2 腕輪
ダワの泊まっている宿は、食堂からそれほど離れてはいなかった。主道沿いにある赤レンガの建物の一つで、高級といかなくともそこそこの上宿のようだ。五階建ての建物の一階はちょっとした食堂を兼ねた酒場になっており、汚い感じはないが、それほど洗練されてもいない印象だった。
旅行者向けの安宿と言えば複数人で相部屋が普通だが、彼は個室を取っていた。広さはなくても、扉にはきちんと鍵が設置されている。一般的な旅人としてみれば、それなりに贅沢だ。すごく高価というほどではないにしろ、宝飾品を扱っているだけのことはあるのだろう。
「狭いけど適当に座って。今出すから」
ニーナ達を招き入れながら、ダワは部屋の隅に積んである荷物の前に屈み込んだ。だが見たところ、室内に椅子らしきものはない。少し考えてから、ニーナは部屋の半分を占拠しているベッドの縁に腰かけた。ベッドは木板に薄い布団が敷いてあるだけで、固くて寝心地はいまいちそうだ。床で寝るよりましくらいなものだろう。
シルキーは座ることなく、ニーナのかたわらに正しく立った。
荷物の前から立ち上がったダワは、ベッドに軽い動作で乗り上げると、磨かれて艶々した平たい木箱を二人の前に置き、開いて見せた。木箱の内側には黒い布が厚く貼られており、銀の輝きが整然と敷き詰められていた。
「――綺麗」
銀の豪華すぎない品良い輝きに、ニーナは身を乗り出した。フォルワース領主館やデアベリー宮殿で豪奢な品々は色々と見ていたが、普段使いならばこれくらいが嫌味がなくて好ましくも思える。
「よかったらなにか買っていってよ。ニーナには、これとかどうかな」
ダワが選んで取り上げたのは、小振りな首飾りだった。指先ほどの小さな花に、極細の鎖が通されている。
「わあ、可愛い!」
モチーフの花は異国のものと思われ、ニーナの知らない種類のものだったが、細密に彫られた花弁から、丁寧に作られたものであることが分かる。
「向こうを向いて」
ダワの言葉に、着けてくれるつもりなのだと分かったニーナは、素直に彼に背中を向けた。銀の花が視界を横切り、ニーナの喉元に納まる。
「さあ、こっちを向いて見せて」
言いながらダワは鏡を取り出しており、向き直ったニーナはしげしげとそれを覗き込んだ。ニーナの様子を眺めて、ダワは満足そうに微笑んだ。
「うん。やっぱりよく似合う。男の服を着てるのが惜しいな。髪を下ろして女の子らしい格好をしたら、それこそ世界中の男が放っておかない。今ならたっぷりおまけするよ。どうかな」
ダワは気前よく言い、ニーナは悩んで唸った。正直、ダワのセンスはよくてニーナもこの首飾りが気に入っていた。しかし、これからなにがあるかも知れないのに、こんな出費をしていいのだろうか。
しばらくの思案の後、ニーナは緩く首を振った。
「やっぱりよしておくわ。今は無駄遣いできるほど手持ちもないし。せっかく見せてくれたのに、ごめんなさい」
ダワは少しだけ眉尻を下げた。
「そうか……シルキーもいらないのかい?」
彼が矛先を変えると、シルキーも苦笑して首を振った。
ダワは困ったように頬を掻くと、なにか思い付いた様子で指を立てた。
「それじゃあ、それは君にあげるよ。その代わり、君が着けている腕輪を見せてくれないかい」
「え?」
「袖の下に着けてるだろう? 実はずっと気になってて」
揉み手する勢いのダワに、ニーナはぴんと来た。
「もしかして、始めからそのつもりで?」
するとダワは、からからと軽く笑った。図星らしい。
無意識に隠すように、ニーナは左の袖口を押さえた。
「でも、これは……」
「見るだけでいいんだ、本当に。着けたままでだっていい。ね、この通り」
ダワが真剣に拝みだし、ニーナは困惑してシルキーに視線を向けた。だが彼女はダワに目をやったまま特になにも言わない。それを見て、多分、少しくらいなら大丈夫なのだろうとニーナは考えた。
「そこまで言うのなら」
ニーナは左袖を捲り、腕を差し出した。吸い寄せられるようにダワがその手を取り、腕輪に顔を寄せた。
「これは……すごい」
ダワは目を見開き、瞳に光を躍らせた。
「普通ではないと思っていたけど、想像以上だ。これほどのアンティーク、滅多に出会えるものじゃない」
「分かるの?」
目の色を変えるダワにニーナが思わず尋ねると、彼はもちろんと得意げに笑んだ。
「これで実は、アンティーク宝飾との出会いに人生を捧げているんだ。とても手元に集めるなんてできないけど、名品の噂を聞けばどこへだって飛んで行く。銀細工は趣味と実益さ」
愛おしそうに、ダワは腕輪を撫でた。
「アンティーク宝飾はたくさんの人の手を経て、そのすべての人の思いがこもっている。そして最後には持つべき人の手に渡り、真の輝きを放って本来の価値を見せるんだ」
うっとりと言うダワを、ニーナは見詰めた。まるで、他人への愛の告白を聞いてしまったような妙な気分だ。
「この腕輪に刻まれている模様がなにか分かるかい」
急に聞かれて、ニーナは首を振った。金の腕輪には小さな円と曲線を組み合わせた模様が刻まれていたが、ニーナには意味のあるものには見えなかった。
ダワはちらとだけニーナを見て、穏やかに目を細めた。
「これはサンザシ。サンザシの意匠が好まれたのは、三百年ほど前のディーリア王国だ。それだけ古いものでありながらほとんど金が変色していないのは、質のいい合金である証。これを作ったのは、よほど腕のいい職人だったに違いない。それでこの大きさとなれば、価値は計り知れない。真ん中の石はブルーダイヤ……とは違うな。なんだろう、見たことのない石だ」
ダワは顔を上げて、正面からニーナの目を見た。
「こんな逸品、一体どこで?」
真っ直ぐな問いにニーナは一瞬詰まり、無難なあたりを探って答えた。
「あたしの家に代々伝わるものなの」
「へえ。こんなものがあるなんて、よほどいい家なんだね」
「そんなことはないと思うんだけど」
曖昧に笑って、ニーナは手を引っ込めた。ダワは名残惜しそうな顔をしたが、それでもすぐに感じよく笑った。
「ありがとう。いいものを見せてくれて。約束通り、その首飾りはあげるよ」
彼が本気だったとは思わず、ニーナはびっくりした。
「本当にいいの?」
「もちろん。それでも足りないくらいさ」
大袈裟に言いながらダワは商品の箱を閉じて脇に押しやり、改めてニーナに向き直った。
「そういえば君達、今夜の宿はもう決めたのかい?」
「いいえ。それはまだ」
ニーナが正直に言うと、ダワは再び顔を輝かせた。
「それなら、ここにすればいい。隣の部屋も空いているみたいだし、変な宿に当たるよりずっといいよ。おれはこの街ではいつもここなんだ。鍵付きの個室がある手頃な宿って、なかなかなくてさ。この国の安宿って言ったら相部屋どころか相ベッドなんてひどいところもあるんだ。あんなのは女の子が泊まるところじゃない」
ダワの提案に、ニーナは考えながらシルキーを見た。
「どう思う?」
意見を求められたシルキーは、すんなり頷いた。
「よいと思いますよ。わたくし達には初めての土地ですし、明日からは慌ただしくなるでしょう。大事な御身なのですから、休む時にはしっかり休まれるべきです」
うやうやしいシルキーに苦笑しながら、ニーナは立ち上がった。
「そうね。それなら早い内に部屋を取りましょう。それじゃあダワ、どうもありがとう」
「ああ、また後で」
ダワはにこやかに手を振り、ニーナも笑みを返してシルキーと共に彼の部屋を出た。
荷物を投げだすと、ニーナはベッドに倒れ込んで息を吐いた。慣れない土地ではやはり知らぬ間に疲労が溜まるらしい。他人の目がないだけでもなんとなくほっとしてしまう。
シルキーは荷物を部屋の隅に置き直して、ニーナに顔を向けた。
「このまま少し休まれますか」
寝転んだまま、ニーナは少し思案した。
「一つ聞いてもいい?」
「いかがなさいましたか」
ニーナは寝返りを打って、シルキーの方を向いた。
「さっきのダワの目利きって、本物?」
シルキーは移動して、ニーナの寝転ぶ寝台に腰を下ろした。
「そうですね。確かではあるようです。正直、侮っていました」
「でも四瑞石はイヴが代々受け継いで来たものでしょう。それって、三百年どころではないわよね」
ニーナが確認を兼ねて問うと、シルキーは小さく笑んだ。
「ええ。石だけで言うのなら、千年以上前から伝えられているものです。ですが、失くさないように考えて腕輪にしたのは、のちのイヴなのです」
ニーナは驚いて、左手の腕輪を見た。
「最初はこんな小さな石だけを手渡ししていたの?」
「ええ」
「で、今みたいな腕輪になったのが三百年前ってこと」
「そうなりますね」
「それなら、ダワの目利きは本当に本物なのね」
感心して、ニーナは腕輪を撫でた。
不思議な青年だった。ニーナよりずっと年上のようだが、好奇心旺盛でどこか子供っぽさがある。それでいて、ふとした拍子に見せる大人の表情は、驚くほど紳士的だった。一緒にいると、さり気なく手を引いてくれているような、そんな安心感があるのだ。
(なんか、この感じって……)
胸の内にぼんやりと浮かぶものを感じながら、ニーナは目蓋を伏せた。
「疲れたから、ちょっと休む。夕食の時間になったら起こして」
「かしこまりました。お休みなさいませ」
静かに返答して、シルキーはニーナのそばを離れた。





