9 消える火
「ニーナ、離れて!」
カディーが叫んで、ニーナを突き飛ばした。短く悲鳴を上げて倒れ込んだニーナは、なにごとかと顔を上げ、そのまま凍り付いた。
始めは、そこだけ雨が降っているように見えた。透明な雫が、降り注ぐようにカディーを取り巻いている。無数に舞う水の粒は中心へ吸い寄せられるように集まり、一体となり、瞬く間に巨大な球体となった。
それは確かに、たゆたいきらめく水だった。しかし地に着くことはなく、波打ちながら浮遊している。
この世の出来事と思えぬ光景に、ニーナはしばらく動けなかった。だが、水中でもがくカディーを認識した途端、彼女は無我夢中で駆け寄った。
「カディー!」
彼を助けようと、ニーナは水の球に手を差し入れようとした。しかし、触れれば水の冷たい感触のするそれは、押してもわずかにへこむように奥へ行くだけで、ニーナを受け入れなかった。その間にもカディーは空気の泡を吐き、動きも次第に鈍ってくる。
「カディー、カディー!」
ニーナは必死であがいたが、いくらやっても結果は同じだった。苦しげなカディーの姿に、彼女はすがる思いでアストラを見た。
「お願い、カディーを出して! このままじゃ、カディーが!」
アストラは少し首を傾けた。
「そうだね。カロルは火だし、このままだと少しだけ危ないかも」
そう言うアストラの声音には、微塵の危機感もなかった。彼はそのまま、カディーへと視線を向けた。
「いつまで我慢するつもり? その姿のままではすぐに限界が来てしまうよ」
すると水中で、カディーが緩く首を振った。
「どうして? せっかく持って生まれたものなのだから。恥じるものでもない」
カディーはあくまで首を振り、アストラは肩をすくめた。
「仕方ないな。それでは少しだけ、手伝ってあげよう」
アストラが言い終わった瞬間、カディーはびくりと震えて、きつく体を丸めた。
「我慢しないで、早く楽になってしまいな」
さらに拒絶するように、カディーは首を振り続ける。
くすり、と。アストラが笑った。
「さあ、見せておあげ」
それが合図のようだった。突然、カディーを閉じ込めている水が音を立てて泡立った。水面の泡がはじけると、熱い蒸気が肌に触れ、ニーナは慌てて手を引いて後ずさった――水が沸騰しているのだ。そしてそれを起こしている熱源は、カディーだった。
水中にもかかわらず、彼の体から炎が吹き上がっていた。水のあぶくを絡めとるように、炎が腕を伸ばして揺らめいている。服は焼かれて灰となり溶けていく。そうして現れた彼の肌は、緋色の鱗に覆われていた。
彼が叫ぶように口を開くと、顔を真ん中から二つに裂いたよう見えた。しかし他に顔の凹凸はほとんどなく、鼻や耳あるべき場所には細い穴があるだけだ。異様に大きな目をさらに見開き、彼は太い鉤爪の付いた手で顔面を覆う。そして自身の姿を少しでも隠そうとするように、長い尾を体の前に巡らせた。
ニーナはただ立ち尽くしてそれを見詰めた。だが次第に全身が震えだし、歯の根が合わなくなった。絞り出す声の後、ニーナは目の前の生きもののおぞましさに悲鳴を上げた。
逃げ出そうとしたニーナの体を、誰かが後ろから抱きすくめた。恐慌するニーナの耳朶を、アストラの笑い声が撫でる。
「ニーナは初めてだね。怖がらずにちゃんと見てあげるんだ。逃げては可哀そうだよ。これが彼の生来の姿――火のジン」
アストラは耳元でゆっくり囁いた。しかし言葉のすべてが、異形への恐怖に支配されたニーナの思考を素通りしていく。震えるニーナを抱きすくめたまま、アストラはさらに囁いた。
「最後に、もう一つだけ教えてあげよう。八年前に死んだ、君の両親のことを」
それに反応したのは、水中の異形だった。彼は取り乱したように尾を揺らしてこちらを見た。
《駄目だ、アストラ!》
耳の一番奥で響くように、カディーの声が聞こえた。それにアストラの笑い声が重なり、ニーナは硬直したまま聞き入った。両親の話は、どんな状況でも彼女の気を引くものだった。
「君の父、ケンジー・パーカーが巻き込まれた船火災。確かにあれは事故だ。でも、本当の事故ではない――カロルが起こしたものだ。そうしてエベリーナを自死へと追いやったのも、彼」
ニーナは呼吸を忘れ、心臓さえ拍動をやめた気がした。まばたきさえできないまま、異形と化したカディーを見詰める。彼もまた、なにかを訴えるようにこちらを見ていた。
「……それ、本当?」
違う、と返ってくることをニーナは祈った。
しかし、彼は無言で顔を背けた。それが答えだった。
「……ずっと、騙してたの?」
《ニーナ、ぼくは……》
再びカディーの声がして、異形が許しを請うように腕を伸ばした。伸ばされた腕が水の球から出ることはない。それでも、ニーナは叫んでいた。
「来ないで!」
叫ぶと同時に噴き出したのは、頭がくらくらするほどの怒りと嫌悪だった。
「ずっと騙してたんだ。あたしは誰よりも信じてたのに。家族だと思ってたのに。なのに、あんたは……」
体がわななき、ニーナは唇を噛んだ。
「あんたなんか家族じゃない。あたしの前から消えて。この――」
裏切られたという思いが、ニーナの自制を失わさせた。
「化け物!」
言ってから、ニーナは自身の発した決定的な言葉にはっとした。異形の顔に、明らかに傷付いた色が浮かぶ。ニーナを見詰める青紫の目は数度揺れ、やがて瞼が下がり、彼は動かなくなった。
ニーナの背後にいると思っていたアストラが、異形のすぐそばにいた。彼が手を触れた瞬間、異形を包んでいた水の球は泡がはじけるように霧散し、消え去った。気を失い、ぐったりとした赤い生きものを、アストラは丁寧に抱きかかえた。
「可哀そうに。けれどこれが、君の罪の結果」
呟いて、アストラは立ち尽くしているニーナへと顔を向けた。
「今日はこれで引き上げるよ。彼の代わりは近々迎えに来させるから……今度は大切にしてあげて欲しい。ジンはただ一人のためだけに生まれて、その一人のために生きることでしか存在できない、哀れな生きものなのだから」
今のアストラに笑みはなかった。腕の中の異形の額へと、彼は優しく唇を落とした。
「カロルの過ちも、それゆえのもの。ジンは皆、たった一人のために見えないところで傷付いている。それを分かってあげて欲しいんだ。彼のようなジンを、また生まないためにも」
アストラは、慈しむ目で異形を見た。
「さあ、ソルのもとへ帰ろう」
異形を抱えたアストラの輪郭がにじんだ。闇に侵食されるようにその姿は薄くなり、やがて夜の中へ完全に溶け消える。そして、湖畔のしじまが返って来た。
急に視線が低くなり、自分が地面に座り込んだのだと、ニーナは遅れて気が付いた。目の前には、いつの間に外れてしまったのか、青い仮面が落ちていた。そこに描かれた猫の顔が、こちらを見て笑っているように見えた。ぱたりと、石畳に雫が落ちる。それが自分の涙であることさえ、今のニーナにはすぐに分からなかった。
体の震えが止まらない。それが寒いせいなのか、別に原因があるのかは判然としない。冷えた石畳と冬迫る空気が、容赦なく少女の体温を奪っていく。一人きりの闇の中で、ニーナは動くことができなかった。
二度と自力で立ち上がれないのではないか。そう思えるほどの時間が経った頃、遠くから彼女を呼ぶ声がした。
「ニーナ」
石畳を蹴る足音がして、誰かがそばにやって来た。
「やっと見つけた。外に出たと聞いて驚いたよ。ずいぶん探してしまった。寒いだろうに、こんなところでなにをしているんだ。カディーも見当たらないんだが、一緒ではなかったのか?」
やって来たのが誰かは分かったが、ニーナは答えられなかった。目の前まで寄って来て、ようやく彼は、少女が反応しないことに気付いた。
「ニーナ?」
若者は膝を突いて、うずくまるニーナの顔を窺うように覗き込んだ。そして、彼が息をのんだのが分かったが、自分の顔がどのようになっているかは今のニーナにはどうでもよかった。
「ニーナ、どうしたんだ」
若者の手が、剥き出しの少女の肩に触れ、その冷たさに彼はさらに驚いた。
「冷え切っているじゃないか。一体いつからここに? このままではよくない。早く中へ――」
立ち上がるのを手助けするように、彼に引き寄せられた時だった。ニーナは自身でも信じられない行動に出た。肩口に顔を埋めるようにして、彼にひしと抱き付いたのだ。耳元で彼の喉がなるのが聞こえ、早鐘打つ心臓の音さえも、胸へ直に伝わって来る。
今は誰でもよかった。とにかく寒くて、早くこの震えを止めたかった。
ためらいがちに、若者の腕が少女の背中に回された。
「……なにが、あったんだ」
しかし、ニーナは答える言葉を持たなかった。若者の腕の力が、わずかに強くなった。
「一度、部屋に戻ろう」
少女は自力で立てず、若者は震える彼女を抱き上げて、もと来た道を引き返した。
すべてが終わった後には、漆黒の上着と仮面だけが、石畳の上に残っていた。





