましょうか」
二人は連れ立って砦の門に向かい、エリヤとアーサーも見送りに立った。少女達に名残惜しむ様子はなく、気持ちはすでに次の目的地へ向かっているようだ。しばしの別れを惜しんでいるのは、やはりエリヤだけらしい。それがなんとなく悔しい気がした。
門を出たところで、エリヤの前を歩いていたニーナが振り返った。
「ここでいいわ。ありがとう」
見上げて来るニーナの笑顔が常より眩しく思え、エリヤは目を細めた。
「本当に二人で大丈夫なのか」
「平気よ。その方が都合がいいの」
答えるニーナの横で、シルキーがエリヤ達に頭を下げた。
「色々と、ご迷惑をおかけしました」
「お嬢さん方がいなくなると、また華やぎがなくなりますな」
アーサーが軽口で返し、シルキーは苦笑交じりに微笑んだ。
「それじゃあ、行きましょう」
シルキーを促し、ニーナは砦に背中を向けた。
少女達が離れていく寸前、エリヤはニーナの腕をつかんだ。よろけた少女をそのまま引き寄せ、両腕で抱き締める。
「すべてが終わったら、今度こそ必ず、一緒にいよう」
耳元で囁くと、ニーナはびっくりした顔をしていたが、一瞬後には微笑み、頬を染めて頷いた。彼女の反応に満足すると、エリヤは短い口付けをして、少女を放した。
刹那のできごとに照れくさそうな流し目を残しながら、ニーナはシルキーの手を引いて、なにも言わずに駆けて行った。今ので少しは惜しんでくれただろうかと思いながら、エリヤは小さくなっていくその背を見送った。
「まったく。見せつけてくれますな」
少女達の姿が遠くなり、アーサーが隣でぼやいた。
「行かせてよかったんですか。取られても知りませんよ」
先に出発した東方人のことを言っているのだと、エリヤはすぐに分かった。
「まず大丈夫だろう」
「余裕ですね」
感心とも呆れともとれる声音でアーサーが言い、エリヤはちらと目線だけを彼に向けた。
「あの東方人はシルキー狙いらしい」
「それが嘘でなければいいんですが」
アーサーは疑り深く言ったが、エリヤはさほど心配してはいなかった。ニーナの意志の強さと頑固さは、身をもって知っている。彼女の心が簡単に揺らぐとも思えなかった。
「隊長殿にはなんと伝えるつもりですか」
言われて、エリヤは少しだけ考えた。
「砦を離れたことに違いはないんだ。東方人にディーリアへ連れて行かせたと言うさ」
アーサーがやや面白がるように笑った。
「それ以外の場所で目撃されたら、東方人が勝手に連れまわしたことにしますか」
言いがかりを付けられて不憫にも思えるが、あの要領のいいお調子者であればうまく切り抜ける気もして、エリヤも釣られて笑う。
少女達の姿がすっかり見えなくなり、エリヤ達は笑みのまま踵を返した。
ディザーウッドでの出会いを最初に、エリヤはニーナとの別離と再会を繰り返してきた。その度に彼女への思いは強くなり、離れがたいものへとなって行く。そして別れは、これで最後だ。次に出会った時には、二度と手放すまい。今のニーナもそれを望んでくれている。
一時の別れの寂しさと、これまでになく心を近くに感じる幸福感を、同時に胸に抱きながら、エリヤは自分のなすべきことへと目を向けるのだった。
第4章 了





