10 頭痛
レイモンド王は机に向かい、もはや地顔とも言える厳しい表情で唸った。
目の前にあるのは一通の書状。それは今朝、ディーリア王国とはいくつかの小国を挟んで南に位置するハルバラド共和国の使者が持って来たものだった。
ハルバラド共和国は、大陸南に広がる広大な国だった。まだまだ発展途上の国ではあるが、国土の大半を占める熱帯林を利用した林業を主な産業とし、ディーリアも同盟国としてその恩恵を受けている。
そのハルバラドから届けられたのは、とある要請だった。その内容を聞き、レイモンドは馬鹿なと言い返しそうになった。あってはならない事態に、どうしたものかと考え込む。
正直、外交ほど厄介なものはない。なにも知らない諸外国の相手というのは、おそらく歴代の王共通の悩みだ。しかしそうも言っていられないのは当然ながら、今回の一件についてはより専門的な相談者が必要だった。
さて、とレイモンドは息を吐いた。つい昨日、もう来るなと言い渡した姪を、今度はこちらから呼び付ける必要が出てきてしまった。南からの要請に、はたして彼女とそのジンはなんと言うか。考えただけで、レイモンドは頭痛がしそうだった。
* *
ずきずきと痛むこめかみを、エリヤは強く押さえた。胃のむかつきも手伝って、すこぶる気分が悪い。昨晩、あんなに飲むのではなかったと、今更のように後悔していた。
少し外の風にでもあたろうと士官室を出たエリヤは、ヒースの咲く中庭に来ていた。花壇の脇に置かれたベンチに体を預け、ぐったり体を反らしながら額に手をかざす。冬場の風は身に染みたが、今はかえって気分が冴えた。胸の中にたまったものを吐き出すように、エリヤは長々とため息をついた。
「やあ、さぼり騎士」
声がして顔を起こすと、長髪の若い男爵が目の前にいた。
「なんだ、ニコラスか」
「親友に向かって、なんだとはなんだ」
言い返しながらもニコラスは機嫌を損ねた様子もなく、当たり前のようにエリヤの隣に座った。
「ため息なんかついて、ずいぶんと元気そうではないか」
「発言が矛盾してるぞ」
間髪入れぬ指摘にもニコラスは涼しい顔で、エリヤは呆れて額を撫でた。
「なにしているんだ、こんなところで」
「その台詞、そっくりそのまま返させて貰うよ。宮廷警護をあずかる近衛騎士が、こんなところでなにをしている」
ニコラスの口調はいつもと変わらなかったが、どこか問い質す響きが声と言葉にあった。
「なにもしていないよ」
「顔が青いようだか?」
「……昨日、少し飲み過ぎた」
ためらいつつ正直に言うと、ニコラスは心底意外そうな顔をした。
「珍しいな、君ともあろうものが。なにがあった。例の彼女か?」
こういうところで妙に鋭いのがニコラスだった。しかし言い当てられるのはやはり気に食わず、エリヤは顔を背けた。
「いいだろう、そんな事は」
確信をえたニコラスは、エリヤの肩に手をかけた。
「まあそう腐らずに。このわたしに話してみるといい。女性に疎い君が一人で悩むよりは、よほど意義があると思うぞ。白金の姫君と喧嘩でもしたのか?」
白金姫のことまで知っていたかと内心思いつつ、エリヤは横目に親友を見た。
「多分、喧嘩の方がいくらかましだ」
エリヤは頭を抱えるように、顔を覆った。
「なあ、ニコラス。わたしはどうしたらいい」
思い悩むエリヤを見詰め、ニコラスは笑みを柔らかいものに変えた。
「なるほど。君もそういう恋をするようになったわけか」
「ニコラス、わたしは真剣に……」
「分かっている。いい傾向だと言っているのだ。次期伯爵でありながら一生独り身を貫く気かと、これでもわたしなりに心配していたのだぞ。君がこんなに執心するなんて、一緒に暮らした実績まであるニーナ嬢以来か」
「ニーナだよ」
ニコラスはぎょっとした。
「なんだって」
「今話しているのはニーナのことだと言ったんだ」
「それは分かる。だが彼女は……」
少女の失踪を聞き知っていたニコラスが、戸惑うのも無理はなかった。彼も、ニーナが見つかるとは露ほども思っていなかったのだ。
「わたしだって、始めは信じられなかった。でも、彼女なんだ。ニーナは、ニーナのままだった」
再会の日と同じ庭のヒースの花を、エリヤは目を細めて見詰めた。親友の眼差しに、ニコラスはからかうでなく自然と笑んだ。
「うかつにも気付かなかったよ。君がそこまでニーナに夢中だったとは。彼女は知っているのか」
少し考えて、エリヤは指を組んだ。
「屋敷にいたときに一度だけ伝えたが、その時は振られて……そのまま彼女はいなくなってしまった。再会した後は、はっきり言ったことはない。でも多分、彼女には伝わっている」
エリヤは息を吐きながら顔を俯けた。
「ディザーウッドで君が言っていた通りになったな。わたしは手をこまねいて、こんなにも後悔している」
「我ながら素晴らしい的中率だ」
冗談めかして言ってから、ニコラスは声色を改めた。
「それで、ため息の原因はなんだ。どうしたら彼女に気持ちを受け入れて貰えるか、か?」
ちらとニコラスを見やって、エリヤは首を振った。
「それを言うならもう遅い。もしかしたら彼女はもう、会ってくれないかもしれない」
「そんなに嫌われるようなことをしでかしたのか」
エリヤはどう言ったものか分からず、束の間沈黙した。長く迷って、ようやく口を開く。
「……覚えていないんだ」
「は?」
ニコラスの頓狂な声に、エリヤは少し目を逸らした。
「昨夜、なんとなく部屋で一人で飲みだしたところまでは覚えているんだが、そこから先がすっぽり抜けていて。それで気付いたら……体の下に、ニーナがいて……泣いてたんだ」
「…………」
ニコラスはしばらく黙り、おもむろに確認した。
「夜に、彼女が君の部屋に?」
「それは、毎日のことだったから」
エリヤはすぐに答え、ニコラスは唖然とした。
「毎晩、二人で会っていたと?」
「そう言っている」
「それで昨日まで、なにもなかったのか」
「なかったよ、なにも。あるわけがない。だって彼女は……わたしにカディーを見ていたんだ」
後半は呟きに近かった。自分で口にしながら、その言葉にエリヤ自身が傷付いている。
これまでニーナと話しながら、薄々感じないわけではなかった。けれどそれはあまりにも不確かで、表面ではそれでもいいと思っていた。だが、それが確信に変わると、その事実がどうしても許せない自分がいた。
苛立ちを思い出して唇を噛むエリヤを一瞥し、ニコラスは目を細めて腕を組んだ。
「君の理性には恐れ入る。同じ男として気持ちは分からないではないが、酒に走ったのは間違いだったな」
返す言葉もなくエリヤは黙り、ニコラスは慰めるように肩を叩いた。
「麗しい女性と二人きりになって、下心を出さない男はいないさ。もっとも、わたしなら、もっとうまくやるが」
そうだろうと、エリヤは小さく苦笑した。
「ニコラス、君ならどうする」
「そうだな。やはりまずは、花束の一つでも持って自分から謝りに行くのが筋だろう」
「それができないとしたら?」
ニコラスはきょとんとした。
「そんな勇気もないと?」
「そうじゃない。ただ……」
一瞬ためらい、だが結局エリヤは続けた。
「わたしは、彼女がどこにいるか知らないんだ」
「そんな事も調べていなかったのか」
「そんなわけないだろう」
呆れて言うニコラスに、エリヤは間髪入れず言い返した。
「ニーナが普段どこにいるのか、調べても分からなかった。王宮のどこかではあるらしいが、彼女も決して話そうとしないし、知られたくないようだった」
ニコラスは考えるように顎に触れると、思い出して口を開いた。
「そういえば、彼女の素性はフォルワース卿ですらなにもつかめなかったのだったな――ハワード家さえ煙に巻く、か」
ふむ、と唸って、ニコラスはエリヤを見た。
「思ったのだが、ニーナ嬢が本当に王宮にいるとして、王陛下は彼女の存在をご存じだと思うか?」
言われて初めて、エリヤは思い至った。
「確かに……王宮に身を置いている以上は、陛下の下にいるという可能性はあるな」
「推量の域を出ないがな。なんにしても、正体不明であることに変わりはない」
ニコラスの言葉に、エリヤは目を細めた。
(ニーナ……もう一度、会えるだろうか)
* *
その日、ニーナはずっと上の空だった。食もいまいち進まず、いつものように外へ出ることもない。なにをする気にもなれず、自室の長椅子に腰かけ、あるいはベッドに寝転がり、日がな一日ぼんやりと過ごした。
幾匹もの精霊が、ちらちらとニーナを見ながら、天窓の外を通り過ぎて行く。室内にいる精霊も、気にかけるようにニーナの周りをくるくるとまわっていた。
ベッドにうつ伏せて、ニーナは枕に顔を埋めた。胸の中が、ざわざわと波打っているようで落ち着かない。脳裏をよぎるのは、闇の中でこちらを見詰めるはしばみ色の眼差し。触れた若者の大きな手と、唇の感触。ニーナは目をつむると、枕を胸に抱き込んで、身を縮めた。
扉を叩く音が、部屋に響いた。
「どうぞ」
ニーナが顔を向けることもなく答えれば、誰かが静かに入って来る気配を感じた。気配は、ニーナの寝転ぶベッドのそばで立ち止まった。だがなにを言うわけでもなく、ただじっとこちらを見ている。
「……言いたいことがあるなら、言いなさいよ」
少し間があって、相手はぽつりと言った。
「わたくしは、別になにも……」
言い淀んで、シルキーは目を伏せた。しかしすぐに目を開き、青紫の瞳を真っ直ぐニーナに向けた。
「わたくしは、ニーナ様が好きです」
急になにを言い出すのかと、ニーナは怪訝に顔を向けた。シルキーの真摯な眼差しと視線が合えば、彼女がいたって真面目であることが分かる。そもそも、普段から冗談をいう彼女ではないことを、ニーナはよく知っていた。
訝しむニーナに構わず、シルキーは続けた。
「真っ直ぐで、素直で、正直で。そんなところが、わたくしは大好きです。けれど……そんなニーナ様だから、感情がそのまま表に出てしまう」
「なにが言いたいの」
まわりくどい言い方にニーナが苛立つと、シルキーは目を細めた。
「気になっていらっしゃるのでしょう、エリヤ様のことが」
「別に、そんなこと……」
「あの方がお嫌いでないからこそ――むしろ、ほんの少しでも惹かれていらっしゃるからこそ、あなたは動揺している。素直だからこそ、その動揺が人一倍出てしまう」
「そんな、あたしは……」
言い返そうとして、ニーナは結局黙った。顔を背けるニーナに、シルキーは声を低めて言った。
「もう、エリヤ様とお会いにならない方がよいでしょう」
瞬間、ニーナはベッドから跳ね起きた。だが彼女がなにか言う前に、シルキーは続けた。
「昨日ルーペス様が仰っていたことは、あながち冗談ではないのですよ」
「なにか言ってたかしら」
突き放すニーナに臆さず、シルキーは冷静に見返した。
「始めにお話しいたしましたよね。イヴの役目は生き物の上に血を降らせることと、次代のイヴを産むことだと。御子をお考えでないのなら、かの者とお会いになるべきではありません」
「どうしてそんなことを、あんたに言われなくちゃならないのよ」
「勘違いなさらないでください」
シルキーが珍しく強く言い返し、ニーナは黙った。
「わたくしはジンです。ジンはイヴに忠実である以上に、確実にお守りする義務があります。必要以上に外と関われば、それだけ秘密が漏れる可能性が出てくるのですよ。それでも外へ出ることが禁じられていないのは、次代のイヴが必要だからです」
ニーナは口の端を引き結び、ついと顔を逸らした。
「……それくらい、分かってる」
「でしたら、よく考えてご行動ください。あなたは、この星の要なのですから」
ニーナがただむっつりと黙りこくり、シルキーは嘆息した。
シルキーがニーナを好きだと思う気持ちに嘘はなかった。だが時に、ニーナの相手をするのに疲労を感じることがあるのも確かだった。星にとって重要であり致命的でもある役目を負いながら、なぜ彼女がこれほど奔放に振舞えるのか、シルキーには分からない。本来なら、塔の中で誰にも知られずに、密やかに暮らしているべきなのだ。
正直、ニーナを主として慕いながら、シルキーは性格の不一致を感じずにはいられなかった。きっとニーナも同じように思っているから、気持ちが外へ向かってしまうのだろう。そうは思っても、シルキーにはどうしたら主の気持ちが止められるのか分からなかった。
「このような事を申し上げに来たのではありませんでした――レイモンド様がお呼びです」
シルキーが話題を切り替え、ニーナは眉をひそめた。
「おじさんが? 一体どうしたの」
シルキーは少し首を傾けた。
「詳しいことはまだ……ただ、少し厄介なことが起きたようです」
ニーナはベッドから素早く滑り降りた。
「すぐに行きましょう。おじさんの方から呼びつけて来るなんて、今までなかったもの。シルキーも一緒に来て」
「はい」
ニーナは真っ直ぐ扉に向かい、シルキーも早足にそれを追った。





