15 旅立ち
主塔の螺旋階段を上がりながら、エリヤは初めて足を踏み入れる場所に気を引き締めた。最上階の扉の前に詰める近衛の取次で、王の執務室へと通される。王の部屋は意外にも、灯りが控えられて薄暗かった。物を書くのに困らない程度の灯りが、王の向かっている机と、部屋の隅を占めるテーブルに置かれ、あとは壁のランプが一つ二つ灯されているだけだ。
レイモンド王は彫刻の優美な机に向かいながら、入室したエリヤをちらとだけ見た。
「座りたまえ。人払いはしてある。そう固くなる必要もない」
テーブルの横に据えられた長椅子を王が示し、エリヤは一瞬のためらいの後で従った。エリヤが座ると、王はようやく立ち上がって、こちらへやって来た。
「申し訳なかったな、呼び付けてしまって。他の者がいるところでは話せないのでな」
王はエリヤの向かいに座って、彼の目を見た。
「そう言えば、こうして面と向かって話すのは初めてか」
「はい」
エリヤが折り目正しく答えると、王は厳しい顔をやや緩めた。
「固くならなくていい。君の話はいつも聞かされている」
「いつも、ですか?」
思わず聞き返すと、王は膝の上で指を組んだ。
「ああ。そして君をハルバラドに行かせるなと言われている」
エリヤは目を見張った。
「どういうことですか。陛下の認可の後になって」
鷹揚に、王は頷いた。
「わたしもそう思う。今に始まったことではないとはいえ、なかなかに困ったことだ」
「一体誰がそんなことを」
エリヤの問いに、王は黙して答えなかった。
様々な人物を思い浮かべ、エリヤはその中から彼のハルバラド行きをよく思わないものを探した。だが不利益を被る者は思いつかず、反対の素振りを見せていた妹も最後には理解を示した。他に誰がいるのか。考えて、ふと、一人の少女の面影が浮かんだ。
「……ニーナ、ですか」
王は、やはりなにも言わなかった。是とも否とも答えず、薄茶の瞳に灯火を映している。
「……あれは、母親とよく似ている」
不意に呟き、王は遠くを見るように目を細めた。
「私情で動き、自身で納得のいかないことには決して屈しようとしない。そうしてあれの母親は定めに逆らい、定めにのまれ……最後は自らの命をもってそれを断ち切ろうとした」
王の短い語りに、エリヤはゆっくりと目を見開いた。再び、王の目がエリヤをとらえた。
「君に行くなとは、わたしには言えない。君一人が行かなかったところでなにも変わらないからだ。宮廷内での力関係に変化はあるだろうが、そんなものは些末な問題だ」
「南に、なにかあるのですか」
王はゆったりと顎を撫でた。
「君はどこまで聞いている」
切り返されて、エリヤは視線を落とした。
「なにも知りません。攻撃をしているのはトロールでなく人だとだけ聞きましたが、わたしにはまるで意味が分からない」
「そうか……」
エリヤが視線を戻すと、王は変わらずこちらを見ていた。
「守られるべき一線は守られているか――いや、わたしが確認することではなかったな」
自嘲気味に、王は笑った。
「こうなってしまったからには、やはりわたしではディーリアの王には不足していたのだろう。かと言って、今すべてを投げうてるわけがない」
王は眼差しに力を込めた。
「わたしは、彼女にすべてを託してみることにした。だからこそ、こうして君に彼女の意思を伝えたのだ。わたしにできることはなくとも、せめて彼女の心だけは尊重したい」
王の言葉にエリヤは聞き入った。王はなにか大きな秘密を抱えている。それは、ニーナが抱えているものと、同じなのかもしれない。
「ニーナは一体、何者なのですか」
しばらく沈黙があった。焦らすような間の後、王はようやく口を開いた。
「話が長くなったな。もう下がってよい」
「陛下」
「下がりなさい」
食い下がろうとしたエリヤに、王は有無を言わさず命じた。それでもエリヤは黙って座っていたが、王に答える意思がないと分かると、渋々席を立った。
「エリヤ・ハワード」
立ち去りかけたところで不意に呼ばれ、エリヤは振り向いた。王は変わらず、テーブルの灯火を見詰めていた。
「さっき言った通り、わたしが君に行くなと言うことはない。だが、彼女の気持ちは心の隅にでも留めておいてやって欲しい」
王はゆっくりとエリヤに顔を向けると、その表情を柔らかいものにした。
「わたしもこれで、たった一人の姪が可愛いのだ」
不意に落ちた雫が波紋を描くように、エリヤの中で驚きが広がった。同時に、やはり、という思いも去来した。
王が一度は口を閉ざした以上、本来なら秘されるべきことなのだろう。それでも最後にはあえて明かしたその意味を、エリヤは考えた。そこに王としてでなく、少女の家族としての思いを見た気がして、エリヤは応えるように笑みを返した。
「失礼します」
和んだ空気をそのままに、エリヤは王の部屋を後にした。
* *
棚から取り出した金の腕輪を、ニーナは左手にはめた。幅広で、卵型をした青紫の石のはめこまれたそれを、右手で包み込む。
四瑞石と呼ばれる青紫の石は、イヴの血を判定し、力の封印を解く鍵だ。たとえ紛う方なき直系の長女でも、未熟な子供の血では反応がなかったり、四色現れるべき色が欠けたりして、血の鍵は開かないと聞いた。イヴがすべての命の母体と言われる以上は、文字通り母たる資質が満たされている必要があるのだろう。
四瑞石は血の鍵であると同時に、精霊への血の受け渡しにも使われる。血を降らせるとき、四滴の血を石に垂らせばそれだけで、季節ごとの嵐を起こす精霊達に行き渡らせることができるのだ。
普段は特に身に着けておく必要はないが、南へ行ってしまえばいつ塔に戻って来られるか分からない。忘れないためには、腕にはめておくのが一番いい。
「ニーナ様」
呼ばれて振り向くと、黄色い髪を結い上げた少女が部屋の入口に立っていた。彼女はいつものスカートではなくズボンを履いており、線の細さが際立つようだった。ニーナは一つ、深呼吸した。
「行きましょう」
覚悟を決めて、ニーナは部屋を出た。
今日のために、できうる限りの準備をしてきた。たくさんの精霊から情報を集め、必要な荷も揃えた。はたから見れば若い娘の二人連れだ。何があるかは分からない。
帽子を被って少年の扮装をした少女の鞄に入っているのは、硬いパンに着替え、いくらかの銀貨と常備薬、そしてナイフが一本。水や火の心配はしなくていい。人の手がいらないものは、それこそ彼女達が得意とする領域だ。
実際の重さよりもずっしりと感じる鞄を肩にかけ直すと、ニーナ達は晴れ渡った空へと飛び立った。
トロール討伐の騎士の列が、宮殿の門をくぐって行くのが見える。彼らの雄姿を一目見ようと集い、歓声を上げて送り出す人々の喧騒に包まれ、街はいつも以上の華やぎを見せている。ニーナは黙ってそれを見やり、正面に顔を戻した。
「赤道まではどれくらいかかる?」
「休み休み参りますから、三、四日といったところです」
隣を飛ぶシルキーがすぐに答え、ニーナは横目に彼女を見た。
シルキーは、ニーナの南行きに反対していた。だがそれも、ニーナの想定の範囲内のことだった。守られた宮殿の中と違い、外ではより多くの害悪に触れることにもなるだろう。それで一番負担が増えるのは、ニーナを確実に守るべき位置にいる彼女だ。しかし、祖母ジュリアがニーナに味方した。イヴ二人の意見が一致してしまえば、仕えるジンが逆らえるはずがなかった。他に道がないと分かれば、シルキーは潔かった。
「ねえ、シルキー」
「はい」
「あたしにできると思う?」
シルキーは微笑んだ。
「女神が、人をお見捨てにならないのであれば」
「……正直ね」
ニーナは苦笑して、遥かな南を見据えた。
第3章 了





