6 控え室
大広間に直結する控えの応接室で、ニーナは長椅子に座っていた。だが、後ろのウエスト部分に大きなリボンが付いているため背もたれを使うことができず、コルセットの締め付けもあって、かなり窮屈な気分だ。
天井から下がるシャンデリアの光が大きなガラス窓に映り込み、日が暮れているにも関わらず室内は明るい。彫刻のされたマントルピースを持つ暖炉は赤々と燃え、肩の出るドレスであっても程よく温かかった。
他にはメイドが一人いるだけの部屋で、ニーナが手持ち無沙汰に大広間の喧騒に耳を澄ませていると、大広間とは反対側の扉が開いた。顔を振り向けると、そこにはすらりと背の高い若者が二人立っていた。見栄えのする二人にニーナは思わずどきりとし、そんな自分になんとなく腹が立った。
「ニーナ、ずいぶんと早かったんだな。待たせてしまって申しわけない」
先に話しかけて来たのは、白地に金模様の描かれた仮面を着けている方だった。彼は孔雀青の上着に同色の縁なし帽を被り、顔の上半分を隠す仮面の向こうでは、はしばみ色の瞳がこちらを見ていた。
「ベロニカは一緒ではなかったのか」
伯爵家の御曹司がそばまで来たので、ニーナは床に際限なく広がろうとするスカートを少し引いた。
「ものすごく時間がかかりそうだったから、先に来たのよ」
むっとした態度を表しながら、ニーナは答えた。
実を言うと、ニーナがここにいるのは本意ではなかった。収穫祭の舞踏会を見学できるか聞いたところまではよかったのだが、それがベロニカの知るところになってからが大変だった。彼女はニーナとカディーのところへ突然に押しかけて採寸をし、あっという間に二人分の衣装を仕立てて来たのだ。ニーナは参加する気はないと主張したのだが、結局はベロニカの思惑通りにことは進み、今に至っている。彼女が培ってきた、物事を思い通りに動かす才は、ニーナごときに太刀打ちできるものではなかったのだった。
ニーナは歩み寄って来たもう一人の若者に注意を向けた。
「カディー。それ、すごく似合うわ」
「そうかな。こういうのは着慣れなくて……」
ニーナは素直な感想を口にしたのだが、カディーはあまり自信がない様子だった。
彼の着ている丈長の黒い上着には、髪色に合わせたのだろう真紅の縫い取りがされていた。襟の襞飾りやベスト、ひざ丈の脚衣から靴に至るまですべてが上品な光沢の漆黒で、緋色の髪を束ねるリボンまで黒い。金で蔓模様の描かれた仮面もやはり黒く、鼻から下が鳥のくちばし形に前へ向かって尖っていた。
「全身真っ黒で、カラスになった気分だ」
「そんなことないわ。その方が、カディーの髪が映えてるもの。いつもよりずっと鮮やかに見えるくらい」
あやぶむカディーに、ニーナは太鼓判を押した。
「ニーナのはずいぶん可愛いね」
仮面の向こうでカディーが目を細め、ニーナは首を傾けた。
「そうかしら」
「それは猫?」
「多分」
ニーナは答えながら、自分の頭に付けられた、布製の三角形の耳をつまんだ。ニーナのドレスは、全体が淡い青色をしていた。上質なシルク製で肌触りはよいのだが、極薄の布を無数に重ねたスカートは動くたびふわふわと広がって、ペチコートを着けていてもどことなく頼りない感じがする。
「顔も猫なのよ」
テーブルの上に投げ出していた仮面を取り上げ、ニーナは顔に当てて見せた。青色の仮面には、猫の顔が銀で描かれていた。鼻から口元にかけての猫らしい丸みには、丁寧に馬尾毛のひげまで埋め込まれている。
再び廊下側の扉が開く音がして、ニーナはそちらに顔を向けた。そして間違いなくその場にいた全員が、ぎょっとして凍り付いた。遅れてやって来た本人は三人の様子を気にも留めず、ニーナを見るなりはしゃいだ声をあげた。
「きゃあ、ニーナ! なんて可愛らしいの!」
彼女が走り寄って来たかと思うと、思い切り抱き付かれて、ニーナは目を白黒させた。
「ちゃんと立って見せて。やっぱり可愛らしいわ。わたくしの見立て通り」
反抗する間もなくニーナは長椅子から立たされ、あちこち入念に確かめられる。唖然とする一同の中で、最初に平静を取り戻したのは、やはり身内の人間だった。
「ベロニカ……なんだ、それは」
「見れば分かりますでしょう。猫ですわ、猫。王宮にしかいないという青い猫をモチーフにしてみましたの。特にこの耳と仮面がわたくしのこだわりですわ。尻尾もあったのだけれど、着けなかったの? 忘れてしまっただけなら、今からでも取りに行かせて……」
「ベロニカ」
放っておくと勝手に盛り上がる妹の話を、エリヤは遮った。
「わたしが言っているのはニーナではなく、君の方だ。なんだ、それは」
室内にいる全員が、同意見だった。
ベロニカが身に着けているもので、まず目に入るのは赤だった。金糸で縫い取りのされた真紅の、それも男物らしき上下を着ているのだ。肩には金の裏打ちをされた黒いマントを纏い、金色の仮面には縞模様の角と色とりどりの羽飾りが上向きについている。白いタイツの上からはいた真っ赤な脚衣は、長身な彼女の長い足を際立たせ、よく似合っているのがさすがだった。
周囲の呆れをよそに、ベロニカは気取って見せた。
「とっても素敵でしょう。始めは天使にしようかと思ったのですけれど、それではありきたりでつまらいから、いっそのこと、悪魔にしてみましたの」
「それで人前に出るつもりか?」
「なにをおっしゃられているのかしら。今日は収穫祭ですわ。どんな格好をしても許されますのよ」
当然とばかりにベロニカは言い、エリヤは頭痛がするようにこめかみを押さえた。さすがのニーナも、今回ばかりはエリヤに同情した。
初めて会った時から、ベロニカが普通とは少しずれた、変わった人物であることに気付いてはいた。彼女は、ニーナが貴族は嫌いだと宣言しているのも関わらず、今回のドレスに限らず普段着まで見立て、なにかと飾り立てようとしてくるのだ。それだけなら、女兄弟のいない彼女が、年下のニーナを妹扱いすることを楽しんでいるようにも見えていた。だが今回は、それでフォローできる範疇を完全に超えていた。
「さあ、皆揃ったところで、参りましょう」
ベロニカは両手を合わせて、一同を見回した。
「カディー、エスコートしてくださる?」
「ええっ、ぼく?」
さすがに動揺して一歩引いたカディーの腕に、ベロニカは素早く腕を絡ませた。
「ちょっと待って。ぼくは……」
「ベロニカ」
弱り切るカディーに、エリヤがすかさず助け舟を出した。
「カディーが困っているじゃないか。彼は目立つのが好きではないんだ。君と違って。エスコートならわたしがするから」
だが、ベロニカの反論も早かった。
「カディーはどちらにしても目立ちますわよ。舞踏会の新顔ですし。あと、この髪の色で。どうせ目立つなら、とことんやらなくては滑稽なだけですわ。お兄様はニーナをエスコートしてくださいな。さあ、早く参りましょう」
エリヤはさらに反論しようとしたが、ベロニカは無視してカディーを引っ張った。あまりの強引さに、カディーはつんのめりながら進んだが、その目は、誰かしらに助けを求めていた。しかし今この場にベロニカを止められる者はおらず、彼はほとんど引きずられる状態で、赤と黒の色彩は大広間へ消えていった。
「あれって、エスコートって言えるの?」
ニーナが疑問を呈すると、隣でエリヤが唸った。
「多分、違うな。まったく、困ったものだ」
やれやれとばかりに呟いて、エリヤはニーナに向き直った。
「それでは、我々も行こうか」
エリヤは慇懃に手を差し伸べたが、ニーナはすぐには取ろうとしなかった。
「どうしてあんたなのよ」
「カディーはベロニカが連れて行ってしまったんだ。他に誰もいないだろう」
ニーナは唇を尖らせて黙ったが、最後には諦めのため息をついた。
「もう、信じられない。だからいやだったのよ」
文句を言いながらも、ニーナは潔く、エリヤの手に手を重ねた。
「今回だけは、目いっぱい譲歩して、あんたで我慢してあげるわ」
「それは、ありがたいことだ」
ニーナの言い方はなかなかひどいものだったが、エリヤは彼女がやめると言い出さないだけよしとすることにした。





