8 砦の朝
天幕から出ると、ニーナは大きく伸びあがりながら深呼吸した。数日ぶりのまともな寝床に、このところ荒みがちだった気分もさっぱりした気がする。ディーリアで見るよりもずっと濃い色に見える空は快晴で、白い日差しに風は早くも暖められていた。
「おはようございます。よく眠れましたか」
振り向くと、斜め向かいの天幕の前に、錆色の髪を刈り上げた武人が立っていた。見るからに大柄で筋肉の隆とした彼に見覚えがある気がして、誰だっただろうかと考えながら、ニーナは挨拶を返した。
「おはようございます。久しぶりにちゃんと寝られた気がするわ。天幕を譲ってくれた人に後でお礼を言わないと」
ニーナが屈託なく言うと、武人は目尻に皺を寄せた。
「それはよかった。若君は早くから隊長殿と話しをしに行っています。食事はどうしますか。若君を待ってもいいですが、昨日の内にお嬢さんの話は広まってますから、広場に行けばすぐに貰えるでしょう」
若君、という言葉で、ニーナは武人がなに者かぴんと来た。
「ねえ。あたし、あなたとフォルワースの領主館で会ってるわよね」
武人は、口の両端を上げた。
「覚えていましたか。ディザーウッド火災の折に、お嬢さんの救助に携わらせていただいてます。アーサーと申します」
歩み寄って来た彼が手を差し出したので、ニーナは握手に応じた。領主館で何度か姿は見ていたが、直接言葉を交わしたのは初めてだった。
「そうだったの。それなら、あなたにもお礼を言わないといけないわ」
「それには及びません。あの時の強盗団を追っていたのも自分ですが、至らなかったばかりに、あなたには辛い思いをさせてしまった。今更ではありますが、お詫び申し上げたい」
実直なアーサーに、ニーナは目をすがめて苦笑した。
「本当に今更ね。恩人だって分かった後では怒れないじゃない」
やや愉快になった様子で、アーサーは眉を開いた。
「なるほど。そうは考えませんでしたが、その通りかもしれませんな」
二人が話していると、支度を終えたシルキーが天幕から出て来た。彼女はニーナと向かい合うアーサーを目に留め、愛想よく微笑んだ。
「おはようございます。昨日はお騒がせいたしました」
「おはようございます。こちらこそ、若が未熟で申しわけない」
互いに主人について詫び合いながら、アーサーも笑みを返した。
隣に立ったシルキーに、ニーナは向き直った。
「シルキー、広場に行けば食事が貰えるらしいわ。今日は早めに出て、もう少し東に行ってみましょう。あっちの方はまだだったわよね」
ニーナの提案に、シルキーは危ぶむ顔をした。
「構いませんが、ここの方々から目を離して大丈夫でしょうか」
「ディーリアの人は昨日着いたばかりだもの。今日すぐに打って出るとは思えないわ。そうでしょう?」
最後の一言はアーサーの方を向いて言った。彼は少し面食らった顔をしてから、考える様子で答えた。
「我々はトロールを知りませんから、しばらくは訓練と作戦会議に費やされるとは思いますが」
「ほらね。むしろ今の内にやれることはやってしまわないと」
アーサーの返答を聞いて、シルキーも納得したように頷いた。
「かしこまりました。では、早速朝食をいただきに参りましょう」
「ええ。それじゃあアーサーさん。あたし達、食事をしたらそのまま出かけるから、もしエリヤが探してるようだったら、そう伝えておいて貰ってもいい?」
「承知しました」
「ありがとう。よろしくね」
アーサーが承ると、ニーナは彼に手を振りながら、シルキーを伴って駆けて行った。
軽やかに駆ける少女の後ろ姿を見送りながら、アーサーはふと笑みをこぼした。
昨日の印象では、傍若無人な癇癪持ちの少女かとも思ったが、直接話してみればそうでもないようだ。女性らしい慎ましさといったものには欠けるが、明朗快活で大変気持ちのよい少女だ。駆け引きがお家芸の宮廷女性にばかり囲まれていると、彼女のような女性はある種の癒しになりえるかもしれない。
(よく、あそこまで立ち直ったものだ)
炎の中から助け出された時の少女のあり様を思い出せば、感慨にひたらずにはおれない。アーサーですらそうなのだから、より関わりのあったエリヤならば、思いもひとしおに違いない。彼女の抱える傷を知っていればこそ、その明るさがひときわ眩しく、心を寄せるに至ったのだろうと容易に想像がついた。
だが、とアーサーは考えた。
先ほどの少女の様子からするに、エリヤが言っていた通り、本当にハワード家の若君を追って来たわけではないらしい。互いに気を置かず、仲はよいようだが、やはりエリヤの踏み込みが今一歩足りないのだろう。
見目のいい貴公子に近付こうとする令嬢は数え切れぬほどいたはずだが、彼女らには常に一歩引いて対応して来たエリヤは、それが身に染み付いてしまっている。結果、いざ本命を前にした時の踏み込みができず、現在の微妙な距離感に納まっているに違いなかった。
(この調子では、まだ時間がかかりそうだな)
アーサーは妻子のいる身ではあるが、助言ができるほど女性の扱いに長けているとは言いがたい――ハワード家の私兵隊長も、帰れば妻に小言ばかり貰っているのだ。若い二人については職務に支障が出ない限り見守ることにして、エリヤが戻るだろう頃合いを図って、アーサーも広場へ朝食を貰いに向かった。
* *
討伐隊長ハカムは、中央の大天幕にいた。エリヤが声をかけて中に入れば、彼はテーブルの地図に向かい、昨日出した偵察からの報告をまとめているようだった。エリヤに目をとめると、ハカムはかたわらにいた兵卒を下がらせ、若者を近くに招いた。
「昨日は、お騒がせして申しわけなかった」
挨拶の後にエリヤが切り出せば、ハカムはにやりと笑った。
「まったくだ。やって来たその日にしてすっかり噂の的ときている。して、昨夜はいかがだったかな」
「……あなたもそれを言うのか」
起き出してからずっとこの話題でからかわれ続け、エリヤはすでに疲弊していた。寝起きする天幕を出てから、開口一番に昨夜はどうだったかと聞かれ、出て来るなら少女の天幕であるべきだと胡乱に見られた。その上、なにもないと言えば、なぜかがっかりされたり、嘘つき呼ばわりされたりする始末だ。ニーナの昨日の切れっぷりを見れば、エリヤが怒鳴られる以外になにも起こりようがないことくらい分かりそうなものだが、一体皆はなにをそんなに期待しているのか。
「ニーナを陣内に置くのを許していただけたことには感謝を申し上げたい。彼女、決まった宿はとっていなかったようだ」
「そのようだな。だが、わたしはなにもしていない。侍女殿が交渉に来たのは確かだが、話を聞いて天幕を譲ったのはそちらの騎士だ。邪魔にさえならなければ、留まるのは構わん。美しくいじらしい闖入者のおかげで、思いがけず隊の士気は上がったようだ」
ニーナの気立てをいじらしいと言えるかは分からなかったが、美しい少女であることはエリヤも認めるところだった。黙って立っていれば、プラチナの輝きを纏う姿は大変可憐に違いないのだ。ひとたび口を開けば、彼女が見た通りでないことはただちに判明するが。
「それで、今朝は噂のお嬢さんは一緒ではないのか」
「わたしが出て来たときにはまだ起き出していないようだったが、今頃はもう起きているかもしれない」
「あまり目を離すのはよろしくないと思うが」
ハカムの言い方に、エリヤは不快感を表した。
「どういう意味だ」
南方人の隊長は口の片端を上げ、細長い眼差しの奥に野蛮さを覗かせた。
「ディーリアの騎士殿がどれほどお上品かは知らないが、こちらは粗暴な武人ばかりだ。何があってもわたしは関知しない。色恋で他の兵と揉めることがあれば容赦なく叩き出す」
「……肝に銘じておく」
忠告としてハカムが凄んでみせるのももっともであり、エリヤは苦虫を噛みつぶした。隊長は付け足すように続けた。
「あと、偵察の報告によると、お嬢さん方は昨日、森でトロールに襲われる寸前だったそうだ。あまり周辺をうろちょろしないよう、言い聞かせておいていただきたい。トロールの動きが把握しづらくなる」
「承知した。わたしから伝えておこう」
陣内でのニーナに関する諸々はこれで決まり、今日明日の日程については朝食後に皆が揃った場で伝達するとのことだったので、エリヤは大天幕を退出した。
朝食をとるために広場へ向かえば、アーサーがすでにエリヤの分の席と食事を確保していた。椀の中身は大きく切った野菜と肉を香辛料で煮たもので、ハルバラドに来て以来すっかり馴染んだ辛みある香りが一帯に漂っていた。
席に着きながら、エリヤは少女の姿を求めて辺りを見回した。いればすぐに目を引くはずだが、見つけられず首をひねる。
「ニーナ達はまだ寝ているのか」
「お嬢さん達なら先に食事を終えて、早々に出かけていきましたよ」
討伐隊長から念押しされたばかりだっただけに、エリヤは思わず眉をひそめた。
「そうか……少し遅かったか」
「彼女達になにかご用でも?」
椀の中身を一口食べ、咀嚼しながらエリヤは少し考えた。
「隊長殿に、ニーナ達をあまりうろうろさせるなと言われたんだ。どこに行ったかは聞いていないか」
記憶を辿るように、アーサーは唸った。
「東に行ってみるようなことを言ってましたが、どことは聞いてませんな」
「隊長殿の話だと、昨日はトロールに襲われかけていたらしいし、危険なことをしていなければいいんだが。いくら彼女がディザーウッドで育ったとは言っても、トロールの出没する森を同じ感覚で動き回られてはたまらない」
考え始めたら、急に心配になって来てしまった。ニーナ自身はトロールは危険ではないようなことを言っていた気がするが、被害が出ている以上、信用できたものではない。彼女がどこまで聞き入れてくれるかは分からないが、少女達が戻ったら少しきつめに言う必要がありそうだ。陣内で自分以外の騎士や武人とも親しくし過ぎないように釘を刺すべきだろうかとも考えながら、エリヤは懸念を抱えつつ食事を進めた。





