11 南からの使者
いつものように、ニーナはノックもせず扉を抜けるなり呼びかけた。
「レイモンドおじさん」
シルキーは窘める視線を向けたが、ニーナが気にすることはない。迷わず進み出れば、机に向かっていたレイモンドが顔を上げた。
「ああ、来たな」
「珍しいわね。おじさんの方から呼ぶなんて」
「うむ。まあな」
答えながら、レイモンドは顎を撫でた。
「まあ座れ」
レイモンドは部屋の片隅に据えられた長机と長椅子を示し、ニーナは言われるままに腰を落ち着けた。シルキーは座らず、かたわらに付き従うように立った。
「それで、どうしたの?」
「これを見てもらえるか」
書物机から立ち上がったレイモンドが羊皮紙を一枚差し出し、ニーナは受け取って目を落とした。高価そうな羊皮紙には、丁寧に書かれた文字が並んでいた。最初に書かれた宛名から、ディーリア国王レイモンドに宛てた手紙であることが分かる。
始めはなにとはなしに目を通していたニーナだが、読み進める内に自然と表情は険しくなった。最後に、ハルバラド共和国首長の署名を確認すると、ニーナは長机に手紙を叩きつけた。
「信じられない! ハルバラドは一体なにをしたの!」
「……そう言うとだろうと思った」
レイモンドは呟き、ニーナはもう一度、ハルバラドからの書状を取り上げて内容を確認した。
「ちょっとシルキーも見て」
ニーナが書状を差し出すと、シルキーは黙って受け取った。文字を追う青紫の瞳の動きを、ニーナとレイモンドはじっと見つめた。最後まで読み終わると、シルキーは静かに書状を置いた。
「確かに、普通ならあってはならないことですね」
「やはり、そういうことになるか」
顎を撫でて、レイモンドはニーナの向かいの椅子に座った。ニーナは腕を組んで顔をしかめた。
「あんまりだわ。トロールが人の町を襲うなんて。彼らは神域の守護者よ。なにもなしに進んで人里に出てくることだってありえないのに」
シルキーも頷いた。
「トロールがこれほど大きく動くとなれば、そこには女神の意志があるはずです。わたくし達がなにも察知できないとは思えません」
「まあ、確かにそうだな。だが――」
レイモンドは一度言葉を区切った。
「一般的にはそうではない。なにも知らない者からすれば、トロールは南に生息するただ獰猛なばかりの生き物だ」
「それにしたって……」
ニーナは言い返そうとしたが、それより先の言葉が出て来なかった。
ハルバラドからの書状は、トロール討伐の応援を同盟国へ要請するものだった。
南に広大な国土を有するハルバラドは、大陸でもっとも赤道に近い国だ。とは言っても、トロールの脅威がある以上、赤道とは森を挟んでそれなりに距離をとっているはずだ。しかしこの度、南端の町がトロールに襲撃されて多くの犠牲が出たという。さらにここ最近でトロールの出現が頻発し、ハルバラドの軍隊だけでは対応しきれなくなっているというのだ。そのため同盟関係にある大国ディーリアに、被害のあった町の復興と、一帯のトロール一掃に必要な軍事的支援を要請してきたのである。
ニーナは苛立って、机を叩いた。
「やっぱり駄目! トロールを一掃するなんて、できるはずないし、そんなことしたらそれこそ世界の終わりよ」
「だから困っているのだ」
頭痛を堪えるように、レイモンドは額を押さえた。
「ここで断っても、ハルバラドは別の国に支援要請を送るだけだろう。そうなれば、同盟国としての関係に影響も出るはずだ。ディーリアもかの国の恩恵を受けている以上は、関係に影を落とすわけにはいかない」
「おじさんが王様でしょう。なんとかできないの?」
「だから今、なんとかしようとしている」
途中で口を挟むなと、レイモンドは視線で訴えた。
「ひとまず、被害のあった町の復興に必要な物資と人足を派遣し、軍事支援については一時的に保留の方向で議会ではまとめさせた。先発で視察団を出したから、少しすれば現地の状況がもっと詳しく入って来るだろう。その内容次第では軍の派遣もありえる。だが、相手はトロールだ。わたしとしては人以外からの視点による情報も欲しい」
レイモンドの訴えに頷いたのは、シルキーだった。
「こちらでも、なにか考えてみましょう」
「そうしてもらえると助かる。君達からの情報を、人相手にどこまで活かせるかは正直未知数だが、少しでも神域に触れない方法を考える努力はしたい。国家間の問題である以上、イヴとジンを煩わせることではないのかもしれないが、今回ばかりは難しくてな」
「そのようですね……」
そこで話は一旦打ち切られ、ニーナとシルキーは席を立った。
塔の部屋に戻る道すがら、ニーナは漠然と抱えたものを吐き出した。
「ねえ、シルキー」
シルキーは歩を止めることなく、ニーナに目線を向けた。彼女が返事をする前に、ニーナは呟いた。
「女神達はなにがしたいのかな。人を生かしたいの? それとも星のために滅ぼしたいの?」
「……不安、ですか?」
考えてみて、ニーナは頷いた。
「不安よ。星は大きいのに、こんなにも脆い……そこまでして秘密を守る理由が、あたしには分からない」
「ニーナ様……」
シルキーは立ち止まって、ニーナを見た。ニーナも足を止めると、シルキーではなく塔の窓の外を見やった。
真っ青な空に、いくつもの雲が悠々と流れている。いく匹もの精霊が縦横に飛びまわり、木の葉を揺らして舞わせて遊んでいる。いつもと変わらぬその様子に、ニーナは静かに目を細めた。
翌日、居間のテーブルを囲み、皆でお茶を飲んで談笑している時だった。一番最初にそれに気付いたのは、おかわりのケーキを切り分けていたルーペスだった。ふと手を止めた彼は、視線を宙へ向けた。続いて、シルキーとジュリアもそれに気付く。
「南……トロールですか」
「地の同胞です」
シルキーの呟きを、ルーペスが補足した。一人だけ分からず置いていかれたニーナは首をかしげた。
「どうしたの」
不審がるニーナに、祖母ジュリアはすぐに思い至った顔をした。
「そういえば、ニーナは地とは繋がっていないのだったわね」
言いながら、ジュリアは服の中から首飾りを取り出した。緑の石のついたそれを首から外し、ニーナに差し出す。
「ルーペスの精霊石よ。これで地の精霊とも繋がるわ」
湖の水底を思わせる深い緑の精霊石だった。ニーナがちらとルーペスに視線を向ければ、彼は微笑んで頷く。石に視線を戻し、ニーナはそっとそれを受け取った。
途端に、なにかがニーナの中に流れ込んできた。耳の一番奥で、声にならない声がこだまする。
「これは……!」
「まずいことになりそうですね。近頃、南の方が騒がしいので気にはしていたんですが」
ルーペスが深刻そうに言い、ニーナは焦って立ち上がった。
「悠長にしていていいの? これって地のトロールの声なんでしょう? おじさんに伝えないと」
「待って」
飛び出そうとしたニーナを止めたのはジュリアだった。
「まだ詳しい状況が分からないわ。ただでさえ難しい状態にあるのだから、今言っても無闇にレイモンドを追い詰めるだけよ」
「でも……」
いても立ってもいられないニーナを、ジュリアは諭した。
「まずは可能な限り情報を集めて、状況を見極めましょう。ことを仕損じれば、女神が人に見切りを付けることだってありえるのよ」
逡巡の間の後で、ニーナはそのまま椅子に座り直した。気落ちする孫に、ジュリアは微笑みかけた。
「その石はあげるわ。わたくしの力はもう強くないし、ニーナが持っていた方が有効に使えるでしょうから。ねえ、ルーペス。いいわよね」
「ええ。ジュリアが望むままに」
ルーペスが同意し、少し驚いて顔を上げたニーナの手を、ジュリアが優しく握った。
「なにが最善か、一緒に考えましょう。必ず、わたくし達にしかできないことがあるのだから」
* *
ハルバラドへ派遣された視察団が三日間の現地滞在で見たのは、荒廃した南の果ての町だった。なぎ倒された家屋に、無数の墓標と、人々の荒んだ生活。なにがあったのかを如実に物語る、いくつもの傷跡。現地から届けられた報告書に、レイモンド王は唸るしかできなかった。
(トロールが本当に人里を襲ったと? どういうことだ……)
視察団もトロールの姿を確認したという。それほど人に近い所まで出現しているとなれば、今後の議会がどのように進むかはすでに見えていた。
今のままでは、打てる手があまりに少ない。ニーナ達の方はどのようになっているだろうと考えながら、レイモンドは自身の無力さに悄然とするのだった。





