3 吐露
オレンジ色に塗り込んだような夕映えの空を、ニーナはぼんやりと見上げた。部屋にろくな照明はないが、窓から差し込む光で室内の様子が分かるくらいには明るい。
夕食を宿の人に頼んで部屋で済ませ、今シルキーが一階の酒場へ食器を返しに行っている。あれで抜け目ない彼女なら、ついでに南の森の情勢についてなにかしらの話を得て来てくれるだろう。
ため息をついて、ニーナは窓の外に両腕を投げ出した。右手で左手首を押さえれば、硬い感触が掌に伝わる。普段気にすることはなくなっていたが、一度意識してしまうと駄目だった。初めて腕輪を手にした時を思い出し、気持ちが捕らわれてしまう。
ニーナが傷付けてしまったものの表情は、今でも脳裏に鮮明に焼き付いていた。謝りたいと願っても、それは絶対に叶わないのであり、空しい後悔だけが胸をさいなむ。不覚にも目頭が熱くなってしまい、ニーナは目を閉じてそれを堪えた。
「ニーナ」
不意に呼ばれて、ニーナは目を開いた。声の方に顔を向ければ、ダワが隣の部屋の窓から身を乗り出してこちらを見ていた。彼はにっこり笑って、手に持っている銀のカップを掲げた。
「一緒にどうだい?」
迷ったのは一瞬で、ニーナは小さく頷いて、静かに部屋を移動した。
ダワの部屋も、ニーナ達の部屋と同様に薄暗かった。それでも相手の表情を見るのには困らない。
ダワからカップを受け取ると、ニーナは中の琥珀色の液体の香りを少し嗅いでから口に含んだ。飲み下した途端、つんとした臭気が鼻腔を刺して、喉が焼け付き、ニーナは思わず呻いた。
「……こんなに強いのを飲んでるの?」
カップの中身は同じはずだが、ダワは平気な顔をしていた。
「これがいいんだけどな。もう少し弱いのもあるけど、そっちにするかい」
ニーナは少し迷ったが、今はこれでもいい気がして、さっきよりもたくさんの量をそのまま口に入れた。ニーナの様子に、ダワはかすかに苦笑した。
「その腕輪、普段は仕舞っておいた方がいい」
ダワが唐突に言い、ニーナは頭の中心がぼんやりするのを感じながら彼を見た。
「どうして?」
「誰の目につくか分からないだろう」
諭す口調で、ダワは言う。
「今回はおれだったからよかった。これが物騒な連中なら、盗られても文句は言えない」
ニーナはやや俯いて、そっと左手首を包んだ。そんな少女の姿に、ダワは声音を和らげた。
「大事なものなんだろう」
改めて言われると、どうしてかニーナの胸を切なさがよぎった。
「……そうね。とっても大事なもの。でも……こんなもの、欲しくなかった」
言いながら、カップを持つ手に思わず力がこもる。
間違いなく、四瑞石は重要なものだ。だが時に、ニーナの目には忌々しく見えてしまうこともある。
苛立ちを感じて、ニーナはカップの中身を一気に飲んだ。
「自分が普通じゃないことくらい、もう嫌ってほど分かってる。でも、そのためだけに、どうして今まであったもの全部取り上げられないとならないの。いくらなんでも勝手よ。ひどすぎる」
おぼろげになり始めた意識の中で、ニーナは自制の利かない自分を感じた。わけの分からない憤りが湧き上がって、もう抑えようがない。
「どうしてこうなったのか分からない。逃げ出したお母さんが悪かったなんて思いたくない。ましてやカディーのせいだなんて、あたしに言う資格もない」
前触れなく、突然にぼろぼろと涙が零れた。
「ニーナ?」
ダワがぎょっとした声をあげたが、それさえもニーナは気にならなかった。もう何に対してかも分からない、怒りやら悔しさやら寂しさやらがごちゃ混ぜになり、溢れて止まらない。喉が引きつって声が裏返り、ニーナは自分でもなにがなんだか分からないまま泣きじゃくった。
「もう……こんなのいやだよ。帰りたいよ。家に、帰りたい……カディー……カディー、ごめんなさい。カディー……ごめんな、さい。ごめんなさい……」
言葉が支離滅裂になっていることさえ、ニーナは気付かなかった。涙としゃくりが止まらず、感情が溢れるばかりだ。
頭を、なにか温かいものが撫でた。それは、ニーナを気遣うダワの手だった。途端に、ニーナの最後の堰は決壊した。ダワのシャツをつかんで引き寄せ、顔を押し付けると、涙も鼻水も構わずにわっと声を張り上げた。
* *
ふう、と。ダワは深く息を吐いた。温い酒を一口飲み、仰け反る。
「参ったなあ……」
呟いたダワのすぐ横では、少女が寝具に体を埋めて、すっかり熟睡していた。日は完全に落ち、部屋の光源は外の商店の灯りが窓から薄く差し込むだけだった。
ふと目に入った少女の思い詰めた表情が気になって、部屋に招いて酒を勧めたのは自分だ。だがまさか、ここまで大泣きされると、誰が思うだろう。特に何をしたわけでもないが、すごく悪いことをしてしまった気分だ。経験は少なくないつもりだが、この歳になって、こんな少女の涙にこれほど狼狽しようとは思わなかった。
もう一度ため息をつくと、ダワは涙やら鼻水やらで汚れてしまったシャツを脱ぎながら立ち上がり、壁際の荷物から新しいものを引っ張り出した。
「いつまでもそんなところにいないで、入ったら」
新しいシャツに袖を通しながら、ダワは低く言った。
僅かな静寂の後で、ゆっくりと部屋の扉が開いた。黄色い髪の少女が、音もなく入って来る。衣服を整えて、ダワは彼女に向き直った。
「全部聞いていた?」
優しく問うと、シルキーは緩やかに頷いた。そして、何とも言えぬ感情をにじませた瞳を、ベッドのニーナに向けた。
「本当は、ずっと分かっていました」
表情とは裏腹に、呟く少女の声は冷静なものだった。
「ニーナ様はお強い方だから、たくさんのことを我慢して、自分の中に仕舞い込んでしまわれる。その捌け口を……宙に浮いてしまったご自身の居場所を、ニーナ様は求めているのです」
なにかを堪えるようにシルキーは目を細くして、呼吸を深めた。
「わたくしでは足りないのです。前の方をなくされたトラウマから、わたくしに遠慮なさっていらっしゃるから……前の方を忘れられない限り、ニーナ様は決してわたくしに感情をぶつけてはくださらない。わたくしがどんなに望んでも、そんな日は来ないのです……」
ダワは誘われるように、ベッドへと目を向けた。どこまでも無防備な少女の寝顔に、束の間見入る。
「……カディー、か」
ダワが思い出しながら呟くと、シルキーは寂しげに微笑んだ。そして何を思ったか、彼女は深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「お礼を言われるようなことをした覚えはないけど」
謙遜でなくダワは言ったが、シルキーはゆるゆると首を振った。
「ニーナ様が苦しんでいらっしゃるのを分かっていながら、わたくしにはなにもできなかった。あなただから、よかったのだと思います。あなただから、ニーナ様はすべて吐き出せた」
シルキーは再び、ニーナに目を向けた。
「明日から、ニーナ様には過酷な日々が待っています。だから、これでよかったのです。今だけでも安らかに眠れるのなら、それで……」
ダワは残っていた酒を飲み干して、カップを置いた。
「そうだね。ただし、一つだけ問題がある」
シルキーがこちらを見て首を傾けたので、ダワは緩く笑んだ。
「おれの寝床がとられてしまった」
「それでしたら……」
「だからさ」
シルキーの言葉を、ダワはすかさず遮った。男の目が、少女の瞳を正面からとらえる。
「君のところに、行ってもいいかな」
一瞬、間があった。意味が伝わるのにやや時間がかかったようだが、シルキーが目を見開いたので、正しく受け取られたのが分かった。ふ、と息をもらし、彼女はくすくすと笑った。
なにがそんなにおかしいのかは分からなかったが、笑う少女にダワは自然と歩み寄った。春の色味の髪を撫で、すべらかな頬に触れ、細い顎を持ち上げる。ふっくらとした唇を親指で柔らかくなぞっても、彼女は逃げも怯えも見せなかった。ダワはもう一方の手で少女の華奢な腰を抱き寄せ、そっと唇を重ねた。
触れるだけの口付けから、わずかに顔を離して見たシルキーは、しかし恥じらう様子も、動じる様子もなく、変わらぬ穏やかさでダワを見詰め返した。
「わたくしは構いませんが、おそらくあなたのご期待には沿えません」
「なぜ?」
ダワが耳元で囁くように問うと、シルキーは状況にそぐわぬ冷静さで答えた。
「わたくしに、その能力がないからです。行為に伴う快楽も苦痛もありませんから、わたくしにとって本当に意味のないことなのです――ああ、でも、痛覚はあるので乱暴されればやはり痛いですね」
「……なるほど」
ずいぶん変わった拒絶の口実だったが、シルキーが言うと妙な説得力があった。かと言って、美少女を前に興がそがれたわけでもなかったものの、ダワは苦笑して手を引いた。
「分かった。仕方ない。今日は一人で寝ることにするよ」
するとシルキーは、やけに満足そうに笑んだ。
「ダワ様はわたくし達の部屋を使って下さい。今晩は部屋を取り替えましょう」
「それがよさそうだね」
ダワはシルキーの横を通り過ぎて、扉に手をかけた。
「それじゃあ、お休み」
「お休みなさいませ」
挨拶を交わして、ダワは少々の未練を感じつつ部屋を移動した。
(面白いお嬢さん方だ)
心底そう思いながら、ダワはベッドに寝転がった。
今までに多くの女性と関わりを持ってきたが、今回の二人が意外性で抜きん出ていることは間違いない。特にシルキーは、見た目に沿わない大人びた言動といい、不思議と引き付けられるものがある。常であればためらわず行きずりの恋に興じるところだが、彼女の底の見えない雰囲気は、それでは済まされない感じがした。
明日また、もっと色々な話ができることを期待しながら、心地よい酔いに身を任せて、ダワは目蓋を閉じた。





