3 迷いの森
ニコラスは蔓性植物が複雑に絡みついたナラの木の前に立った。しかしその顔にあるのは疲弊であり、先程までの元気と上機嫌は鳴りを潜めてしまっている。背後では、エリヤが草を踏む音がしていた。
「……なあ、エリヤ」
「なんだ」
「ここ、さっきも通ったんではないか?」
「そうみたいだな」
「あまり考えたくはないんだが……」
「なら考えなければいいだろう」
「……もしかして、ミイラ取りがミイラになっていたりしないか」
「もしかしなくてもなっている」
エリヤはさも重要でないように言ってのけ、ニコラスはなじる目を彼に向けた。
「それは相当まずいのじゃないか?」
「確かにまずいな。ヤンも見つからないし」
高密度の原生林はただでさえ薄暗く、雨雲が垂れ込めていては枝間の日差しを望むべくもない。視界はもう日没かと思われるほどであり、どちらを向いても代り映えしない樹影ばかりでは、もはや方向感覚は失われていた。
二人が迷った原因は、現在行方不明の猟犬ヤンにあった。
始めはいつもと変わらず、エリヤの足元に付き従っていた。時折周囲の匂いを嗅いでは生きものの気配を教え、見通しの悪い場所では先に立って安全を確かめて進む。忠実でよく訓練された猟犬と言えた。
だが過去に来たことのある一番深いところまで進んだ頃だった。突然ヤンが駆け出し、エリヤ達はなにか見つけたのかと慌ててその後を追い駆けたのだ。
そのまま二人は、全力疾走する猟犬を見失い、気付けばディザーウッドの奥へと迷い込んでいた。
「あーあ」
ニコラスは声に出して、大袈裟なため息をついた。
「道は分からない、犬は見失う、お嬢さんも見つからない、おまけに天気が悪い。これだけの状況はなかなかあるものじゃあない。やはり今日は運勢最悪の日だったか」
ニコラスのぼやきに、エリヤは頭上を見上げた。灰色の空はいかにも重たそうに雨水を溜め込んでおり、いつそれを溢れさせてもおかしくなかった。
「あとどれくらいもつと思う?」
エリヤの問いに、ニコラスは肩をすくめた。
「さあな。賭けるか? わたしはあと一時間もたない方に賭ける」
「わたしもそう思う」
「それでは賭けにならないだろう」
「仕方ないさ。この天気じゃあ」
その時、タンっという小気味よい音が響いた。続いてもう一度。さらにもう一度。
ニコラスはいかにも面倒そうに顔を歪めた。
「言ったそばから降って来たな」
「とにかく、どこか雨宿りできる場所を探そう」
二人は止めていた足を再び動かした。
雨音の間隔はどんどん狭まり、ついには流れる滝のごとくになった。だが、不幸中の幸いと言ってよいかは分からないが、密になった樹木の枝が差し掛けとなり、激しい音の割に地面に到達する雨は少ない。
それでも枝葉から滴るものはあり、二人はあっという間にずぶ濡れになった。
少しでも雨を避けられる場所を求めて歩き続けていると、藪から飛び出して来た小柄な人影と鉢合わせしそうになった。
「うわぁっ」
もちろん二人は驚いたが、相手も同じだったらしく、声を上げてたたらを踏んだ。
大きな琥珀の瞳が二人に向けられる。飛び出して来たのは、見るからに幼い少年だった。
「子供がこんなところでなにをしているんだ」
エリヤは思わず叱る口調で言うと、彼の胸下までしか背丈のない少年は早口に答えた。
「今帰るところだよ。兄ちゃん達こそなにして……」
「君、帰り道が分かるのか」
ニコラスが身を乗り出し、少年の言葉は遮られた。少年は不思議そうに二人を見た。
「分からなかったら困るだろ。なに? 兄ちゃん達、迷子?」
「ああ、そうなんだ。朝からずっと歩きっぱなしだ」
ニコラスがあっさり認め、エリヤもどうにでもなれとばかりに便乗することにした。こうなれば背に腹はかえられない。
「雨をしのげる場所を探しているんだが、君はどこか知らないか」
ちょっと考える素振りをしてから、少年はすぐに答えた。
「それなら家に来ればいいよ。もうすぐそこだから」
言いながら少年は進み出て、二人が反応する前に方向を示した。
「来るなら来なよ。早く帰らないと、ばあちゃん達にどやされる」
少年が駆け出し、エリヤとニコラスはちらとだけ顔を見合わせてからそれを追った。
ほどなく、少年の言う通り、進行方向にぼんやりとした灯りが見えてきた。そこからは本当にすぐで、何分もしない内に、エリヤ達は森の合間にひっそりと建つ家屋の前に立っていた。
「驚いたな。この樹海に人が住んでいたのか」
木造の家は決して大きくはないが、手入れが行き届いていた。壁は木骨の間を漆喰で埋めたもので、急勾配のスレート屋根を滑り降りた雨水が、差し掛けからカーテンのように滴り落ちている。
精巧な組み木で作られた扉と鎧戸の隙間から黄色い灯りが漏れており、辺鄙で引っ込んだ印象はあっても、人の暮らす温かな空気がそこにあった。
「ただいま、ばあちゃん。あれ? 姉ちゃんまだ帰ってないの?」
少年が扉を引き開けて家に入ると、奥から掠れた女性の声が返ってきた。
「おかえり。温かいスープができているから、早く着替えておいで。この雨じゃあ相当濡れてるだろう」
「うん。それよりばあちゃん、お客さん連れてきた」
「お客さん?」
入って右奥の炉で鍋をかきまわしていた女性は不審そうに繰り返し、家の出入り口の方を振り向いた。老婆と形容するほどではないが、ひっつめた茶色の髪に無数の銀が走る、かなり年かさのご婦人だった。
少年に続いて家に入ったエリヤは、帽子を脱いで正しく礼をとった。
「突然お邪魔してしまい申しわけありません。実は森で迷ってしまい、雨まで降り出して困っていたところで彼に会ったのです。それで」
「急なお願いとなってしまうのだが、雨が止むまでここで休ませていただけないだろうか」
途中でニコラスが割り込んで早口に言い、エリヤは目線で非難した。
婦人はわずかに眉を寄せて戸惑った表情をしたが、快く迎え入れてくれた。
「そうでしたか。こんな狭いところでよろしければ、どうぞ雨宿りして行ってください」
「ありがとうございます」
エリヤが素直に感謝を表すと、婦人は少し微笑んだ。
「もっと中へどうぞ。体が冷えているでしょうから。ロイ、この方達に着替えを出して差し上げて」
「はーい」
エリヤ達を案内して来た少年は返事をして、左奥の隅に立てられている梯子を上って行った。婦人は一度炉を離れると、衝立に仕切られた部屋の奥へと姿を消した。
残された二人は婦人に勧められた通り、部屋の中央近くまで進んだ。なるほど、奥は炉の熱でかなり温かい。
家の中央には椅子が四脚据えられたテーブルがあり、焼きものの器に芯を差したランプが光を撒いている。四角く切り出した石で囲われた炉の周りにはいくつもの香草の束が吊るされていて、まだ青く瑞々しい香りを立ち上らせていた。
背負っていた弓矢を下ろして、重たいマントを脱ぎながら、エリヤ達が何気なく室内を見分していると、突然テーブルの下から茶色い塊が転がり出てきた。それらは二人の周りをぐるりとまわった後、エリヤの足に絡みつき、彼は予想外のことに目を見張った。
「ヤン」
身を屈め、毛並みをなでて確かめたが、それは間違いなく、少し前に主人を置き去りにして行方をくらませていた猟犬だった。
ニコラスも意外そうに犬の顔を覗き込んだ。
「これは驚いた」
「なぜヤンがこんなところに」
「その子はあなた方の犬だったんですね」
何枚ものリネンを持って奥から戻ってきた婦人が、エリヤ達の様子に気付いて言った。
「ついさっきここに迷い込んで来たんですよ」
「申しわけありません。ご迷惑でしたでしょう」
エリヤが詫びると、婦人は目尻の皺を深くして笑った。
「いいえ。それより、これを使ってください。そちらのマントは干しておきますね」
婦人は二人にリネンの束を渡すと、代わりに重く濡れたマントを受け取った。そこへちょうど、少年も着替えを終えて梯子を下りて来た。
「ばあちゃん、着替えってカディーのやつでいいんだよね」
「ああ。それをこの方々に渡しておあげ」
少年はすぐに走り寄って来て、若い男物のシャツとズボンを二組、エリヤ達に差し出した。
「はい。風邪ひくから兄ちゃん達も早く着替えな」
それをニコラスが真っ先に受け取った。
「ありがたく借りさせていただくよ」
「おい、ニコラス」
無遠慮な友人をエリヤは窘めようとしたが、彼の顔の前にニコラスはさっと人差し指を立てた。
「断るなよ、エリヤ。他者の好意を無下にする方が失礼だ。それに、こんな鬱陶しい服をいつまでも着ている意味もない」
思わずエリヤが黙ると、今だとばかりに婦人が愛想よく言った。
「どうぞ奥で着替えてください。風邪などひかれたらそれこそ大変です」
「そうさせて貰うよ。どうもありがとう」
ニコラスは勝ち誇った目をエリヤに向けて、さっさと奥へ行ってしまった。仕方なく、エリヤも着替えを受け取ってそれに続いた。正直に言えば、エリヤも濡れて纏わりつく服を早く脱いでしまいたいと思っていたのだった。
衝立の奥は個人の寝室を兼ねているようだった。それほど広くない空間の一番奥に、一人用のベッドと、実用本位の箪笥だけが置かれている。
「いい人で助かったな」
早速着替えながらニコラスが言い、エリヤもシャツのボタンをはずしながら頷いた。
「そうだな。でもなんでまたこんな場所で暮らしているのか」
森から出れば、すぐに農地と牧場を有する村があり、たくさんの人々がつつがなく暮らしている。馬でしばらく行けばフォルワース州の州都もあるのだ。
にもかかわらず、これほど不便な場所に好き好んで住んでいるとはとても思えない。
「そういえば思ったんだが」
ニコラスが思い出したように言い、思考を巡らせていたエリヤは顔を向けた。
「なんだ?」
「さっきのお嬢さん、ここの住人なのではないか? ほら、あの少年とも目がよく似ていただろう」
言われてエリヤは少女の顔を思い出そうとした。だがプラチナ色の髪の印象が強すぎて、それ以外の顔形はすでにおぼろげだった。
「そうか? わたしはよく覚えていないんだが……確かに、目の色が同じだった気はする」
「エリヤ、ここは覚えているべきところだぞ。まあそれはさておき、本当にそうだとしたら我々は自分たちより森を知り尽くしている者を心配していたことになる」
「あまり格好のいい話ではないな」
木綿のシャツに袖を通しながら、エリヤは苦笑した。