10 喪失
翌日、ニーナは熱を出した。前日に冷え切った体が、今度は発散しきれぬ高熱を持ち、起き上がることさえままならなかった。
カディーの失踪は、領主館の人々に動揺をもたらした。動ける使用人は総出で庭園の森を捜索し、湖をさらったが、なに一つ手がかりは見つからなかったのだ。敷地の外に出た可能性も考えて、門番や周辺住民への聞き込みを行ったが、それらしい人物を見た者はいなかった。
カディーの失踪そのものは伯爵家を揺るがすものではなかった。しかしエリヤはいつも以上の雑務に追われ、幾人かの女性使用人はヒステリーを起こしたのだった。
寝込んだニーナは、ぼんやりと天蓋を見詰め、とりとめもなく思いを巡らせていた。色々な感情は湧き上がるのにどれも中途半端で、ただただ気分悪く胸の中にわだかまる。朦朧とした意識の中で、気付けば過去へと思いが飛んでいた。
幼い頃、ニーナの家族は南の温かい平地に住んでいた。借りもののささやかな農地で父が花を育て、それを売ってつましいながら家族仲よく暮らしていた。カディーが家族に加わったのは、ロイが生まれた翌年だった。母がどこからか連れて来た年上の子供を、最初は女の子だと思ったことを今でも覚えている。
当時のカディーは、笑わない子供だった。泣きもせず、怒りもせず、まったく感情を表に出さなかったのだ。しかし決してニーナに逆らわなかった彼に、今思うとかなり無茶で残酷なわがままを強いて来た気がする。
カディーがよく笑うようになり、ニーナが彼を頼る関係に落ち着いたのは、確か両親の死後、ディザーウッドに移り住んでからだ。
ふと、ニーナの視界を黄色い影が横切った。緑の丸いものがころりと胸に乗り、顔を覗き込んでくる。それらを見まいとして、ニーナは目を伏せた。
カディーの消えた夜から、ニーナの見る景色は一変していた。
鳥の翼に似た形をした黄色い生きものがいたるところを飛び交い、腕の生えた魚のような青い生きものが泳ぎ回っていた。足元を見れば、苔のような毛に覆われたずんぐりと丸い生きものが、短い足で不器用に駆けていく。灯火の周りでは、トカゲに似た真っ赤な二本足の生きものが跳ねていた。
それらは皆、掌に乗る程度の大きさなのだが、どれも見たことのない奇妙な姿で、当たり前の生きものとなにかがずれていた。なにせ彼らが見えるのは、ニーナだけなのだから。周りの人間が気にしていないところを見れば、この奇妙な生物達が見えていないのは明らかだった。ニーナは、突然見えるようになった怪奇なものに驚きはしても、狼狽える気力はなかった。
収穫祭から四日が経った。ニーナはまだ微熱が続いていたが、この日は起き出し、談話室の椅子に座っていた。向かいの椅子にはエリヤが座り、テーブルに何枚かの書類を広げている。彼はカディー失踪の聴取のために、ここに来ていた。はたから見れば、ニーナを領主館で保護した当初と同じ光景のようだった。だが、今回の彼女はなにを聞いても頑なに口を閉ざしていた。
進まない聴取に、エリヤはため息をついた。
「君がそれほど意固地になる理由はなんだ。カディーを見つけたいと思わないのか」
向かい合うニーナは、俯いたまま微動だにしなかった。それでもエリヤは辛抱強く、彼女の言葉を待った。カディーが見つかるか否かは、もはやニーナの意志にかかっていると、彼は考えていた。
どちらも言葉を発しないまま、ただ時だけが過ぎていく。聴取を始めたのは正午を少し過ぎたくらいだったが、気付けば外の光が赤みを帯びていた。
長い長い沈黙の後で、ようやくニーナが小さく呟いた。
「……もういい」
かすれた彼女の声に、エリヤは眉をひそめた。
「なんと言った」
また少し間があって、ニーナはさらに細く、絞り出すように言った。
「もう探さなくていい……どうせ見つからない」
「それは、ハワード家が信頼できないということか」
エリヤが自然と責める口調になると、ニーナは俯いたまま緩く首を振った。
「誰であっても同じ。カディーはもう、帰ってこない」
「なぜ言い切れる」
「だってそうだもの!」
消極的なニーナをエリヤが思わず責めると、彼女はいきなり喚いた。
「あたし、カディーのことなにも知らなかった。ずっと近くにいたのに、自分のことばかりで、ひどいことまで言って……あたし、最低だ」
収穫祭の夜から時が経つごとに、ニーナの胸の内を占めたのはカディーへの嫌悪や憎悪でなく、後悔だった。両親を失うきっかけを作ったのが彼だったとしても、ニーナを絶望の淵から救い上げてくれたのも彼だった。折れそうな時には必ず隣にいて、支えてくれていたのだ。しかし、いつしかそれが当たり前となり、甘え続けてしまった。
過去に思いを向ければ、そこに悔恨はあれど、彼を憎み切ることなどできるはずがなかった。
少女の目から雫が落ちるのを見て、エリヤは焦ったように立ち上がった。彼女は俯いて唇を噛み、必死で嗚咽を堪えていた。目を押さえ、何度も拭っても、涙は止まらない。雫は指の間からもこぼれ、膝を濡らした。
エリヤは彼女のそばに寄り、顔に被さる前髪を指先でそっと払いのけた。
「……どうか、泣かないでくれ。君に泣かれると、どうしたらいいか分からなくなる」
自信なく言うエリヤを、ニーナは濡れた目で見た。顔を上げた少女の頬を、彼が親指で拭う。
「君には、笑っていて欲しい。だから、カディーを見つけたいんだ。君のこんな姿、とても見ていられない。わたしは……」
今言える、エリヤの精一杯の本音だった。一瞬ためらって、彼は続けた。
「わたしは……ニーナが、好きなんだ」
ニーナの目が、ゆっくりと見開かれた。ぎこちなく腕を伸ばし、エリヤはできるだけ優しく彼女を抱きしめた。若者の腕の中で、少女が身を固くする。エリヤは自分を落ち着かせるように、ゆっくり呼吸した。
「君が、わたし達のような貴族を嫌っているのは十分に分かっている。それでも……初めてなんだ、こんな気持ちになったのは。だから、どうかそれ以上、泣かないでくれ」
いつからだろうと、エリヤは考えた。始めはただ、この哀れな少女を守ってやりたいと、それだけだった。強気に振舞う彼女の瞳の奥に、時折寂しさが透けて見える気がして、目が離せなかったのだ。エリヤの目は自然と少女を追うようになり、その時々の彼女の表情だけで、自身も一喜一憂するようになっていた。
そして、ニーナへの明確な感情を意識したのはごく最近――収穫祭の夜だった。舞踏会で踊った時に、彼女から向けられた笑顔。仮面越しではあっても、あれは間違いなくエリヤだけのものだった。その時、これまでにないほど気持ちが満ち足り、そのまま彼女を独占したいという思いが、唐突に湧き上がったのだ。そうでなければ、大広間からニーナが姿を消した時、あれほど必死になって探しはしなかった。
気まずさを誤魔化すように、エリヤは苦笑した。
「卑怯だな、わたしも。こんな時に、こんなことを言うなんて」
腕の中で、ニーナは顔を逸らすように伏せた。
「エリヤ……ごめん」
予期していた答えだった。それでもやはり、エリヤの胸には苦みが走った。同時に、温かいものもじわりと広がった。
「初めて、ちゃんと名前を呼んでくれたな」
エリヤの呟きにニーナは仰向き、それから少し考えるように目を細めた。
「……そう、かもしれない」
ニーナは恐る恐る、エリヤの胸に顔をうずめた。
「ねえ、エリヤ」
「ん?」
「もう少し、こうしていてもいい?」
沈黙の後、エリヤは答える代わりに、そっと少女の頭を撫でるように抱いた。窓から見えていた夕日はいつの間にか沈み、その残照ばかりになっていた。
深夜、ニーナは吹き込んで来た冷たい風に目を覚ました。部屋は闇の支配するところとなっていたが、あえかな月光によって、南向きの窓のカーテンが揺れているのが見えた。そこに佇む黒い人影を見つけ、ニーナは警戒して体を起こした。
すると、相手が先に口を利いた。
「ニーナ・パーカー様でいらっしゃいますね」
耳元を柔らかく撫でる、涼やかな少女の声だった。
「あなたは?」
ニーナが問うと、相手が微笑んだのが気配で分かった。
「風のシルキーです。お迎えに上がりました。我が君」
ニーナは大きく一度、深呼吸した。
来るべき時が来たのだ――すべてを知りたい、というただ一つの思いが、ニーナの背中を押した。
「今、支度するわ」
* *
翌朝、フォルワース領主館から少女の姿は消えていた。少女の使っていたはずの部屋には、なに一つ彼女の痕跡は残っておらず、始めから空き部屋であったように整然としていた。
それを目の当たりにした伯爵家の若君は、人知れず膝を突き、落胆した。
第2章 了





