14 火の在りか
きしむテーブルに突っ伏すように、ニーナは座っていた。天幕の奥にはランタンを吊るして内部を照らしていたが、それとは別に、テーブルにはホヤのないランプが置かれている。テーブルの上で組んだ腕の陰から、ニーナはその小さく揺らめく火を見詰めていた。
赤いものが火の上で軽快に跳ねた。灯火のまわりを回転するように、小さな火の精霊が踊っている。艶やかな鱗に覆われた体はトカゲに似ていたが、前脚はなく、青紫の目はガラスのように冷たく透き通っていた。
その精霊に触れようと、ニーナは腕を解いて手を伸ばした。気付いた火の精霊が、窺うように三角形の鼻先を向けて来る。ぎょろりと丸く大きな目をしたそれは、始めこそ不気味に見えたが、今ではどこか愛嬌があると思えるようになっていた。
ニーナの指が火に触れる寸前、その手を横からつかまれた。
「綺麗な指が焼けてしまうよ」
驚いて顔を向けると、ダワが濃い色の目を細めて笑んでいた。
討伐騎士に伴われて戻って来た少女達を見たダワは、その弱り切った姿を心配して二人に付き添っていた。ニーナは見るからに蒼白で、寄り添うシルキーさえも、いつもの冷静さを損なっていた。
常にエリヤに従っているアーサーは、今は討伐騎士の一人としてエリヤの代わりに隊長のところへ出向き、今日のできごとと今後のトロール討伐についての話をしに行っている。
ダワは、ニーナの向かいに座るシルキーへと目を向けた。
「シルキー、ニーナが危ないことをしないようにちゃんと見ていないと」
シルキーはやや目線を上げて、力なく微笑んだ。
「大丈夫です。その火は、ニーナ様を傷付けません」
意味が通じたかは分からないが、ダワは肩をすくめて、ニーナの手を放した。
「愛しの彼に会えたって顔じゃあないね」
手を引いたニーナは、もう一度顔をテーブルに伏せた。
「そんなのじゃあないわ。彼は……家族だもの」
「家族、か」
呟くようにダワは繰り返した。
「でも今のニーナは、久方振りに家族と再会した顔でもないと思うよ」
真っ直ぐなダワの物言いに、ニーナは黙るしかできなかった。親指を握り込み、唇を噛む。ともすると震え出しそうになる体を、ニーナは必死に押さえ付けた。
炎の色の若者を、ニーナは心のどこかで、ずっと求めていたはずだった。それなのに、その姿を前にして、なぜこんなにも動揺しているのか。嬉しい気持ちがないわけでは決してないのに、それを上回るもの恐ろしさが、ニーナの背中を撫でていた。
「ニーナ」
呼び声と同時に、天幕の入口から赤い光が差し込んだ。顔を上げれば、西日を受けたエリヤがそこに立っていた。ニーナと目が合うと、彼は戸布を大きく開いて自身の後方を示した。
「行くといい。待っている」
どこにとも、誰がとも、エリヤは言わなかった。それでもニーナにはすぐに伝わり、反射的に立ち上がった。だが、それ以上動けなかった。足を踏み出すこともできず、再び座ることもできず、エリヤから目を逸らすことすらできない。自分は本当に、彼と会っていいのだろうか。
「ニーナ」
今度は真横から呼ばれて振り向けば、ダワが柔らかな眼差しでこちらを見ていた。
「行ってきな。大丈夫。ニーナの望むようにすればいい」
身動きできないニーナの迷いを見透かすように、ダワは目を細める。ニーナが正面に顔を戻すと、今度はエリヤのはしばみ色の目と目が合い、彼がゆっくり頷いた。
深呼吸をして両手を握り合わせると、ニーナは迷いを振り払い、天幕を飛び出した。
駆けながら、ニーナの胸は不安でつぶれそうだった。こうして走って行ったところで、本当に彼は待っているのだろうか。ニーナと会うことで彼が罰せられるのなら、姿を眩ませてくれていればいい。たとえ鉄をも溶かす灼熱であっても、女神の前では吹けば消える灯火に違いないのだから。
辿り着いた天幕の前で、ニーナは一度足を止めた。目の前の布一枚を隔てた向こうに、彼がいる。今のニーナには、その気配が感じ取れた。炉の残り火のように、かすかでも確かな温もりをもたらす火の気配。今まで気付かなかったが、彼に初めて会った幼い日から、多分ニーナはずっと、この温かな火を感じていた。
どんな顔で、彼と向き合うべきか。迷いはしたが、結局は答えを出す間さえ惜しくなり、ニーナは天幕の布に手をかけた。
天幕の中は最低限の灯があるだけで薄暗かった。けれど、カディーがそこにいるのはすぐに分かった。こちらに背を向けた彼の、炎の色の髪が灯に光っている。
「……カディー」
恐る恐る呼ぶと、少し間があってから、彼は緩慢に振り返った。見詰めあったその瞳は、しかしなにもとらえていないようにも見えた。
ふと、無表情だったカディーが微笑んだ。どこか悲哀のこもったその笑みは、間違いなくニーナに向けられたものだった。その笑顔に誘われるように、ニーナは彼に歩み寄った。手を伸ばせば届く距離で、カディーがそっと腕を広げた。少女が条件反射のように腕を伸ばして、その胸に身を寄せれば、優しい腕に包まれた。
彼を失ってから、ずっと求めていた感覚。懐かしい温もりに、凍っていた心が溶け出し、目から溢れた。
「……カディー」
ニーナがまた呟くと、抱き締める力が増した。服をつかみ、彼の胸へとニーナは顔をうずめた。
「……ごめんなさい」
ずっと胸につかえていた言葉を、ニーナはやっと吐き出した。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
繰り返すニーナの髪を、カディーが撫でた。
「どうして、ニーナが謝るんだい」
彼の声は変わらず優しくて、ニーナはぐずぐずと鼻をすすった。
「だって、あたし……カディーにひどいことを」
するとカディーは、ニーナの髪に柔らかく口元を埋めた。
「すべてはぼくが自分で招いたことだ。君はなにも悪くない」
「でも……」
「君が泣くことなんてないんだ。ぼくなんかのために泣いてはいけない」
諭すように言うカディーの背中に、ニーナは腕をまわした。
「どうして泣いてはいけないの。家族のために泣くのはいけないこと?」
顔が汚れているのも構わず、ニーナはカディーを見上げた。多色に揺らぐ青紫の瞳が、戸惑ったようにニーナを見詰め返す。別の意味で涙が溢れそうだった。それでも、きちんと伝えなければと、ニーナは必死で嗚咽を飲み込んだ。
「カディーはもう、あたしのジンではないかもしれない。でも、あなたはずっとそばにいて、どんな時でもあたしを守ってくれた。今日だって、カディーが助けてくれたから、あたしはここにいる」
カディーの目を、ニーナは真正面から見据えた。自分の気持ちを、間違いなく伝えなければいけない。
「また、一緒に暮らしたい――カディーが好きなの」
「ニーナ」
咎めるようにカディーが呼んだが、ニーナは彼に言葉を継がせなかった。
「多分、ずっと好きだったの。カディーがいなくなって、初めて気付いた」
見詰めるカディーの瞳が震えたが、ニーナは決して目を逸らさなかった。許されないことかも知れないが、自分を偽りたくなかった。
動揺を見せていたカディーの目が、伏せるほどに細められた。
「ニーナ……君は分かってない」
「よくないことくらい、分かってる」
「いや、分かってないよ」
「なにが分かってないっていうの」
重ねて否定するカディーに、ニーナは声を大きくした。それをなだめるように、彼はプラチナの髪を撫でた。だがその瞳は、悲痛な色をしていた。
「君は分かってない……ぼくは、人ではないんだ」
そんなことか、とニーナは思った。
「それくらいあたしだって分かってる。もう、なにも知らなかったあたしじゃないわ」
ニーナが顔を逸らさずに言うと、彼は窺うように首を傾けた。
「本当に分かってる?」
「分かってる」
「そう……」
カディーの手が滑り、ニーナの頬を包んだ。間近に、彼の青紫の瞳がある。ニーナが緩やかに目を閉じると、唇に柔らかな温もりが触れた。





