13 急襲
帰宅したエリヤは着替えを済ませると、そのままベッドに仰向けた。このところ、仕事量や任務が大きく変わったわけでもないのに、どうにも疲労感が強い気がする。少し前まで、ほとんど疲労を感じないほど気持ちが上向いていただけに、その落差が顕著だった。
ニーナが部屋に来なくなってひと月近い。どんなに強がってみても、やはり精神的には結構参っているのだと、自覚せずにはいられない。いい加減引き際だろうとも考えるのだが、諦めきれない自身の未練がましさに、エリヤは少しばかり嫌気が差していた。
(せめて、謝ることができたら……)
そうは思っても、ニーナが姿を見せてくれなければ、どうにもできないことだった。
今日はこのまま眠ってしまおうかと考えた時だった。
突然、部屋の張り出し窓が大きな音を立てた。なにかが勢いよくぶつかったような音に、ガラスがいきなり割れたかとも思った。だがそうではなく、かけ金のかかった窓が、続けざまにがんがんと叩かれる。仰天したエリヤが駆け付ける前に、そこから怒鳴り声がした。
「エリヤ、いるんでしょ! 早く開けなさい!」
「ニーナ!」
信じられないまま素早くカーテンを払い、エリヤは凍り付いた。額に青筋を浮かべたニーナが、窓にへばり付いていたのだ。
「早くここを開けなさいっ!」
ニーナがさらに喚き、エリヤは慌ててかけ金をはずした。途端に窓が勢いよく開き、少女が部屋に飛び込んできた。
「ニーナ、どうした――」
問いかけようとしたエリヤの顔面を、盛大な平手打ちが襲った。飛び込んだ勢いそのままに打ち据えられ、堪らず尻もちをつく。わけが分からないまま目を白黒させるエリヤの前に、プラチナの髪を逆立てんばかりの少女が仁王立ちした。
「この馬鹿! 馬鹿だ馬鹿だとはずっと思ってたけど、ここまで救いようのない馬鹿だったなんて。信じられない。一体どうしたらそこまで馬鹿になれるわけ」
やって来るなりひどい言われようだったが、エリヤはじんじんと痛む頬を押さえたまま、思考は状況に付いていけていなかった。
「ニーナ、なんで……」
かろうじて声を出したエリヤを、ニーナは殺人的な眼差しで睨みつけた。
「なんでもなにもないわ。トロール討伐に志願なんて、真正の馬鹿しかしないことだわ」
「どうして君がそれを知って……」
「どうでもいいのよ、そんなことは!」
苛立ちを隠しもせず、ニーナは足を踏み鳴らした。
「ただでさえどうしたらいいか分からない状況なのに、問題を増やさないで。これで全部おじゃんになったら、それこそ全部あんたのせいにしてやる」
「おじゃんって。君は一体何を……」
「と・に・か・く!」
またしても、ニーナはエリヤに喋らせなかった。
「南になんか行っちゃ駄目。ハルバラドがなにをしようとしてるか知らないけど、トロール討伐なんか絶対に許さないんだから」
ニーナは憤然と腕を組み、尻もちをついたままだったエリヤはようやく立ち上がった。まだまだ戸惑いは去らなかったが、彼女がやって来た意図だけはどうにか察し、エリヤは困って頭を掻いた。
「君がどういうつもりでわたしを止めに来たかは分からないが、わたしは間違っていると思わない。ハルバラドでのトロール被害は甚大だし、今は救援を必要としている。南の安全を確保するためにも、トロールの掃討はいつかはしなくてはいけないことだ」
エリヤは正論として言ったつもりだったが、ニーナは笑い飛ばすように鼻を鳴らした。
「羨ましいわね。なにも知らない人間はおめでたくて。攻撃を仕かけているのはトロールではなく人なのに」
聞き捨てならずにエリヤは眉をひそめた。
「どういう意味だそれは」
「そのままの意味よ。こちらから手を出さなければトロールが攻撃してくることなんてないはずなのに。町が襲われるなんて、絶対にハルバラドがなにかしでかしたのよ」
「どういうことだ。君はなにを知っているんだ」
エリヤの口調は自然と問い質すものになったが、ニーナは臆さなかった。
「あたしがなにを知ってるかなんてどうでもいいの。あたしだって全部が分かっているわけじゃないし。こんな状況で、本当なら討伐軍だって派遣するべきじゃないのよ。レイモンドおじさんには悪いけど」
「レイモンドおじさん?」
エリヤは思わず聞き返したが、ニーナは聞いていなかった。念を押すように、彼女はエリヤに指を突き付けた。
「とにかく、ハルバラドになんか行かせない。あんたは余計なこと考えずにここで大人しくしていればいいの。行ったところでどうせ邪魔しかできないんだから。まだあたしが行った方がまし……」
言葉を途切れさせると、ニーナは今度は急にエリヤの上着をつかんだ。
「そうよ、それよ! あたしが行けばいんじゃない」
「なんだって!」
思いがけない展開にエリヤはぎょっとしたが、ニーナは構わなかった。
「どうして今まで気付かなかったのかしら。そもそも始めから塔でじっとしてるなんて性に合わないのよ。トロールも精霊の内ならなにかできるはず」
「一体君はなんの話をしてるんだ」
ニーナはエリヤを見る眼差しを強めた。
「南にはあたしが行く。だからあんたはここにいなさい」
「はあ?」
今度こそエリヤは呆れた。
「どうしたらそういう話になるんだ。君みたいな女の子が行ってなにができる」
「あたしだからできるのよ。あんたはさっさとその安い見栄と正義感を引っ込めて、余計な気をかけさせないで」
早口に言って、ニーナはエリヤの上着から手を離した。
「そうと決まったら、シルキーを説得しないと」
ニーナは向きを変えて窓枠に飛び乗り、エリヤは焦った。
「待ってくれ。わたしには、なにがなんだか」
「あんたはあたしの邪魔をしないでくれたらそれでいいわ。じゃあね」
「あ、おい!」
ニーナは窓から身を躍らせ、エリヤは慌てて呼び止めようとした。だがエリヤが窓枠に取り付いた時には案の定、少女の姿は忽然と消えていた。放心して立ち尽くしながら、エリヤはまだ痛む頬に手を当てた。
「……なんだったんだ、今のは」
呟いてから、結局彼女に謝る間もなかったことに気付き、エリヤはまた肩を落とした。





