10 珍客
野菜と鶏肉を煮込んだ辛いスープを飲み込み、ニーナはほっと息をついた。人とは不思議なものだ。空腹が満たされると、それだけで乱れていた感情が少なからず静まって来る。冷静さを取り戻せば、先ほどまでの自分の行動がどれほど無意味だったことか。
今は、他人に八つ当たりしている場合でも、悲嘆に暮れている場合でもない。自分にどこまでのことができるかはまだ分からないが、トロール達が傷付けられるのを黙って見ているわけにはいかなかった。
「どうしたらいいと思う?」
隣に座るシルキーに、ニーナは顔を向けた。無言からの唐突な問いかけだったが、物静かな風のジンは正しく意味を受け取った。
「そうですね……難しいところです」
少し唸りながら、ニーナはスープをすすった。
「ここで討伐軍にばかり構っていても、実質的な解決にはならないのよね。もっと根っこを叩かないと」
「その根を叩く道具を揃えたいところですね」
「そこなのよねえ」
頬杖を突いて、ニーナは考え込んだ。
「いっそのこと、ヘスカルア城に直接乗り込んじゃおうかしら」
自棄気味に言ってみれば、シルキーが少し笑った。
「ニーナ様がやると仰られるなら、わたくしは止めませんが、あまり平和的ではありませんね」
「この期に及んで平和的なんて言っていられないわ。こんなこと、絶対にやめさせるんだから」
勢いに任せて、ニーナは椀の中身をかき込んだ。
「ああ、いたいた。そこのお嬢さん方」
ちょうど食べ終わったところで呼ぶ者がおり、二人は揃って顔を向けた。ハルバラド人の若い兵卒が、こちらに駆け寄って来る。彼は浅黒い顔の中で子犬のように丸い目をくるりとさせて、人懐こく笑った。
「お嬢さん達にお客さんだよ」
「お客?」
心当たりがなくてニーナが聞き返すと、兵卒は頷いた。
「東方人の男が門のところに来ている。ダワだと言えば分かるって言っていたけど」
「ダワですって!」
東方人のダワといえば、ヘスカルアの街で出会った物売りだ。火薬武器の話を最初に教えてくれたのも彼だった。
椅子を倒さんばかりに立ち上がったニーナに、兵卒はびっくりした顔をした。
「都合が悪いなら帰って貰うけど」
ニーナの勢いにややひるんだ様子で兵卒が言い、ニーナはシルキーと顔を見合わせた。
「……とりあえず、行ってみますか?」
「……そうね」
ダワとて悪人ではなく、街では世話にもなったのだ。無下にするのも気が引けた。呼びに来てくれた兵卒に礼を言って、ニーナとシルキーは砦の門へと向かった。
ザウィヤの町側に向かって開かれた門には、見張りが詰める小屋がある。その小屋の前で番兵と雑談する東方人がいた。商品が詰まっていると思しき大きな荷物を、足元に置いている。黒褐色の髪を短い房に束ね、どこか力の抜けた立ち方は間違いなかった。
「ダワ」
彼はすぐに振り向いた。ニーナ達の姿を見た途端、顔を輝かせて駆け寄って来る。
「やっぱりここにいた! 追い付けてよかった」
「ダワ、どうしてここに……」
ニーナはダワを問い詰めようとしたが、すぐに言葉が続けられなくなった。両腕を広げて走って来た彼が、そのまま勢いよく抱き付いてきたのだ。
「会いたかったよ、ニーナ! 追い付けなかったら、どうしようかと。本当に焦ったよ」
ダワの過剰な喜び方に、ニーナは出鼻を挫かれてしどろもどろになった。
「ちょっと、ダワ。分かったから、そんなにくっ付かないで」
だがダワは腕に力を込めるばかりで、ちっとも放してくれなかった。彼の率直な感情表現は不快ではないが、さすがのニーナでも戸惑ってしまう。
「まさか君達に出し抜かれるなんて思わなかったよ。飛べるなんて卑怯じゃないか」
「ちょっと待って!」
ダワの言が聞き捨てならず、ニーナは精一杯の力で彼を押しのけた。
「今、なんて言った?」
ニーナは慎重に聞き返したが、ダワは持て余した両手を腰に当てて、あっさりと答えた。
「だから、飛べることを隠しているなんて卑怯だって。知っていれば、おれだってもう少しなにか考えたのに。お陰でこんなにも出遅れた」
「…………」
ダワの衝撃発言に、ニーナは絶句した。声も出ず、酸欠の魚のように口をぱくぱくさせるばかりだ。風に乗る時には周囲に目を配り、飛び立つ時も街から離れてからにしていたはずだが、一体いつ見られたのだろう。
「なぜわたくし達が飛べると?」
冷静なシルキーの声に振り向けば、彼女はいつもと変わらぬ微笑を口元に見せていた。だが、その目は笑っていない。
ダワはにこやかな表情のまま首を傾けた。
「なぜって、現に飛んでただろう? ヘスカルアから南に向かって。せっかく門で待っていたのに、がっかりしたのなんの」
「それは見間違いですね」
シルキーが断言し、ダワはきょとんとした。だがすぐに心得た様子で、彼は口の端を上げた。
「そうかもしれないね。おれとしては、君達に無事また会えたから、それでいいよ。どうせなら、ここまでも同行させて欲しかったけど」
ダワがこちらを窺うように目を細める。シルキーも笑みを絶やさなかったが、青紫の瞳は冷えた色を帯びており、いつもと違う彼女にニーナはすくみそうだった。
(シルキーが……怖い)
周辺の木々のざわめきが大きくなっている。一歩間違えれば、比喩でなく巨大な竜巻でも起こりそうな気配だ。戦々恐々とするニーナの横で、シルキーが軽く息を吐いた。
「分かりました――付きまとうのは、ほどほどにお願いいたします」
シルキーが引き下がったことに驚き、ニーナは彼女の袖をつかんで囁いた。
「いいの?」
シルキーは振り向くと、ニーナを安心させるようにそっと手に触れて囁き返した。
「ひとまずは様子見です。その後どうするかは、ダワ様の行動次第ですが」
ジンがイヴを守る存在である以上、イヴの害となるものを排除する権限も有している。ジンの行う排除がどんなものかはあまり考えたくはないが、シルキーが初めて見せた物騒な目の輝きに、ニーナは息をのんだ。
ダワは少女達のやり取りが聞こえたはずだが、気にした様子もなく陽気に言った。
「それじゃあ、シルキーのお墨付きも出たし、嫌われない程度、ほどほどに付きまとわせて貰うことにしようかな」
ダワが妙な宣言をし、怖いもの知らずな彼にニーナは呆れた。
「ダワって……なんかすごいわね」
「そう褒められると照れるじゃないか」
おどけてみせるダワに、ニーナは苦笑以外の表情を返せなかった。
「ニーナ」
後ろから呼ぶ者がいてニーナが振り向くと、エリヤがこちらに歩いて来ていた。大股に歩み寄って来た若者はちらとだけダワを見たが、彼には声をかけず、ニーナにだけ顔を向けた。
「よかった、まだ出かけていなくて。君に伝えなくてはいけないことがあるんだ」
ダワが口を閉じて会話の相手を譲ったので、ニーナはエリヤに向き直った。
「なにかあった?」
「あまり森をうろうろするなと隊長殿が言っていた。偵察にも影響が出てトロールの動きが把握しづらくなるそうだ。昨日、トロールに襲われかけていたというのは本当か?」
ニーナは口をへの字に曲げた。
「襲われてなんかないわ。トロールは危険じゃないもの」
「君がそう考えていたとしても、被害が出ているのは事実だ。トロールと遭遇する可能性がある以上、無闇に森に入るべきではない。君の暮らしていたディザーウッドとは違うんだ」
エリヤの説教じみた言い方にニーナはむくれたが、頭の中では先のことを考えた。
「その隊長って、今どこにいるの」
予想外の返しに、エリヤは少し面食らって瞬きした。
「おそらく、中央の天幕にいると思うが」
答えを聞くなり、ニーナはシルキーの袖を引いた。
「うろつくなって言うなら、隊長さんに直接話を聞かせて貰いましょう」
ちょっと困ったように笑ってから、シルキーは頷いた。
「そうですね。いずれその必要もあるとは思っておりましたし」
ニーナはすぐさま方角を定めて足を踏み出した。
「それじゃあダワ、またね」
「また顔を見に来るよ」
少女達は連れ立って駆け去り、ダワが笑顔でその背中に手を振った。





