9 残り火
彫刻に金装飾の施された机の縁にもたれかかり、ニーナは脱力と同時にぼやいた。
「うっかり寝ちゃったあたしもよくなかったけど、エリヤだって、帰ったのなら起こしてくれてもいいと思わない?」
不満たっぷりにニーナが言うと、背もたれの高い椅子に座って書物机に向かっている男が少し唸った。だが、一向に返事らしい返事はなく、ニーナは彼の顔を覗き込むように身を乗り出した。
「ちょっとおじさん、聞いてる?」
嘆息して、男は机の書類から顔を上げた。険しさがすっかり癖づいた眉の奥の瞳は、あからさまに面倒がっている。
「聞いている。だが、わたしになにを言えと?」
「だから、エリヤったら気が利かないと思わない?」
「彼の優しさだろう。なにが気に入らない」
疲れた声音で返し、男――ディーリア国王レイモンドは暗い金髪を掻いて再び書類に向かった。伯父のつれない態度に、ニーナは頬を膨らませた。
昨夜、いつものようにエリヤの部屋を訪れたが、彼は不在だった。仕方ないので少し待ってみるつもりだったのだが、知らない内にうっかり寝入ってしまったのだ。目を覚ました時には夜が明けており、ニーナに気を遣ったらしいエリヤは部屋の長椅子で寝ていた。
伯父の言う通り、それがエリヤの優しさだったのだろうが、寝姿をすっかり見られたことがニーナとしては面白くないのだった。
ニーナは、もたれていた机から体を離した。
「もういいわ。あたし、帰る」
「そうしてくれ。あと、いちいち愚痴を言うためだけに来るな」
伯父の苦情に、ニーナは口をへの字に曲げた。
「だって、シルキーだと堅苦し過ぎるんだもの。愚痴くらい、減るものじゃないでしょ」
書類に走らせるペンを止めることなく、レイモンドは二度目のため息をついた。
「イヴというのはどうしてこう、王に遠慮がないのか」
政を司るというのは楽なことではない。しかもディーリア王国の場合、国の危機がそのまま世界の危機に繋がりかねないのだ。一国の問題だけで済むならばどんなにいいか、と何度思ったか知れない。だからこそレイモンドはこれでなかなか必死なのだが、守るべきイヴ達はそれをいまいち理解していない気がする。先代イヴである妹のエベリーナも、度々やって来ては好き放題に喋っていたことを、レイモンドは今更ながら思い出していた。
母ジュリアも含めイヴ達を嫌っているわけではないが、彼女らに関わるとなにかと疲労の種になる事が多いのは確かだった。
ニーナは机をまわり込み、レイモンドの肩に肘を乗せた。
「いいじゃない、遠慮がなくたって。たった一人の可愛い姪でしょう」
「分かったから、もたれるな」
猫なで声を出すニーナを、レイモンドは鬱陶しく払いのけた。
「もう帰るのではなかったのか」
「帰るわよ、もちろん」
ニーナはあっさり離れて行った。
「またね、レイモンドおじさん」
「もう来るな」
ひらひらと手を振って扉を出て行くニーナに、レイモンドは突き放すように言った。だがこれは、毎回のやりとりでもあった。
伯父レイモンドを、ニーナは結構気に入っていた。態度は素っ気ないが、彼の場合、それは身内の気安さゆえのものだった。文句は言うが、なんだかんだ話を聞いてくれ、ニーナを進んで追い返したりはしないのだ。
王の執務室を出たニーナは、螺旋階段をいくらか下ってから、内壁のステンドグラスを通り抜けた。
居間に入ると、すでに夕食の支度が整えられ、食欲をそそる匂いが室内を満たしていた。窓の外は、日没前の茜色に染まっている。
「おかえりなさいませ」
「ただいま。いい匂いね」
シルキーの出迎えと温かなスープに誘われて、ニーナは真っ直ぐテーブルについた。
「レイモンド様のところにいらしたのですか」
「ええ」
「ニーナは随分と、彼に懐いているのね」
先にテーブルについていたジュリアがおっとりと微笑み、ニーナもはつらつと笑い返した。
「今日も、ハワードの若者のところへは行くんですか」
ニーナの分のスープをテーブルに置きながらルーペスが尋ね、ニーナは笑みを残したまま彼を見た。
「ええ。なにか問題だった?」
いいえ、と答え、ルーペスは配膳を終えて自身も席についた。
「まったく問題がないと言うわけではないですが、まあ彼ならいいでしょう。有能な騎士だと聞いてますし。次代のイヴの父親としては申し分ない」
ルーペスの最後の一言に、早速スープを口にしていたニーナは思い切りむせ返った。咳き込んで胸を叩くニーナの背中を、シルキーが慌てたようにさする。咳をどうにか抑え込むと、両手を勢いよくテーブルに突いた。
「なに言い出すの、いきなり!」
「おや、違いましたか」
ルーペスはわざとらしく不思議がり、ニーナは顔を真っ赤にした。
「違うわよ」
「あら、違うの? わたくしはそうなったら嬉しいと思っていたのに」
ニーナはげんなりして、横から話に加わったジュリアを見た。
「もう、おばあちゃんまで。どうしてそういう話になるのよ」
「それほどおかしな話ではないと、わたくしは思うのだけど。彼はあなたを好いてくれているのでしょう?」
「それは……」
「男女の駆け引きは、落とした方の勝ちよ」
「だから、違うったら」
口を尖らせながら、ニーナはパンにかじり付いた。すぐ横で、シルキーが抑え気味にくすくすと笑っている。それもなんとなく、ニーナは気に入らなかった。
食事を終えていくらか胃を落ち着かせると、ニーナは髪を撫でつけるだけの身支度をして塔を出た。塔の窓から身を躍らせれば、風がニーナを受け止めて、夜の空へふわりと舞い上がる。
スカートを翻し、少女の体は一気に上昇した。宮殿は空の星を掻き消すまでに燦然と輝き、見えない星の代わりにぽつぽつとした街の灯りが地上に光の絵図を描き出す。それらを一面に見下ろせる高さまで昇ったニーナは、目的地の真上まで横に飛び、あたりをつけてゆっくり下降を始めた。この下降の調整が意外と難しく、慣れない内は毎回シルキーを冷や冷やさせていたのだった。
ハワード邸の塔の屋根に降りたニーナは、その縁から下を見て、おや、と思った。エリヤの部屋の灯りが付いていないように見える。まさかまた不在だろうかとあやぶみながら、人目を気にしつつ壁沿いに下って行く。張り出し窓の小さな屋根に着地すると、ニーナは身を乗り出して部屋を確認した。やはり室内は暗く、人の気配がないようだった。それでも窓のかけ金ははずれていたので、屋根の縁にぶら下がるようにして部屋に滑り込んだ。
「エリヤ、いないの?」
呼びかけてみたが、返事はなかった。しかし室内は暖かく、暖炉で尽きかけの燃えさしが赤く光っている。他の灯りは絶えていたが、寸前まで人がいたように思われる室内に、ニーナは目を凝らした。
入って来た窓から見ると右手にある長椅子に、人影を見つけた。目的の人物が部屋にいたことに、ニーナは少しほっとした。
「なにしてるの、こんなに暗い所で」
いつもの調子で話しかけながら、ニーナは躊躇せずエリヤに歩み寄った。しかしまったく反応が返って来ず、ニーナはようやく彼の様子がおかしいことに気付いた。エリヤは椅子で深くうなだれており、顔を上げようとすらしないのだ。
彼まであと数歩と言うところで、ニーナのつま先になにかが当たった。拾い上げてみれば、それは大振りのガラス瓶だった。中は空だが、独特の甘ったるさのある匂いが鼻を突く。
(お酒?)
エリヤの周りを注意深く見れば、テーブルに同じ瓶が何本かと、飲みかけのゴブレットがあった。
まさかと思い、ニーナは拾った瓶をテーブルに置いてエリヤの前に屈み込んだ。
「エリヤ、ちょっとエリヤったら」
呼びかけながら肩を揺すぶると、やっとエリヤがわずかに顔を上げた。
「……ニーナ?」
呼び返して来た彼の吐息は、案の定、濃いアルコールの匂いを含んでいた。言葉もどこか舌足らずで、視点も定まっていない。
薄い果実酒であれば水分として日常的に飲むものだが、今テーブルにあるのは明らかに酔うことを目的とした濃いものだ。前後不覚に泥酔したエリヤに、ニーナは呆れかえった。
「まったく、どうしちゃったのよ。これ全部一人で飲んだの?」
エリヤは目をしばたいた後、唸って額を撫でた。だがまた、そのまま黙ってしまう。
「気分はどう? 吐き気とかない?」
重ねて窺ったが、エリヤは少し俯いただけで、やはり返答はない。暗い部屋では顔色も分からず、ニーナは仕方なく体を伸ばした。
「困ったわね。とりあえず灯りを点けて、それから……」
立ち上がって向きを変えた所で、不意に後ろから腕をつかまれた。ニーナがなにかと思う前に強く引っ張られ、背中を預ける形でエリヤの腕の中に納まっていた。ニーナは驚き、反射的に体を離そうとした。
「エリヤ、離して。あたしは灯りを……」
「いらない」
低い囁きに、ニーナは思わず身じろぎをやめた。肝が冷えるのを感じ、自然と体が強張る。
「ニーナ……」
甘えるように、エリヤが頬を摺り寄せて来た。アルコールを含んだ彼の息に、ニーナは顔をしかめた。
「ちょっとエリヤ、べたべたしないで。お酒臭いったら」
腕で押し退けようとしたが、エリヤの力が強く、うまくいかなかった。
エリヤは鼻先で髪を掻き分けて、ニーナの首筋に口元を埋めた。触れた彼の吐息が熱く、身をすくませる。そのまま一瞬身動きをやめると、彼は手を持ち上げて指先で首筋に触れた。だが触れられた場所に感じたのは金属の硬質さであり、彼が触れたのが首飾りの鎖であることにニーナは気付いた。
エリヤは極細の金鎖を指に絡ませて、ニーナの服の中から首飾りを引っ張り出した。色違いの輝きを放つ三つの石の内、赤い石ををつかみ上げ、彼は少女を抱きすくめたままそれに見入った。
わけも分からず硬直しているニーナの耳に、低い呟きが滑り込む。
「……どうして」
抱きすくめる腕の力が急に強くなった。腹部を圧迫され、ニーナは堪らず息を詰まらせる。だがエリヤがそれを察する様子はない。
「どうして、あいつばかり……あいつのなにがいい」
エリヤから苛立ちを感じるが、なんの話をしているのかが分からない。ニーナは彼の吐息から逃れるように顔を背けた。
ふと、腹部を押さえていたエリヤの手が上に滑った。男の手が、胸の膨らみをつかむ。
「いやっ」
ニーナは咄嗟に逃れようとしたが、エリヤは強い力でそれを押さえ付けた。なおもがく少女に、彼はさらに囁く。
「君のそばにいるのはわたしだ。わたしだけを見ていればいい……あいつはもう、いないんだ」
ぷつりと音を立てて、首の後ろで金鎖が切れた。ニーナがはっとした時には、首飾りが床に落ちる音を聞いた。
「なにするのっ」
ニーナは首飾りを取り返そうと腕を伸ばしたが、かなわなかった。急に視界が回転し、気付けば視野に納まらないほどの至近距離にエリヤの顔があったのだ。驚いて声を上げようとして、口を口で塞がれている事に気付いた。
キスをされているのだと分からないほど、ニーナは混乱していた。体を引き離そうとしたが、いつの間にか長椅子に押し倒されており、長身なエリヤが上から圧し掛かっている。重みと息苦しさに耐えかねてニーナが呻けば、彼はさらに執拗に唇を求めた。
そこでようやく、ニーナは状況を理解した。途端に、えも言われぬ嫌悪と恐怖が込み上げた。侵入してきた舌に口腔が掻きまわされ、強い酒気が喉に流れ込んでくる。若者の手が体の上を這い、ニーナは涙を溢れさせた。
「いやあぁっ!」
唇が離れた一瞬に、ニーナは必死で拒絶を叫んだ。
エリヤの体がわななき、動きを止めた。ニーナを見るはしばみ色の瞳が、ゆっくりと焦点を結ぶ。瞳に光が差したように見えた瞬間、彼は弾かれたようにニーナから離れた。長椅子から転げ落ち、腰をついたまま後退る。額に汗が噴き出し、彼の顔を流れた。
「わたしは、なにを……」
ニーナは腕を突いてどうにか上体を起こした。瞬きもせずこちらを凝視するエリヤを見やれば、彼の顔が強張った。
「エリヤ……」
ニーナが喘ぎ喘ぎ言い、エリヤは震えてさらに後退った。テーブルに行き当たると、それに縋って苦労して立ち上がり、足元がおぼつかないまま部屋を出て行った。
扉の閉まる音を聞き、ニーナは再び長椅子に倒れ込んだ。ショックが大き過ぎて、しばらく動けそうになかった。
エリヤが男であることは分かっていたし、ニーナを好いてくれていることも分かっているつもりだった。それなのに、こんなことはありえないと、根拠もないままどこかで高を括っていた。自身の考えの至らなさをなじりながら、ニーナは体を縮めた。
ニーナを捕らえたエリヤの力は、絶対に敵わないと少女に思い知らせるには十分だった。異性への純粋な恐怖を感じたのは、初めてだった。





