2 隠者の塔
ステンドグラスを先に抜けたシルキーは、ニーナの制止に不思議そうな表情でこちらを振り向いていた。その隣に背の高い若者の姿があり、ニーナは訝しんで彼を見上げた。
ここで待ち受けていたらしい若者は、本当に背が高った。エリヤやカディーも長身だと思っていたが、彼はさらに見上げる位置に顔があった。肩口で揃えられた癖の強い髪は瑞々しい苔のような緑色で、彫りの深い顔はそれでも柔和さがある。やや大きい青紫の瞳と視線が合うと、彼は愛嬌のある笑みを見せた。
「君がニーナですね。お待ちしてました」
若者の方から話しかけて来て、ニーナはどう反応したらよいか分からずぽかんとした。彼はニーナに向かって、軽く腰を折った。
「初めまして、わたしはルーペス。どうぞよろしく」
「どうも……」
ニーナが当惑しながら応じると、シルキーが彼に向き直った。
「わざわざ出迎えてくださらなくても、これから向かうところでしたのに」
ルーペスは腰を伸ばして、シルキーに笑いかけた。
「お気になさらず。主人が迎えに行けと煩いもので。本当は自分が来たかったのでしょうが、歳ですからね。気ばかり若くて困りものです」
敬語でもどこか砕けた調子で言うルーペスに、シルキーは苦笑した。
「よいのですか。そんなことをおっしゃって」
「大丈夫でしょう。向こうには聞こえてません。バレたとして、その時はその時です」
感じよく笑うルーペスを上目づかいに見ながら、ニーナは推し量った。
「あなたもジン?」
ルーペスはニーナへと視線を戻した。
「ええ。わたしは先々代のイヴ、ジュリアをお守りする地のジンです」
先ほどシルキーからも聞いた単語に、ニーナは眉をひそめた。
「イヴってなに?」
「おや、イヴについてまだ聞いていないのですか」
ルーペスが問いかけるようにシルキーへ目を向けると、彼女は少し表情を改めた。
「ニーナ様はなにもご存じないままお育ちになられたので……。こちらに着いてから、順を追ってきちんとお話しした方がよいと思ったのです」
「そのようですね」
気を取り直すように、ルーペスは腰に手を当てた。
「なんにしても、早く行きましょう。ジュリアが首を長くしてお待ちです」
「行くってどこに?」
ルーペスの後ろがすぐに壁になっていることに、ニーナはとっくに気付いていた。
今いる場所は、白壁に囲まれた円形の小部屋だった。床や天井まで白い部屋に照明は見当たらなかったが、なぜか日の下のように明るい。つるりとした壁には窓も扉もなく、入って来たステンドグラス以外に出入りできそうな場所はなかった。
「すぐですよ」
短く言って、ルーペスが壁に手を当てた。すると急に、足裏がざわりとする妙な浮遊感に見舞われた。
「なに? なんなの?」
思わず首を巡らせると、背後のステンドグラスが下へずれるように動いていた。耳の奥に圧迫感に似たものを感じたかと思うと、体の中身だけが足下に落ちていくような奇妙な感覚に襲われる。
「うわ……止めて、止めて」
ニーナは焦ったが、あとの二人は平然としていた。
「大丈夫です。すぐに着きます」
「だめ、気持ち悪い」
ルーペスの言葉に首を振り、ニーナはシルキーにしがみついた。だが彼女も、少し苦笑しただけだった。
ステンドグラスは何度か途切れながらするすると下へ滑っていった。その動きはいくばくもしない内にゆっくりになり、やがて完全に止まった。
「着きました」
「なにがよ」
いまだ浮遊感を引きずりながら、ニーナはルーペスを見た。彼は促すように、ステンドグラスを示した。
「どうぞ、出てみてください」
ニーナは疑り深く顔をしかめたが、シルキーが腕を引いた。
「さあ、ニーナ様」
シルキーに導かれるままステンドグラスを抜けると、そこにあったのは螺旋階段ではなく、軽やかな色彩の調度が揃えられた居室だった。奥に行くほど広くなる扇型の部屋には、正面にタイル張りの白いマントルピースがあり、その前に白い長テーブルが据えられている。それを挟むように布張りの長椅子が二つ置かれていて、一方に淡い金髪の女性が優雅に腰かけていた。
「ジュリア、ニーナをお連れしましたよ」
ルーペスが声をかけながら進み出て行くと、彼女はゆったりとした動作でこちらに顔を向けた。老いて痩せた、小柄な女性だった。
「まあルーペス、どちらがニーナ?」
ルーペスは、ニーナの肩に手を添えた。
「こちらがニーナですよ」
「顔が見たいわ。もっと近くに。どうぞ、そちらに座って」
老女は向かいの長椅子を示した。シルキーに背中を軽く押され、ニーナは状況が分からないままぎこちなく長椅子に座った。
「どうぞそちらの方も座って。ルーペス、眼鏡を取ってちょうだい」
シルキーにも席を勧め、老女は手を持ち上げた。ルーペスは青い布張りの箱を持ってすぐにやって来た。箱から取り出した眼鏡を彼が手渡すと、老女は満足そうに微笑んだ。
「ありがとう。お茶もお願いしていいかしら。四人分ね」
「分かっていますよ。すぐに用意します」
「あと、戸棚にお菓子もあったわよね。それも出してちょうだい」
「リンゴのタルトが焼けていますけど」
「あら、素敵。なら、それをお願い」
「はい」
ルーペスはにこりと微笑むと、別室へと下がって行った。
「ルーペスの焼くお菓子はね、とっても美味しいのよ」
言いながら老女は小振りの眼鏡をかけ、ニーナを見た。元はもっと濃い色だったのだろう彼女の金髪は、すっかり色が抜けていたが、灰色の瞳にはまだ若々しい光が宿っていた。
「あなたがニーナ……本当にエベリーナとよく似ているのね。なんだか娘と再会したみたい」
「娘?」
首をかしげたニーナに、シルキーがそっと耳打ちした。
「この方はジュリア様。エベリーナ様の母君です。つまり、ニーナ様のおばあ様でいらっしゃいますよ」
ニーナが老女を見詰めると、彼女は穏やかに見詰め返してきた。
「こうして孫の顔が見られるのが、こんなに幸せなんて……」
呟くように言ってから、ジュリアはシルキーへと視線を移した。
「あなたがニーナのジンね」
シルキーは頷いた。
「はい」
「綺麗な黄色い髪ね。風かしら?」
「風のシルキーです」
「まあ、やっぱり」
はしゃいだ様子で、ジュリアは両手を合わせた。
「素敵ね。風は好きよ」
「地も好きですよね」
戻って来たルーペスが、会話に加わりながら茶器の乗ったトレーをテーブルに置いた。
「あら、妬いているの?」
「まさか。妬くまでもなく、わたしが一番です」
「大した自信ね」
「もちろん。何十年も伴侶として尽くさせて貰っていますから」
「いつの間に伴侶になったのかしら」
「おや、違いましたか?」
やりとりを楽しむ様子で、二人は笑みを交わした。会話をしながらも、慣れた手つきでルーペスは紅茶を淹れ、切り分けたタルトを各々の前に置いた。
「どうぞ召し上がれ。足りなければ、まだありますから」
タルトはパイ生地で蓋をして焼き上げてあり、中に蜂蜜で煮詰めたリンゴがたっぷりと入っていた。少し香辛料のきいた甘い香りに、ニーナは自分が空腹なことにようやく気付いた。勧められるまま、彼女はタルトを一口食べた。
「美味しい!」
ほどよい甘さのリンゴと、タルトの香ばしい食感に、ニーナは絶賛した。
「本当に美味しい。伯爵家の職人のお菓子より、ずっと美味しいわ」
自分の分の紅茶を取ってジュリアの隣に座りながら、ルーペスは嬉しそうに笑みを深めた。
「気に入っていただけたようでなにより。気合を入れて作ったかいがあります」
夢中で食べるニーナに、ジュリアがくすくすと笑った。
「本当にニーナはエベリーナの子ね。あの子も、ルーペスの作ったケーキが大好物だったのよ」
母の話題になり、ニーナは口に運びかけたフォークを止めた。
「お母さんは、ここにいたの?」
ジュリアは笑みを、少し憂いを帯びたものに変えた。
「ええ。エベリーナは……いえ、わたくし達イヴは本来、この塔の中でジンと共に生涯を過ごす定めにあるのよ」
すでに何度か耳にしている単語に、ニーナはフォークを皿へ置いた。
「イヴってなんなの? それに、ジンって?」
ジュリアはすぐには答えず、笑みを消してニーナを見た。
「……あなたは、本当になにも知らされずに来たのね」
ルーペスも沈痛な面持ちで、唇を湿すように紅茶を一口飲んだ。
「仕方ないでしょうね。エベリーナに話す気はなかったようですし。それに、火の……カロルと言いましたか。彼も哀れなジンです。イヴの死を目の前で見せられてしまっては……。わたしでも、同じ場に立たされたら果たしてどうしたか」
「エベリーナも、そのつもりで自ら命を絶ったのでしょう」
「まるで呪いですね。なんてむごい」
二人の会話を落ち着かない気持ちで聞き、ニーナはもう一度問いかけた。
「それで、なんなの? イヴというのは」
「わたしがお話ししましょう」
ジュリアが口を開くのを押し止めるように、ルーペスが言った。
「イヴとは女神の娘。命の母体です」
「母体?」
ルーペスは紅茶のカップをテーブルに置いた。
「すべてをお話しするには、まず、この星の歴史を知る必要があります」
彼は、ニーナを見据えた。
「これは決して我々以外には知られてはいけない、滅びの鍵となる歴史です」





