6 謝罪
ニーナがシルキーを振り払い、凄絶な形相でこちらに向かってくるのを見て、エリヤは回れ右をした。過去に感じたことのない種類の恐怖に、条件反射のように逃げ出す。だが猛然と駆けて来た少女の方が速く、マントを思い切り引っ張られてエリヤは仰け反った。
「うわっ」
そのまま勢いに乗せて体を反転させられ、次の瞬間にはニーナと間近に顔を突き合わせていた。胸倉をつかむ彼女の据わった目に、エリヤは凍り付いた。
「エリヤ、これはどういうことかしら」
少女のものとも思えないほど、ニーナの声はどすがきいていた。エリヤの方が身長が遥かに高いはずだが、見下ろされている気がするのはどういうわけだろう。
「どうと言われても……」
「あたしは、来るなって言ったわよね。それともあたしの言った意味も分からないくらい馬鹿だったわけ? 一体どういう了見でここにいるのかしら」
これではそこらのならずものと変わらない。否、ならずものより質が悪いと考えながら、エリヤはすくみ上った。
「だから、これは、その……」
必死で言葉を探しながら、エリヤは今更のように、周りの視線に気づいた。誰もがこの光景に唖然とし、あるいは少女の剣幕におののいている。シルキーにいたっては、両頬に手を当てて、真っ青な顔をしていた。
エリヤはそれこそ今更に焦り、襟元をつかんでいたニーナの手をつかみ返した。
「ここではまずい。向こうで話そう」
「ちょっと、引っ張らないでよ」
とにかく早くこの場から去りたいエリヤは構わず早足に歩き、歩幅の違いでニーナは小走りについて行く形になった。背中に刺さる好奇の視線があまりにいたたまれない。少女が非難がましく喚くのを聞きながら、エリヤは極力周囲に目をやらないようにして、その場を後にした。
* *
取り残された兵士達の中で、シルキーはあえて二人を追わなかった。エリヤには悪いが、さすがのシルキーにも今のニーナは手に負えない。少女の気が済むまで彼に相手をしてもらおうと、シルキーは勝手に決めた。ここに来てニーナの不興を買ったところで、エリヤの扱いが変わるものでもないだろう。
「なんだ、あの娘は」
気後れを脱したらしい指揮官が呟くと、思い出したように周りの兵士がざわめいた。
「エリヤ殿のお知り合い? お前知ってるか」
「知るわけないだろう、見たことない子だし」
「まさかとは思うけど、エリヤ殿の恋人、とか?」
「さすがにそれは違う気が……」
兵士達が好き勝手言う中で、シルキーはどうしたものかと考えた。いっそのこと、二人が恋人だということにしてしまえば簡単だとも思うが、それはそれでニーナの逆鱗に触れそうだ。おおむね、友人以上恋人未満と言えるのだろうか。
正直、二人の関係は微笑ましくもあるが、非常に面倒であるとシルキーは考えていた。そしてニーナの破天荒にいちいち真面目に付き合っていては、神経がもたないことも学習しつつあった。基本的にジンとは忍耐強い性質を持つものだが、神経が鋼鉄でできているわけではないのだ。
今後のことを思い、シルキーは頬に手を当て、やれやれとため息をついた。
* *
エリヤは寝起きする場として割り当てられた天幕にニーナを押し込んで、取り急ぎ周囲の目から逃れた。
「なぜ君がここにいるんだ」
天幕の戸布を閉めると同時にエリヤは詰め寄った。だがニーナはかえって目付きを鋭くして睨んできた。
「あたしはいいのよ。問題なのはあんたがここにいるってこと。レイモンドおじさんにも頼んでおいたはずなのに、どうなってるのよ」
「陛下は分かってくださったよ」
言いながら、エリヤは天幕内に用意された簡素な丸椅子に座り、ニーナにも座るよう、小振りなテーブルを挟んだ向かいの椅子を示した。彼女は素直に従ったが、表情は相変わらず不満たっぷりだ。不機嫌な少女と向かい合うと、なんとなく、出会った当初に戻ったような心地がした。
天幕にあるのは最低限のテーブルと椅子に、荷物を仕舞うチェストが一つ。寝床として、布とクッションを重ねた、ごく低いベッドらしきものが一番奥に二つ置かれていた。兵士達のほとんどは大人数で雑魚寝をする形になるが、上位の騎士は二、三人で一つの天幕を使うことになっている。エリヤもアーサーと二人で、天幕を共有することになっていた。
落ち着いて話せる態勢ができたところで、エリヤは口を開き直した。
「陛下はきちんと君の意思をわたしに伝えてくださった。その上でわたしのことも理解して、こうして送り出してくださったんだ」
だがニーナは納得した様子もなく、半眼でエリヤを見据えた。
「おじさんったら、肝心なところで役立たずなんだから。帰ったら一言、言ってやらないと」
「ニーナ、今考えることはそこではないだろう。それより、まさか君が王の血筋だったなんて。なぜ言わなかった」
エリヤが問い詰めると、ニーナは口を尖らせた。
「違うわよ。あたしは王の血筋なんじゃなくて、王があたしの血筋なの」
「なにが違うんだ」
「大違いよ。王様なんてね、ちゃんと国が治まりさえすれば誰だっていいのよ」
「それはいささか乱暴過ぎるんではないか」
「本当のことよ」
エリヤの非難をものともせず、ニーナはつんとして返した。
現王の兄弟といえば、兄であるデトラフォード公爵ダミアンのみのはずだが、ニーナは母親が貴族だと言っていた。しかし駆け落ちという不祥事によって王の姉なり妹なりが歴史上抹消されたのだとすれば、その存在が知られていないことについて、腑に落ちない点はあっても一応は説明を付けることができる。ニーナが王宮で表舞台に出て来ないのも、その辺りが影響しているのではとエリヤは考えていた。
詰問にもまったく物怖じしないニーナに、エリヤはため息をついた。だが反面、変わらない彼女にほっとしてもいた。少女からの反発には慣れているが、避けられるのは耐えられそうになかったからだ。
エリヤは深く呼吸して、一旦自分を落ち着かせた。
「……申しわけなかった」
前置きなくエリヤが呟くと、ニーナはちょっと驚いた顔をしてから、もう一度目を細めた。
「あたしの言うことを聞かなかったのは、一応反省してるわけね」
「そうじゃない」
エリヤは被せ気味に否定して、真正面からニーナを見た。
「ハルバラドに来たことは間違っていると思っていない。やはり必要なことだと、ここに来て改めて感じている。わたしが言っているのは……あの夜のことだ」
ニーナの怯えた表情が、今でもエリヤの記憶に焼き付いていた。自身の行いを覚えていなかったとしても、守りたいと願った相手を自ら傷付けたのは間違いない。自分のしたことについてこれほど後悔したことは、過去にさかのぼっても他になかった。
「ずっと、謝りたかったんだ。君のことを、ひどく傷付けてしまったから」
見詰めるニーナの顔から表情が消えた。そのまま黙ってしまい、不用意に思い出させて、また怯えさせてしまっただろうかと考える。
その時、ニーナが大きく息を吸い込んだ。怒鳴られると思ってエリヤは身構えたが、彼女が吐き出したのは大袈裟なため息だった。
「やっぱり馬鹿ね」
予期せぬ反応に、エリヤはむしろたじろいだ。
「なぜそうなるんだ」
「エリヤ、あたしのこと見くびってるでしょう」
ニーナの眼差しに、わずかな軽蔑の色がこもった。
「酔っ払いのすることにいちいち真面目に付き合っていられるほど、今のあたしは暇じゃないのよ。エリヤがどんな人間かくらいちゃんと分かってるし、あたしにだって落ち度がなかったわけじゃない――今更謝られたって困るわ。それとも、あたしのファーストキスを返してくれるわけ?」
「…………」
不可能なことを言われてエリヤは黙りこくり、ニーナは呆れて腕を組んだ。
「本当に馬鹿なんだから。冗談に決まってるでしょう。真剣に悩まないで」
「だが……」
「だから、もういいってば。あたしは気にしてないんだから、あんたもいつまでもうだうだ言わないの。鬱陶しいから、この話はこれで終わり」
ニーナは無理やり話を切ると、テーブルに肘を突いてもう一度ため息を吐き出した。
「あんたが馬鹿過ぎて、なんだか気がそがれちゃった。来てしまったものは仕方ないし、なんとか考えるしかないわね」
ニーナから馬鹿と言われ過ぎて、それに慣れつつある自分に疑問を抱きながら、エリヤは話題を元に戻した。
「そういう君こそ、なぜこんなところにいるんだ。危険な場所であることくらい分かるだろう」
「大して危なくないわ。砦の中はどうか分からないけど」
認識のずれを感じて、エリヤは眉根を寄せた。
「トロール討伐の前線だから確かに安全とは言いがたいが、後ろにいてくれれば守ることはできる」
「あたしにとって危険なのはトロールではなくて人よ」
頬杖を突いて、ニーナはやや疲れたような表情をした。
「エリヤに守って貰うようなことは今のところないわ。強いて言うならトロール討伐をやめさせて欲しいけど、あんたに言ったところでどうにもならないものね」
悩まし気なニーナに、エリヤは疑念を募らせた。
「なぜ君は、それほどトロール討伐をやめさせたがる。この被害状況を見てなんとも思わないのか」
「そんなわけないでしょう」
少しだけ瞳に力を戻して、ニーナは反論した。
「ただあたしは、トロールが町を襲った原因を突き止めて、それを取り除きたいだけ。トロール討伐は根本的な解決にならないし、むしろ怒りを買って状況を悪化させる可能性の方が遥かに高いもの」
「トロールを怒らせて、さらに被害が出るというのか」
「そう思って貰っていいわ。そうならない方法を探すために、あたしはここに来たのだから」
ニーナは彼女なりに、エリヤ達とは別の方法でトロールに対処しようとしているということなのだろう。彼女が被害を軽んじているわけではないらしいことに、エリヤはいくぶん安堵した。
思い返してみれば、どんなに嫌っている相手であっても、死んでいいとは考えない少女なのだ。被害を目の当たりにして胸を痛めないはずがなかった。そしてニーナのその優しさが、生きものとしてのトロールにも例外なく向いていると考えれば、討伐に反対する理由にもなりえるようにも思われた。
「若君」
天幕の外から控えめに呼ばれ、エリヤは会話を中断した。
「アーサーか。どうした」
「食事の用意ができたそうです。話が終わったらで構いませんが」
珍しく遠慮した様子で、アーサーは戸布越しに言った。
言われてみれば、天幕の布の隙間から差し込む光は赤みを帯びており、食べ物の匂いも漂って来ているようだった。思ったより長く話し込んでしまったらしい。
「分かった。今行く」
エリヤは立ち上がり、ニーナの方を振り向いた。
「君も食べて行くか? 野営地の食事だから凝ったものはないだろうが」
ニーナは上目遣いにエリヤを見上げて考える様子を見せたが、待たせることなく椅子から立ち上がった。
「そうするわ。怒ったせいか、とってもお腹が空いてるの」
「そうか」
少々ばて気味なニーナに苦笑しながら、エリヤは連れ立って天幕を出た。
外は茜色に染まっていた。夕日に照り映える雲を背景に、複雑に茂る密林は黒々とした影のみを見せている。陣内は相変わらず騒がしかったが、先ほどのごたごたとは違う、夕食時ののどかな喧騒だ。広場には石を積んだ炉で大鍋が煮立っており、丸太に板を渡した簡易なテーブルとベンチがいくつも並べられている。炉では網に乗せて肉の塊も焼かれ、油の焦げる匂いが空腹に染みた。
三々五々に食事を楽しむ兵士達の間を、エリヤはニーナを連れて抜け、大鍋をかき回しているハルバラド人の若い兵士に声をかけた。
「申しわけないが、彼女にも分けてもらえるか」
食事係の若者は顔を上げると、一度ニーナに目をやり、ぱっと表情を輝かせてエリヤを見上げた。
「ああ、それでしたら、向こうでエリヤさんのものと一緒に作ってます」
「一緒に? どういうことだ?」
思わぬ答えに、エリヤは眉をひそめた。
野営地では基本的に皆同じものを食べるものだ。隊が合流したばかりの今日だけは、上位騎士は希望すれば特別あつらえをしてもらえたが、エリヤは断っていた。それが別で用意されているとは、どういうわけなのか。
訝しむエリヤをよそに、若者は妙に、にこにこして答えた。
「ここの者は皆、エリヤさんの味方です。おれも応援しています」
若者は力強く言ったが、噛み合わない会話にエリヤは困惑した。
「どうかしたの」
背後で痺れを切らしたらしいニーナが急かすようにマントを引っ張り、エリヤは困って顔を振り向けた。
「それが、わたしにもよく分からないんだが……」
「話はお済みになりましたか」
別の方角から声がして振り向くと、歩み寄って来るシルキーと目が合った。彼女は大きめの盆を捧げ持っており、香草で焼かれた肉と、銀の椀で湯気を立てる汁物が乗っていた。
「シルキー、今までどこにいたのよ」
ニーナが驚いて言うと、シルキーはなんでもない様子で首を傾けた。
「ずっと陣内におりましたよ」
「そういう事じゃあなくて……」
ニーナが皆まで言う前に、シルキーは心得たように微笑した。
「わたくしではお相手しきれないと思われましたので、ニーナ様のお怒りが静まるまで、エリヤ様にお任せしただけです」
「……あんたも言うようになったわね」
ニーナはちょっと睨んだが、シルキーは気にしないようだった。
「適材適所です。ここでニーナ様のエリヤ様に対する評価が変わるとは思えませんし、ニーナ様の不満を発散するお相手としてこれほど適任の方もいらっしゃいませんから」
「だそうよ」
ニーナがすがめた目をエリヤに向け、彼は口元を歪めた。
エリヤはシルキーと会ったのはこれで二度目だが、以前とはかなり印象が違う気がした。前に会った時にはもっとニーナに従順に見えたのだが。ドレスでなく男物の服を着ているために、余計に違いを感じるのかもしれないが、それだけではないだろう。
「ずいぶん、知ったように言うんだな」
エリヤが軽い非難を込めると、シルキーは笑みのまま視線を向けて来た。
「勘違いなさらないでください。申し上げましたでしょう、適材適所だと。本来ならすべてわたくしが負うべきなのですが、わたくしでは足りないことが分かりました。ですから、今だけはあなたにお任せしたのです。あなたを認めたわけではございません――ニーナ様をお守りするのは、わたくしの役目です」
穏やかでありながらも、有無言わさぬ口調でシルキーは言い切り、エリヤは呆気にとられた。どういうわけかは分からないが、喧嘩を売られたような気がしなくもない。どうやら彼女が、エリヤをあまり好ましく思っていないらしいことだけは察せられた。
シルキーは、捧げ持っていた盆を少し持ち上げた。
「食事にいたしましょう。冷めない内にお召し上がりください」





