12 暗雲
身支度を整えて自室を出たところで、エリヤはふと足を止めた。扉のすぐ横に立つ巻き毛の少女を見つけたのだ。
「ベロニカ。どうしたんだ」
菫色の部屋着を着たベロニカは、エリヤを一瞥だけして、不機嫌そうに唇を尖らせた。
「別に、なんでもありませんわ」
彼女は声音もどこかぶっきらぼうで、エリヤは眉をひそめる。
「なんでもないという態度ではないだろう」
だがベロニカはエリヤを見ようとはせず、黙って口を突き出している。やがて意を決するように息を吸い込み、上目遣いにエリヤを見上げた。
「お兄様、失恋されたでしょう」
唐突な指摘に、心の準備ができていなかったエリヤはぎくりとした。
「どうしていきなりそういう話になるんだ」
「隠したって無駄ですわ。分かるのだから」
なぜか怒ったような口調でベロニカは言い、エリヤは面食らった。彼女は睨む眼差しで腕を組んだ。
「お兄様ったら、最近妙に艶々していらして、新しい恋でも見つけたのかしらと思っていましたのに。少し前から今度はこの世の終わりみたいに重い空気を引きずって、からかう間もありませんでしたわ。そんな矢先に、突然トロール討伐の要請に志願されるんですもの――なにを考えていらっしゃるの?」
「……それが本題か」
観念して、エリヤは妹に向き合った。
「誰から聞いたんだ」
「誰でも一緒ですわ。わたくしは知ろうと思えばなんでも知れますのよ」
ベロニカは距離を詰めた。
「お兄様だって、危険は承知の上なのでしょう。でも、どうしても解せませんの。お兄様が命を張る理由が見えないんですもの」
ベロニカの声は淡々としていたが、瞳には憤りがあり、エリヤは戸惑った。
「なにを、そんなに怒っているんだ」
言った瞬間、ぱんっ、と小気味よい音が廊下に響いた。なにが起きたか分からずエリヤは硬直し、ベロニカは腕を振り切ったまま眉を吊り上げた。彼女はもう怒りを隠さなかった。
「わたくしはエリヤ・ハワードの妹です。まずは理由を聞かせてください。相応のものでなければ許しませんわ。なにが目的ですの。騎士の名誉? 男の見栄? くだらない意地? 過剰な正義感?」
はたかれて赤くなった頬に手を当て、エリヤは呆然と妹を見た。
「どうして君がそんなに……」
「お兄様がお兄様らしくないのがいけないんですわ!」
ベロニカは喚くと、エリヤの上着をつかんだ。背の高い兄の胸に縋って、少女は肩をわななかせた。
「お兄様が心配なんです。いつものお兄様なら、こんなこと言いませんわ。根拠はなくても、役目を果たして必ず帰って来る確信がありますもの。でも、今のお兄様は違う。こんなの初めて。お兄様の考えが、なににも分からないなんて……」
「ベロニカ……」
「お兄様はもっと単純で、とんまで、考えが筒抜けなくらいでちょうどいいの。なにがありましたの? 失恋のせいで自棄になっているというなら、どんなことをしてでも行かせませんわ」
ベロニカはらしくなく感情的になっていた。涙を堪えているのか、見詰める瞳は濡れている。誤魔化せないことを悟ったエリヤは、息を吸い込んで腹を括った。
「わたしは、異国を見たいんだ」
言いながら、上着をつかむ妹の手を包んで離させた。
「この前、ニコラスに言われたんだ。他国の脅威がない北の人間はおめでたいと。確かに、わたし達にとって外の国は遠く、先入観で凝り固まった視点でしか知らないのかもしれない。外との行き来の多い南では、閉鎖的で守られた北とは違うものが見えるんだろう。だから、わたしは実際に異国へ行って、そこで起きていることを見てみようと思ったんだ。これは、伯爵も理解してくれたことだ」
親友の言葉が、エリヤには案外堪えていた。ニコラスは軽薄さが目につきやすい人物だが、いつでも一歩先を行った考えを持っている。言動の軽さも、あえてそう振舞っている節さえあるのだ。誰よりも早く本物の貴族となったことが彼をそうさせているのかもしれず、エリヤはそんな親友を尊敬していたが、置いていかれている劣等感もどこかにはあるのだった。
さらに続きを言うべきか、エリヤは一瞬悩んだ。しかしベロニカの眼差しに、彼女には言ってよいだろうと考えた。
「それに多分、君の言う通りだ。わたしは彼女をひどく傷付けてしまった。それから彼女とは会っていない。これで生きて帰って来られないようなら、わたしには始めから彼女のそばにいる資格がなかったということなんだろう」
「……分かりましたわ」
呟いて、ベロニカは背筋を伸ばした。薄荷色の瞳に、意志の強い輝きが閃く。
「行くからには、生半可な働きだけでは許しませんわよ。名の一つでも挙げて、必ず五体満足で帰ってくること。これが条件ですわ」
妹が認めてくれたことが嬉しく、エリヤは笑んだ。
「もとよりそのつもりだ」
「そうと決まれば、早く準備をしなくては。せいぜい盛大に送り出してあげますわ」
最後の一言で、ベロニカはいつもの彼女に戻っていた。
* *
「人が、トロールを襲った? 逆ではなくてか」
レイモンドの確認に、ニーナは頷いた。
「多分、そういう事だと思う。距離があって上手く伝わって来ない部分もあるんだけど」
王の執務室に出向き、ニーナは長椅子に座って、レイモンドと差し向かいで話していた。内容はもちろんハルバラド共和国の事象であり、ニーナはジン二名と協力して得たことをレイモンドに伝えていた。
先日、ニーナ達は南の森にいる地のトロールの声を受け取った。だが声は不明瞭で、意図して届いたものというよりは、悲鳴に近いものが伝わって来たようだった。それは嘆きよりも怒りの叫びであり、しかし恐怖に似たものも伴っていた。
ニーナはその痛ましい声を思い出して、眉を寄せた。
「人の側から、積極的にトロールを攻撃してるのよ。それが町を襲った直接の原因になっているか分からないけれど。しかも、遠いせいでこれまで気付かなかったんだけど、南の森にいる火の精霊の様子がおかしいの」
「火が?」
「火山や火事とも違う。大きな火が無理やり引き起こされて、火の精霊達がすごく嫌がってる」
ニーナの話にレイモンドも顔をしかめたが、彼の場合は地顔との差があまりなかった。
「無理やりだと。そんなことがありえるのか」
「分からないのよ。だからおかしいって言ってるでしょ。そもそもトロールだって女神の生み出した守護者だから、簡単には退けられないはず。そんな彼らが人に攻撃されただけで怯えてるのよ。それが火の異変と無関係とも思えないわ」
ニーナは苛立ち気味に言った。
無数にいる精霊を通じた情報収集を試みて、ニーナはその難しさに頭を悩ませていた。精霊はイヴに忠実なので、なにをしたいかを伝えれば、必要な力を貸してくれる。しかし元々言葉が苦手であり、複雑な思考力を持たない彼らは、説明や伝言のようなことは大変に不得意だった。起こったことに対して感じたことを断片的に伝えて貰うことはできるが、そこから具体的になにがあったかを知るのはかなり難易度が高い。同じ精霊でもジンがいかに特別か、ニーナは短期間で相当身に染みていた。
「おじさんの方はどうなっているの?」
「こちらは、討伐軍の志願者がちょうど出揃ったところだ」
レイモンドは立ち上がって書物机に向かうと、その上に乗っている紙を一枚取って戻って来た。
「要請に応じた志願者の一覧だ。ここに兵卒を加えて、まずは百名ほどを派遣することになる」
「馬鹿ってどこにでもいるのね」
ぼやきながら紙を受け取り、ニーナは一覧に目を通した。
志願者には、貴族の子弟が相当数いた。彼らにとっては、騎士として名を上げる絶好の機となっているのだろう。だが正直、今のニーナには事情を知らないおじゃま虫にしか見えない。
ふと、その中の名前の一つが目に留まった。
「ねえ、おじさん」
「なんだ」
「ここに書いてあるのって全部、自分から志願して来た人?」
「ああ、そうだ」
レイモンドが肯定すると、ニーナは紙を置いて立ちあがった。
「急用ができたわ。あたしちょっと行ってくる」
ニーナは早足に扉へ向かい、伯父への挨拶も忘れて執務室を出た。
窓の外は、夕闇の迫る時間になっていた。レイモンドを訪ねたのが昼を過ぎてからだったので、数時間は話し込んでいたことになる。螺旋階段を下ったニーナはステンドグラスには入らず、回廊から塔の外へと向かった。





