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白金のイヴは四大元素を従える  作者: 入鹿なつ
第2章 緋色の遁走曲

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9 消える火

「ニーナ、離れて!」


 カディーが叫んで、ニーナを突き飛ばした。短く悲鳴を上げて倒れ込んだニーナは、なにごとかと顔を上げ、そのまま凍り付いた。

 始めは、そこだけ雨が降っているように見えた。透明な雫が、降り注ぐようにカディーを取り巻いている。無数に舞う水の粒は中心へ吸い寄せられるように集まり、一体となり、瞬く間に巨大な球体となった。

 それは確かに、たゆたいきらめく水だった。しかし地に着くことはなく、波打ちながら浮遊している。

 この世の出来事と思えぬ光景に、ニーナはしばらく動けなかった。だが、水中でもがくカディーを認識した途端、彼女は無我夢中で駆け寄った。


「カディー!」


 彼を助けようと、ニーナは水の球に手を差し入れようとした。しかし、触れれば水の冷たい感触のするそれは、押してもわずかにへこむように奥へ行くだけで、ニーナを受け入れなかった。その間にもカディーは空気の泡を吐き、動きも次第に鈍ってくる。


「カディー、カディー!」


 ニーナは必死であがいたが、いくらやっても結果は同じだった。苦しげなカディーの姿に、彼女はすがる思いでアストラを見た。


「お願い、カディーを出して! このままじゃ、カディーが!」


 アストラは少し首を傾けた。


「そうだね。カロルは火だし、このままだと少しだけ危ないかも」


 そう言うアストラの声音には、微塵の危機感もなかった。彼はそのまま、カディーへと視線を向けた。


「いつまで我慢するつもり? その姿のままではすぐに限界が来てしまうよ」


 すると水中で、カディーが緩く首を振った。


「どうして? せっかく持って生まれたものなのだから。恥じるものでもない」


 カディーはあくまで首を振り、アストラは肩をすくめた。


「仕方ないな。それでは少しだけ、手伝ってあげよう」


 アストラが言い終わった瞬間、カディーはびくりと震えて、きつく体を丸めた。


「我慢しないで、早く楽になってしまいな」


 さらに拒絶するように、カディーは首を振り続ける。

 くすり、と。アストラが笑った。


「さあ、見せておあげ」


 それが合図のようだった。突然、カディーを閉じ込めている水が音を立てて泡立った。水面の泡がはじけると、熱い蒸気が肌に触れ、ニーナは慌てて手を引いて後ずさった――水が沸騰しているのだ。そしてそれを起こしている熱源は、カディーだった。


 水中にもかかわらず、彼の体から炎が吹き上がっていた。水のあぶくを絡めとるように、炎が腕を伸ばして揺らめいている。服は焼かれて灰となり溶けていく。そうして現れた彼の肌は、緋色の鱗に覆われていた。

 彼が叫ぶように口を開くと、顔を真ん中から二つに裂いたよう見えた。しかし他に顔の凹凸はほとんどなく、鼻や耳あるべき場所には細い穴があるだけだ。異様に大きな目をさらに見開き、彼は太い鉤爪の付いた手で顔面を覆う。そして自身の姿を少しでも隠そうとするように、長い尾を体の前に巡らせた。


 ニーナはただ立ち尽くしてそれを見詰めた。だが次第に全身が震えだし、歯の根が合わなくなった。絞り出す声の後、ニーナは目の前の生きもののおぞましさに悲鳴を上げた。

 逃げ出そうとしたニーナの体を、誰かが後ろから抱きすくめた。恐慌するニーナの耳朶を、アストラの笑い声が撫でる。


「ニーナは初めてだね。怖がらずにちゃんと見てあげるんだ。逃げては可哀そうだよ。これが彼の生来の姿――火のジン」


 アストラは耳元でゆっくり囁いた。しかし言葉のすべてが、異形への恐怖に支配されたニーナの思考を素通りしていく。震えるニーナを抱きすくめたまま、アストラはさらに囁いた。


「最後に、もう一つだけ教えてあげよう。八年前に死んだ、君の両親のことを」


 それに反応したのは、水中の異形だった。彼は取り乱したように尾を揺らしてこちらを見た。


《駄目だ、アストラ!》


 耳の一番奥で響くように、カディーの声が聞こえた。それにアストラの笑い声が重なり、ニーナは硬直したまま聞き入った。両親の話は、どんな状況でも彼女の気を引くものだった。


「君の父、ケンジー・パーカーが巻き込まれた船火災。確かにあれは事故だ。でも、本当の事故ではない――カロルが起こしたものだ。そうしてエベリーナを自死へと追いやったのも、彼」


 ニーナは呼吸を忘れ、心臓さえ拍動をやめた気がした。まばたきさえできないまま、異形と化したカディーを見詰める。彼もまた、なにかを訴えるようにこちらを見ていた。


「……それ、本当?」


 違う、と返ってくることをニーナは祈った。

 しかし、彼は無言で顔を背けた。それが答えだった。


「……ずっと、騙してたの?」

《ニーナ、ぼくは……》


 再びカディーの声がして、異形が許しを請うように腕を伸ばした。伸ばされた腕が水の球から出ることはない。それでも、ニーナは叫んでいた。


「来ないで!」


 叫ぶと同時に噴き出したのは、頭がくらくらするほどの怒りと嫌悪だった。


「ずっと騙してたんだ。あたしは誰よりも信じてたのに。家族だと思ってたのに。なのに、あんたは……」


 体がわななき、ニーナは唇を噛んだ。


「あんたなんか家族じゃない。あたしの前から消えて。この――」


 裏切られたという思いが、ニーナの自制を失わさせた。


「化け物!」


 言ってから、ニーナは自身の発した決定的な言葉にはっとした。異形の顔に、明らかに傷付いた色が浮かぶ。ニーナを見詰める青紫の目は数度揺れ、やがて瞼が下がり、彼は動かなくなった。

 ニーナの背後にいると思っていたアストラが、異形のすぐそばにいた。彼が手を触れた瞬間、異形を包んでいた水の球は泡がはじけるように霧散し、消え去った。気を失い、ぐったりとした赤い生きものを、アストラは丁寧に抱きかかえた。


「可哀そうに。けれどこれが、君の罪の結果」


 呟いて、アストラは立ち尽くしているニーナへと顔を向けた。


「今日はこれで引き上げるよ。彼の代わりは近々迎えに来させるから……今度は大切にしてあげて欲しい。ジンはただ一人のためだけに生まれて、その一人のために生きることでしか存在できない、哀れな生きものなのだから」


 今のアストラに笑みはなかった。腕の中の異形の額へと、彼は優しく唇を落とした。


「カロルの過ちも、それゆえのもの。ジンは皆、たった一人のために見えないところで傷付いている。それを分かってあげて欲しいんだ。彼のようなジンを、また生まないためにも」


 アストラは、慈しむ目で異形を見た。


「さあ、ソルのもとへ帰ろう」


 異形を抱えたアストラの輪郭がにじんだ。闇に侵食されるようにその姿は薄くなり、やがて夜の中へ完全に溶け消える。そして、湖畔のしじまが返って来た。

 急に視線が低くなり、自分が地面に座り込んだのだと、ニーナは遅れて気が付いた。目の前には、いつの間に外れてしまったのか、青い仮面が落ちていた。そこに描かれた猫の顔が、こちらを見て笑っているように見えた。ぱたりと、石畳に雫が落ちる。それが自分の涙であることさえ、今のニーナにはすぐに分からなかった。

 体の震えが止まらない。それが寒いせいなのか、別に原因があるのかは判然としない。冷えた石畳と冬迫る空気が、容赦なく少女の体温を奪っていく。一人きりの闇の中で、ニーナは動くことができなかった。





 二度と自力で立ち上がれないのではないか。そう思えるほどの時間が経った頃、遠くから彼女を呼ぶ声がした。


「ニーナ」


 石畳を蹴る足音がして、誰かがそばにやって来た。


「やっと見つけた。外に出たと聞いて驚いたよ。ずいぶん探してしまった。寒いだろうに、こんなところでなにをしているんだ。カディーも見当たらないんだが、一緒ではなかったのか?」


 やって来たのが誰かは分かったが、ニーナは答えられなかった。目の前まで寄って来て、ようやく彼は、少女が反応しないことに気付いた。


「ニーナ?」


 若者は膝を突いて、うずくまるニーナの顔を窺うように覗き込んだ。そして、彼が息をのんだのが分かったが、自分の顔がどのようになっているかは今のニーナにはどうでもよかった。


「ニーナ、どうしたんだ」


 若者の手が、剥き出しの少女の肩に触れ、その冷たさに彼はさらに驚いた。


「冷え切っているじゃないか。一体いつからここに? このままではよくない。早く中へ――」


 立ち上がるのを手助けするように、彼に引き寄せられた時だった。ニーナは自身でも信じられない行動に出た。肩口に顔を埋めるようにして、彼にひしと抱き付いたのだ。耳元で彼の喉がなるのが聞こえ、早鐘打つ心臓の音さえも、胸へ直に伝わって来る。

 今は誰でもよかった。とにかく寒くて、早くこの震えを止めたかった。

 ためらいがちに、若者の腕が少女の背中に回された。


「……なにが、あったんだ」


 しかし、ニーナは答える言葉を持たなかった。若者の腕の力が、わずかに強くなった。


「一度、部屋に戻ろう」


 少女は自力で立てず、若者は震える彼女を抱き上げて、もと来た道を引き返した。

 すべてが終わった後には、漆黒の上着と仮面だけが、石畳の上に残っていた。

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