17 真心
頭と腰に添えられた腕に力が加わるのを感じ、シルキーは薄く目を開けた。目を伏せたダワの顔が間近にあり、触れる唇の感触に、彼女の頭の中で疑問符が飛ぶ。人間の男女の行いは知っている。だが今ここで、なぜこのようなことになっているのか。
(これは……離していただいた方が、よいのかしら)
考えてみたが、急に振り払うのも失礼な気がして、シルキーは取るべき行動を決めかねた。それを承諾と取ったのか、ダワの腕に力が込められ、唇を割って柔らかなものが滑り込んできた。絡められる舌の感触に、シルキーは眉をひそめた。
知識の上では、この行為がどんなものであるかは知っている。だが知っているのと実際にするのとではやはりわけが違う。自分の口の中で他人の舌が蠢きまわるのは、気分のいいものではなかった。人間はこの行為のどこで喜びを感じるのか、シルキーは理解に苦しんだ。
(これがニーナ様だと、なにか違うのかしら……)
そばにいるだけで喜びを感じられる主であればあるいは、とも思ったが、実際試せるものでもない。やはり自分には好ましくない行為だと結論付けたシルキーは、両手をダワの顎に添えて、力を込めて押し離した。
「もう大丈夫です。放していただいてよろしいでしょうか」
他意なくシルキーがダワを見やると、顔を引いた彼はわずかに目を見張る表情を見せた。だがそれも、すぐに苦笑いへと変わる。
「君は本当に動じないなあ。ここはもっと恥じらって、可愛く抵抗してみたりするところだろう」
「わたくしではご期待に沿えないと、以前にも申し上げました」
ダワの言うところをいまいち理解できないシルキーは、あくまで冷静に返した。すると一瞬間があって、突然ダワが口を押さえて噴き出した。シルキーを放すと、体を丸めて腹を抱え、くつくつと喉を鳴らす。彼がなぜそこまで笑うのかが分からず、シルキーは怪訝に首をひねった。
ダワは我慢しきれない様子で、ついに声をあげて大笑いをした。驚くシルキーに向かって両腕を開くと、もたれかかるように思い切り抱き付いた。そのまま耳元で、さらに笑った。
「ああ、もう。最高だよ、シルキー。甘い雰囲気が台なし」
「そうでしょうか」
「そうだよ。最高過ぎて笑いが止まんない。まったく駄目なんだもんなあ。おれもまだまだ未熟かな」
抱き付いたまま、まだ肩を揺らすダワに、シルキーも釣られるように笑みをこぼした。
「わたくしが、こういったことに不向きなのです。ダワ様でしたら、お優しくていらっしゃるのですから、わたくしでなくても、よい方がすぐに見つかります」
「おれはシルキーがいいんだ。シルキーがおれのよい方になってよ」
子供のように甘えた調子でダワが言い、シルキーは彼の諦めの悪さに少々呆れた。抱き付いているダワの体を、緩く押し返す。
「わたくしはニーナ様にお仕えし、お守りするだけの存在です。ニーナ様はお優しいので仰いませんが、それ以上の価値も能力も持ち合わせていません。わたくしのすべてがニーナ様のためのものである以上、ダワ様にお応えすることはできません」
今度こそ諦めさせるために、シルキーははっきりと伝えた。彼女の答えは、覆しようもなく始めから決まっている。
ダワは仕方ない様子で体を離したが、手は肩に添えたままだった。
「君は本当に職務一辺倒だなあ。でもさ、そういうのって悲しいよね」
シルキーは柳眉を寄せた。
「悲しい? わたくしが?」
「うん。忠実なのは大切だけど、時には自分のために時間を使わないと、もたなくなるよ。君だって、意思のある個なんだから。女の子がロマンスの一つもないなんて、これほど悲しいこともない」
初めて言われた言葉に、シルキーは瞬きした。彼女にとって、考えたこともないことだった。
アストラの下で教育を受けていた頃から、シルキーの気持ちはすでにニーナに向かっていた。これから仕え、守って行くだろう我が君に思いをはせては、期待と喜びに胸を高鳴らせていた。
ニーナに迎え入れられてからは、理想と現実の違いに悩むことはあっても、主人と離れがたいことに変わりはない。ダワの言う、自分のために時間を使うというのはどういうことか、シルキーはいまいちぴんと来なかった。
「自分のためというのは、どういうことを差すのでしょうか」
少女に真正面から問われて、ダワは頬を掻いた。
「そうだな……自分の、好きなことをすればいいと思うよ。自分が楽しいと思うこと、気持ちいいと思うことをすればいい。シルキーには趣味みたいのはないの?」
「趣味、ですか」
やはり分からずに、シルキーは考え込んだ。
そういえば、地のジンであるルーペスはお菓子作りを得意として、実際それが好きらしかった。だがそれ以上に、主人であるジュリアとそのお菓子を食べる午後のお茶の時間がなによりも楽しいのだと、彼は言っていた。誰でもなくジュリアが美味しいと喜んでくれるからこそ、ルーペスはお菓子作りの腕を磨いたのだ。
やはり、ジンの楽しみも喜びも、主人たるイヴ抜きではありえない。
「ニーナ様をおそばでお守りする。それ以上のものはありません」
シルキーが確信を込めて言うと、ダワは困ったように笑った。
「そういうことじゃあなくてさ。もっとこう……」
「駄目なんです」
遮りながら言って、シルキーは微笑んだ。
「いつなん時も、ニーナ様をお守りするのがわたくしの役目です。ですがわたくし自身、ニーナ様がいないと駄目なのです。ニーナ様とのたわいもない時間が、なににも代えがたいほどに、ただ楽しくて、嬉しくて、堪らないんです」
口にしてみれば、単純なことだとシルキーは思った。
自分は人ではない。それどころか、地上にはびこる当たり前の生き物とも違う。食べなくとも飢えず、老いることもなく、消滅はあっても死はなく、死体も残らない。そんなジンであるシルキーが、人と同じ感覚でいられるわけもない。ニーナだけが、シルキーの存在理由だ。
「ニーナ様と離れたいと思ったことは一度もありません。今も、ニーナ様のところに行きたい気持ちを押さえるのに必死なんです」
正直な気持ちを伝えれば、ダワは肩をすくめて手を離した。
「分からないなあ。どうしてそこまで思えるんだろう」
「分かっていただけなくてもよいのです。ニーナ様がいなければ、わたくしも存在しない。本当はニーナ様には塔で大人しくしていただくのが一番なのですが、難しいのであれば、わたくしがどこまでも付いて行くまでです」
自分はジンだ。人であるイヴを理解するのは、人同士以上に難しいかもしれない。過去のジン達も、シルキーと同じように悩んだに違いない。それでも彼らは、主人たるイヴを慕い、共にあり続けて来た。先々代のジュリアとルーペスも、互いの信頼の上に穏やかな関係を築き上げている。その裔に、ニーナとシルキーがいるのだ。
過去のジンがそうしてきたように、共にあり続けたいのなら、守るしかない。
シルキーはそのことに気付き、気付く切っかけをくれたダワに感謝した。
(わたくしは、どこまでもニーナ様と共に……)
心の中で、強く誓った。
* *
一人分の寝具の中で、二人は身を寄せ合っていた。いつの間にか灯火は尽きていたが、互いの体温に包まれた中では、闇に恐れは感じなかった。
「……エリヤ」
「どうした」
まどろむような満ち足りた倦怠感の中で若者の名前を呼ぶと、思いやりのある声が降って来た。彼の剥き出しの胸板に頬を当て、ニーナはその温かさに目を閉じた。
「分かったことがあるの」
囁いてしまってから、本当にエリヤに告げるべきかニーナは少し迷った。それでも、伝えなければいけない気がした。彼の真心に応えたかった。
「その前に、聞いて欲しいの。さっきね、あたし……カディーにキスされたの」
肌越しに、エリヤの心臓が跳ねたのが伝わって来た。だが彼はなにも言わず、黙って聞いていてくれた。彼の優しさに感謝しながら、ニーナは続けた。
「あたし、ずっとカディーのことが好きなんだと思ってた。でも、キスされたとき、いやではなかったけど、そんなに嬉しいとも思わなかった。あたしは、カディーとキスをしたかったわけではなかったみたい。でも――エリヤのキスは、すごく嬉しかった」
カディーとのキスも、嬉しさがまったくなかったわけではない。だからその違いは、エリヤとキスしていなければ分からないことだった。そうしてやっと、ニーナは自分の気持ちに確信を持つことができた。彼と目を合わせるように、ニーナは顔を持ち上げた。
「あたし――エリヤが好き。カディーへの好きは、恋とは違った。そのことが、やっと分かった」
「ニーナ……」
思いを告げれば、名前を呼びながら口付けられた。感極まったように、エリヤはニーナを強く抱いた。
「ディーリアに帰ったら、父に君のことを話してみようと思う」
ニーナの背中にまわした手でプラチナの髪をすきながら、エリヤが囁いた。
「君の立場の問題もあるだろうし、伯爵家に迎え入れられるかまでは分からない。だが、伯爵も一度は君を助けている。悪いようにはしないはずだ――君と共にいるためにわたしは、わたしにできる最大限のことをしていくつもりだ。だから……」
エリヤは暗闇越しに、ニーナの瞳を覗き込んだ。
「君も、わたしに話してくれないか。君がなに者で、なにを抱えているのか――今すぐでなくていい。君が話してもいいと思った、その時に教えて欲しい。君が負っているものを、わたしも共に負うことができるのか、わたしは知りたい」
エリヤのあまりにも真っ直ぐな誠実さに、ニーナはかえって瞳が揺らいだ。
ニーナの抱える秘密は、あまりにも大きい。母エベリーナでさえ、夫のケンジーにイヴのことを明かしていなかったのだ。創世から固く守られて来た秘密を、自分の代で破れるものなのだろうか。
もし、とニーナは考えた。
両親がイヴの秘密を共有していたら、どうなっていただろう。父はきっと、母を力の及ぶ限り守っただろうし、当時のカディーとの対話の道も探したはずだ。話し合うことができていれば、カディーが追い詰められることもなく、両親を含めて共に生きる未来もあったのではないだろうか。
しかし、それはあくまで、そうなればいいという希望の話だ。秘密を明かしてなにが起こるか、ニーナには分からない。秘密を守るために、女神がどこまでのことをするかさえ、推測することはできないのだ。
これ以上、大切な人を失いたくなかった。彼まで失うことがあればきっと、自分は今度こそどうにかなってしまうに違いない。だからこそ、すぐに決断できるはずがなかった。
それでも、一縷の希望を、ニーナは言葉に乗せた。
「そうね……あんたになら、いつか話してもいいような気がする。今はまだ、無理だけど――一緒にいるのなら、きっと話すわ」
言葉の終わりと同時に、唇を塞がれた。髪をすいていた指が背骨の凹凸を辿り、堪らず仰け反る。若者の体熱が全身に覆い被さって来て、耳元を吸われた。
「わたしはなにがあっても、君を一人にはしない――共に生きよう」
囁きに、胸が締め付けられるようだった。彼の言葉が嬉しくて仕方がないのに、どうしようもなく切なく、涙が出そうだった。堪えるように、ニーナはきつく目をつむった。
互いの境界さえおぼろげな闇の中、少女は今一度、体を包むその熱に身をゆだねた。





