5 雨後
雨が上がったのは、日没の迫る時刻だった。鎧戸を開いて外を見れば、森の底に夜が淀み、黒い塊となって這い寄って来ていた。重なり合う枝葉で、地平からの照り映えは遮られている。
家の中では、いつの間にか仲よくなったロイと犬が木切れを引っ張り合って遊んでおり、パーカー夫人は夕飯の支度を始めていた。
鎧戸を閉じたエリヤは、テーブルでくつろぐニコラスの肩を叩いた。
「すっかり遅くなってしまったな。急いで戻らないと」
振り向いたニコラスは、ぎょっとした顔をした。
「今から出るつもりか?」
「従者達も待たせている。いつまでもここにいるわけにもいかないだろう」
早口に言って、エリヤは炉の前に立つパーカー夫人に歩み寄った。
「恐れ入ります、パーカーさん」
エリヤが声をかけると、身を屈めて火加減を見ていた夫人は腰を伸ばして振り向いた。
「どうかしましたか?」
「雨が上がったので、我々はそろそろ失礼させていただこうと思うのですが」
「まあ、なにをおっしゃるんですか!」
子供を叱り付けるような勢いで夫人が言い、エリヤはわずかに仰け反った。
「今から出たら森を抜ける前に真っ暗になってしまいますよ。夜の森は危険です。今日は泊まっていってください。お二人の分の夕飯も用意していますから」
「そうだぞ、エリヤ」
立ち上がったニコラスが、エリヤの肩に肘を乗せて顔を寄せた。
「確かに従者達は待たせてしまっているが、少なくとも、わたしが見た限り彼らは君より冷静だ。豪雨や暗闇のディザーウッドに分け入るような愚は冒さないだろう。まあ、彼らの立場からしてみれば、一晩は生きた心地がしないだろうが――なにより、これ以上森をさまようのはごめんだ」
正論を並べ立てられて、エリヤは一瞬言葉に詰まったが、それでも食い下がる試みをした。
「しかし、これ以上迷惑をかけるわけにも……」
「言う通りにしなさい」
凛と響いた少女の声に、エリヤの言葉は遮られた。顔を向ければ、梯子を半ばまで下りたニーナが、不機嫌にこちらを見ていた。木綿のスカートを翻し、梯子からひらりと飛び降りる。
「その方があんた達のためよ。死にたいなら別に止めないけど」
ちょっと肩をすくめながら歩み寄ってきたニーナに、エリヤは向き直った。彼女と面と向かって話すのは、これが初めてだった。
「それはどういう意味だ」
「そのままの意味よ。夜のディザーウッドに繰り出すなんて、自殺志願者か、命知らずの馬鹿しかしないわ」
馬鹿と言われたことにむっとしたエリヤは、少々意固地になって言い返した。
「わたしはこれでもディザーウッドにはよく来るんだ。君ほどではないかもしれないが、森には慣れている」
「昼の森には、でしょ」
ニーナは上目を使って覗き込むように、エリヤの目を見た。
「夜となれば話は別よ。闇は人から方向感覚を奪うわ。ディザーウッドの樹海の深さはあんただって知ってるはずよ。昼間でさえ遭難者が後を絶たないのに、夜なんて尚更だわ」
「しかし、犬にわたし達の匂いを辿らせれば来た道を戻ることは可能なはずだ」
「それもどうかしら」
なかなか引き下がらないエリヤに、ニーナはもう一度肩をすくめた。
「雨上がりに匂いが残っているか怪しいし、迷子の主人を置き去りにするような犬が、それほど優秀とは思えないけど」
「それは……」
反論はそこまでだった。エリヤの耳元で、ニコラスが笑った。
「君の負けだな」
ため息をつき、エリヤは降参の意味で顔の横に両手を上げた。
「分かった。言う通りにしよう。それしかなさそうだ」
エリヤが観念すると、ニーナは腰に手を当てた。
「そう。ただ言っておくけれど、あたし、お偉い貴族って嫌いなの。だからあんた達が家に泊まるのは虫唾が走るんだけど、人が死ぬのを見るのはもっといやだから、仕方なく、よ。それは頭に置いておいて」
臆面もなく言い放つニーナに、エリヤは唖然とした。彼に対してこれほど無遠慮にものを言う女性は、母親と妹の他には初めてだった。
話がついたと見るや、パーカー夫人が声を励ました。
「そうと決まれば、夕飯にしましょう」
夫人は鍋の中身をよそい始め、エリヤ達はニーナに急き立てられる形でテーブルについた。犬と共に嵐が過ぎ去るのを待っていたロイもそこに加わる。
遊び相手のいなくなった猟犬ヤンは温かい炉の前に陣取って寝そべり、大きな欠伸をした。
温かい料理で人心地ついた後、エリヤ達は梯子を上った二階へと案内された。階上は、家の骨組みが剥き出しの屋根裏になっていた。
梯子を上がってすぐのところには、足を短く切ったベッドが二つ並んでおり、壁際には小さな箪笥や小机が置かれて、それなりに部屋としての体を成していた。一番奥には衝立が置かれ、仕切られた向こう側にもいくつか調度が並べられているのが分かる。
ニーナは手前のベッドの前に立ち、後から梯子を上がってきたエリヤ達を振り返った。
「とりあえず、このベッドを使ってちょうだい」
「え!」
ニーナが二つ並びのベッドを示すと、好奇心で顔を覗かせたロイが声を上げた。
「なによ」
ニーナが睨みつけると、ロイは一瞬ひるんだが、抗議はやめなかった。
「だって、兄ちゃん達がここを使うんなら、おれは今日どこで寝るの?」
「今夜は下でおばあちゃんと寝なさい」
「ええー、いやだよ。小さい子供じゃあるまいし」
「そう思ってるのは自分だけよ」
ロイは顔をしかめて見せたが、ニーナの言う通り、精一杯の渋面も幼く愛嬌のあるものにしかなっていなかった。
「文句言わずにさっさと下に行きなさい」
ロイはまだなにか言いたそうだったが、姉にねめつけられて、渋々と梯子を下りて行った。
同じく女兄弟を持つ身として、エリヤはロイに少しばかり同情した。
「ロイを追い出す必要はなかったんではないか。わたし達は床にでも寝させて貰えれば……」
「そうもいかないわ。あんた達は一応お客さんだもの」
エリヤの意見をニーナはあっさり退け、確認するように一度部屋を見まわした。
「ベッドが硬くて狭いからって文句言わないでね。一晩だけなんだから。当然だけど、布団やその辺のものを汚したり壊したりしないこと。その衝立の向こうは立ち入り禁止よ。入ったらただじゃおかないから。あと他に言うことは……とりあえず、こんなところかしら」
注意事項を一息に並べ立てて、ニーナは梯子の方に体を向けた。
「それじゃあ、あたしはまだ下でやることがあるから、大人しくさっさと寝てなさい」
エリヤ達が気を呑まれてなにも言えずにいる内に、ニーナは梯子を下りて行ってしまった。
急に訪れた静けさの中で、ニコラスが気の抜けたため息をついて手前のベッドに座った。
「大したお嬢さんだ。彼女を口説くには時間がかかりそうだな。まあ、気が強い子は個人的にタイプだけれどね」
ならうように、エリヤももう一方のベッドに腰かけた。
「やめておいた方がいいと思うぞ。口喧嘩になった場合、確実に勝ち目はない」
「君の完敗っぷりはいっそ清々しかった」
「説得力が違うだろう」
ひとしきり軽口を叩き合ってから、エリヤは一つ息をついた。
「それにしても、本当に貴族が嫌いなんだな。だから昼間会った時もあんなに機嫌が悪かったのか」
「筋金入りだな、あれは」
「過去になにかあったのか。もしかしたら、森に住んでいることにもなにか関係が……」
考え込むエリヤの横で、ニコラスはごろりとベッドに仰向けた。
「余計な詮索はよして、もう寝ないか。わたしはなんだか疲れた」
言われてみれば、確かにエリヤも体が重かった。
「そうだな。今日は一日歩きっぱなしだったからな」
「君のせいでな」
「そう言うなよ」
二人は軽く笑いあった後、小机の蝋燭を吹き消して布団に潜った。
しかし、エリヤはなかなか寝付かれず、ニコラスが規則正しい寝息をたてるようになっても、まだ目が冴えていた。それでも何度か身じろぎした後で、じっと目を閉じて眠気を待っていると、誰かが梯子を上ってくる気配を感じた。
気配は足音を忍ばせて、エリヤのそばを通り過ぎる。起きていることに気付かれないよう、薄く目を開いて見れば、プラチナの輝きが暗闇を横切り、衝立の向こうへと消えた。
そして――寝ぼけていただけかもしれないが――少女のすすり泣く声を聞いた気がした。