1 出奔
ニーナは、真横にいる少女の腕に力いっぱいしがみ付いた。吹き荒ぶ風にプラチナの髪は後ろへと流れ、スカートの裾がぱたぱたと音を立ててたなびく。両足を縮こめて、表情を凍らせ、ニーナはただひたすらに正面だけを見ていた。
ニーナにしがみ付かれている少女は、黄色い髪をなびかせながら、眉尻を下げて苦笑いした。
「そんなに怖がられなくても、大丈夫ですよ」
「だ、だって」
「ほら、見てください。あそこに可愛らしい幌馬車が」
「見ない、見ない! 絶対に見ない!」
少女が自分達の真下を指差したが、ニーナは意地でも正面を見続けた。
彼女達の足の下に広がるのは、収穫の終わった一面の農地や雑木林。どこまでも続いているかのような街道と、時折そこを行き交う胡麻粒のように小さな人影。そして板葺き屋根が集まる町だった。二人の下をくぐるように横切るのは、群れを成すコマドリだ。
地面から離れたはるか上空を、少女達は文字通り、滑るように飛んでいた。
森育ちのニーナは、木登りも得意で、高いところは好きな方だった。だがこれほどの高さはやはり経験がなく、足下に地面を感じないことがこんなにも恐ろしいとは、ついぞ知らなかった。
「シルキー」
引きつった声で呼ぶと、黄色い髪の少女は青紫の目をニーナに向けた。
「いかがなさいましたか?」
「こ……これで、どこまで行くの?」
納得した顔をして、シルキーは正面に視線を戻した。
「わたくし達が向かっているのは、ディーリア王国の中心。デアベリー宮殿です」
「デアベリー宮殿!」
ぎょっとして、ニーナは叫んだ。デアベリー宮殿と言えばディーリア国王の居城。王政の中心だった。
「フォルワース州からでは、地上を行くと馬車で五日ほどかかりますが、風ならば一日もかかりません」
「風って……簡単に言うのね」
「簡単ですよ。わたくしは風ですから」
当然とばかりに、シルキーは微笑んだ。そんな彼女の瞳が見慣れた色をしていて、ニーナは不思議な心持ちになった。
昨晩、日付の変わった真夜中に、シルキーはフォルワース領主館のニーナの前に現れた。彼女がどのように屋敷へ侵入したのか疑問だったが、部屋を片付けた彼女は窓から空に向かって垂直に飛び立ち、ニーナは度肝を抜かれた。厳重に守られた領主館の門も、上空からの侵入を想定しているはずがなかった。
ニーナよりもやや背が高いシルキーの真っ直ぐな髪は、黄色く輝いていたが、金髪というよりは、鮮やかで温かみのある菜の花の色合いだった。珍しい髪色であることは間違いなく、瞳もカディーと同じ、角度で輝きの変わる青紫をしている。彼の代わりならば、来るのは男性だと思っていた。しかし実際に現れたのは可憐という表現がいかにもぴったりと来る、柔らかな印象の美少女で、ニーナは内心かなり驚いたのだった。見た目だけならニーナと同年くらいに見えるが、彼女に当たり前に年齢を当てはめて見ていいのかはよく分からなかった。
「その、風というのはどういうこと? あなたはどこをどういじったって風には見えないわ。そもそも風って目に見えるものではなくて、そういう現象でしょう?」
「わたくしは風です」
ニーナの疑問に、シルキーはやや被せ気味に答えた。
「この世界を構成する四つの元素はご存知ですね」
「地、水、火、風の四つでしょう? 聖堂にある星の聖典にも書いてあるわ」
「それらを司り、生み出す存在の話を、お聞きになられたことはありますか?」
ニーナが首を振ると、シルキーは静かに言った。
「この星は、四元素の均衡によって保たれています。そして、その役目を果たしているのが、精霊と呼ばれる存在です。今のニーナ様には見えていらっしゃるはずです。いたるところに彼らがいることで、土があり、水が湧き、火が燃え、風が吹きます。それぞれの干渉の仕方や強さによって、人々が自然現象と呼ぶものが起こるのです」
するとどこからか、鳥の翼に手足が生えたような黄色い生きものが飛んで来た。それはニーナの周りをくるくると回り、挨拶をするように鼻先に触れた。
「もしかして、ずっと見えていたこの変な生きものが精霊?」
シルキーは手を伸ばして、黄色い生きものを撫でた。
「ええ。この子は風の精霊。彼らは風を起こすだけでなく、水と協力して雲を起こし、火と交わって雷を起こしたりもします。そして、わたくしもまた風です」
「シルキーも精霊ということ?」
「大きな括りではそうです。ですがわたくしはその中でも、ジンと呼ばれる分類に入ります」
「ジン……」
そういえばアストラが、カディーもそうであるようなことを言っていたのを、ニーナはにわかに思い出した。
「ジンは希少です。それは、たった一人のための守護者として生み出されるからです。そして確実にその一人を守るために、あらゆる面で高い能力を有し、忠実であることを求められます」
シルキーの説明に、ニーナは口を引き結んだ。束の間の沈黙の後、抑えた声で言った。
「忠実でなかったら、どうなるの?」
シルキーは少しニーナを見て、また正面を向いた。
「その処断をするのは、生みの親である女神です」
「女神……」
アストラのことだろうかと、ニーナは一瞬考えた。だがアストラは男だった。人間ではなさそうだが、女神とは別物なのだろう。
考え込むニーナの横で、シルキーが前方を指さした。
「見えてきました。あれが、王都デアベリーです」
確かにそこには街があった。しかも、これまで眼下に見て来た町とは比べ物にならないほどに大きい。色とりどりの屋根が寄り集まって、一面にまだら模様を描いている。見える屋根一つ一つの規模も他の町の比ではない。
王都デアベリーは、東のイース山地から流れ出すウィリデ川下流の河畔にあった。船が行き来する川を南北にまたがっており、南側は細長く連なる集合住宅や商店が多く立ち並び、ひしめく人々で賑わっている。北側には、庭を持つ貴族の邸宅や、塔のある聖堂がその存在感を見せつけ、石畳の道を箱馬車が行き交っていた。
「北にある一番大きな建物が、目的地のデアベリー宮殿です。話の続きはそこでいたしましょう」
シルキーはゆっくりと降下を始め、目指す宮殿はあっという間に近くなった。
王都の北側で最も広い面積を占め、とりわけ壮麗さを放っているのが、デアベリー宮殿だった。市街から少し外れた区画に造成された宮殿は、建物がびっしりと肩を並べる中で、そこだけがぽっかりと穴が開いたように緑が広がる中心にあった。自然の森をそのまま取り込んだ広大な庭園を馬車道が貫き、その先にウィリデ川から水を引いた壕を巡らせた城壁と門楼がある。
中央に五つの塔と、南北の翼棟を持つ宮殿の建物は、それだけで町一つを飲み込んでしまうほどに大きかった。大理石を積んだ白壁には格子窓が整然と並び、中央棟の四隅にある四つの尖塔の屋根は、レースを編んだように細い無数の塔と窓で装飾がされている。その中心にあるひときわ高い主塔は、より広くガラス面がとられており、中の回廊と螺旋階段を透かし彫りのように見せ、日の光にことさら輝いていた。
少女達が降り立ったのは、その主塔だった。シルキーは塔中層の窓を開き、ニーナを中へと導いた。
「平気なの? こんなところから入ったりして」
初めて足を踏み入れる王国の心臓部に、ニーナはややおののいた。シルキーはなんでもない様子で、ニーナが床へ降り立つのを手助けした。
「ご安心ください。わたくし達を咎められる者など、ここにはおりません」
本当だろうかと疑いながら、ニーナは窓枠から回廊へ飛び降りた。
彫像の並ぶ回廊は、天井が領主館よりずっと高かったが、思ったよりも殺風景だった。しかし、その中央で異質なほどの存在感を放つ螺旋階段は見事だった。彫刻のされた柱と手すりを巡らせた螺旋階段は、塔の中心を貫いて各階を繋いでいた。螺旋中央の空間は屋根を排して外光を取り込む構造になっているらしく、建物の中心にも関わらず、内壁に取り付けられたステンドグラスが床に模様を映し出している。シルキーについて赤大理石の床を踏みながら、ニーナは口を閉じることもできずに、首を反らせてそれを見上げた。
シルキーは、迷わずその螺旋階段へと向かっていた。
「すごい……この上にはなにがあるの?」
「この星の秘密。ディーリア王国の隠された歴史です。表向きには、王の居室とされています」
「王様の部屋?」
「ええ。国王レイモンド様はニーナ様の母君――エベリーナ様の兄君でいらっしゃいます」
ニーナは目を剥いた。
「お、お母さんの?」
ニーナの驚きようを見て、シルキーが少し笑った。
「それほど驚くことではないのですよ。歴代の王もまた、イヴに連なるものなのです」
「イヴ?」
どこかで聞いた気がする言葉に、ニーナは首をかしげた。だがニーナが問い返す前に、シルキーが螺旋階段を数段上がった場所で足を止めた。
「さあ、こちらです」
あまりに中途半端な場所でシルキーが立ち止まるので、ニーナは戸惑って周りを見回した。
「こちらって? 階段の上へ行くのではないの?」
「階段の上は王の居室です。わたくし達はこちらから上ります」
シルキーが指し示したのは、螺旋階段の内壁に配置されたステンドグラスだった。
二人が並んだくらいの幅があるそれは、床から天井まで至り、縦に細長く巨大だった。星の中心に百合の描かれた図は、ディーリア王国の国旗と同じものだ。その周りを、赤、青、緑、黄の色ガラスが幾何学的に彩っている。
「先方がお待ちです。参りましょう」
さっぱり意味が分からずにいるニーナの手を取り、シルキーはステンドグラスの方へ体を向けた。先に立った彼女の姿が色ガラスを難なく通り抜け、ニーナはまたしても肝をつぶした。
「えええっ、シルキー! ちょっと待って!」
思わず制止を叫んだ時には、ニーナの体もステンドグラスに吸い込まれて行った。





