4 貴族
伯爵の執務室を出たニーナは、すぐに部屋に戻る気になれず、領主館の中を目的なくうろうろしていた。広い領主館の中で現在位置はよく分かっていなかったが、さまよう内に玄関ホールに辿りついたので、そのまま外に出てみた。
柱の並ぶポーチの向こうには、石畳を敷いたアプローチが、いくつもの門を有しながら遥か先まで続いていた。左右には対象になる形で、彫像を据えた噴水と、広大な花壇がある。夏の花はそろそろ終わりを迎え、遠くの方には庭師が植え替えをしている姿も見えた。
ニーナはポーチの階段を降りると、花壇の間にベンチを見つけて座った。久しぶりに外の風を感じて、波立っていた感情が静まってくるのを感じる。しかし造成された庭園の空気はやはり、生命力にあふれた森とは違うものであり、どこか侘しい心地にもなるのだった。
それでも部屋で打ちひしがれるよりはずっとましで、気分の悪さが落ち着くまで、ニーナは目を閉じてそこでじっとしていた。
「ニーナ」
不意に呼びかけられて、ニーナは目を開いた。背の高い伯爵の御曹司がそこにいた。彼は屋外用のマントを身に着けており、どうやら外出から戻ったばかりの様子だ。
「なにをしているんだ。もう寝ていなくて平気なのか?」
エリヤが歩み寄ってきて、気持ちの悪さからようやく脱したところだったニーナは、特に意味もなくむっとした気分になった。ニーナがだんまりを決め込んでもう一度目を伏せると、彼がため息をつくのが聞こえた。束の間の沈黙の後、すぐそばに人が寄ってくる気配がして、エリヤが隣に座ったのが分かった。
「父に、なにか言われたか」
伯爵との面会を聞き知っていたらしい。彼なりの気遣いであることは感じたが、ニーナはなんとなく面白くなかった。エリヤは言葉を待つ様子だったが、答える気にはなれない。ためらう間を置いて、結局彼の方が口を開いた。
「誰にでもあると思うんだ。後ろめたいこととか、他人に知られたくない過去とか。そのすべてを暴くのがいいとは、わたしは思わない。重要なのは過去ではなく、今その人が信頼できるかどうかだと。そう思うんだ」
言葉を選ぶようにエリヤがゆっくり語るのを、ニーナは微動だにせず聞いた。風が二人の間を抜けて行き、その合間に彼が一回深呼吸するのが聞こえた。
「わたしは君を信頼している。前に助けられたからとか、そういう陳腐な理由でなく。嫌われているのは分かっているが、君の言葉にはいつも嘘がない。わたしはそう考えている。それでは駄目か?」
隣からわずかに緊張した気配が感じられ、ニーナはしばらく黙っていた。しかし急におかしさがこみ上げて噴き出した。
「……わたしはなにか笑うようなことを言ったか?」
直球に尋ねるエリヤの戸惑い顔がいかにも間抜けで、ニーナはさらに笑った。ひとしきり笑い、ニーナは笑みを残したまま顔を上げた。
「女の子への慰めとしては四十点ね」
目をすがめながら、ニーナは横目にエリヤを見た。
「あんた、貴族向いてないんじゃない? 貴族っていうのはもっと自己中心的で、詐欺師並みに口がうまいものよ」
ニーナは少し仰け反り、薄雲のかかる空を見上げた。
「わがままで、見栄っ張りで、傲慢。そんなところが、あたしは嫌い」
エリヤはニーナの横顔を見詰めてから、正面に顔を戻した。
「否定はしない。この世界では皆、見栄で生きている。そうしなければ、誰に足元をすくわれ、蹴落とされるか分からない」
「ますます向いてないわね。それでよくやってるわ」
「自分でもそう思うから、実際そうなんだろう。でも仕方ないさ。生まれは選べない」
エリヤが諦めたように言い、ニーナは遠くを見詰めるように少し目を細めた。
「そうね……」
伯爵家の御曹司とこういう時間を共有するのはなんだか不思議な感じがした。文武両道で才色兼備な次期伯爵は、ひねたところがなく真っ直ぐで、子供っぽく正義感が強い。貴族社会でこのような若者が育ったことが、ニーナには正直驚きだった。暗い思惑と策略が交錯する泥沼の中では、さぞ生き辛いに違いない。それでも彼がその中で、生まれながらの地位を保ち続けているのは、彼なりの努力の結果なのだろう。
彼になら話してもいいかもしれないという気持ちに、ニーナは急になった。
「あたしのお母さんはね、貴族だったの」
唐突に話し始めると、気配でエリヤが息をのんだ分かったが、ニーナは構わず続けた。
「お母さんの実家のことを詳しく知っているわけではないの。そうだったってことを、両親が死んだ後におばあちゃんに教えてもらった。元々お父さんは王宮で庭師見習いをしていて、そこでお母さんと出会って。あたしが出来て、駆け落ち同然だったんだって。子供のあたしから見ても、二人がお互いに大好きなんだってよく分かった。お父さんが事故で死んで、お母さんが迷わず後を追うくらい、二人は愛し合ってた……」
思い出しながら、ニーナは目を伏せた。
「お母さんは明るい素敵な人だったけど、根はやっぱり自分勝手な貴族だったのよ。最期には、生きているあたしやロイではなく、死んだお父さんを選んだのだから」
話し終わると共に、沈黙が落ちた。隣に座るエリヤの戸惑いが、空気越しに伝わってくる。当然だろうと思いながら、話してしまえば意外となんでもないことのようにもニーナは感じていた。
「そんなことがあったのか……」
エリヤは長い逡巡を経てようやくそれだけを言ったが、話を受け止め切れてはいなかった。ニーナは、母親に対して恨みに似たものを抱いている。しかしどう頑張っても産みの母を嫌いになることはできず、その気持ちをかつて母が身を置いていた貴族という世界に向けることで、彼女は心の均衡を保っているのだ。それが分かっても、そのような相手にかける言葉を、エリヤは持ち合わせていなかった。
「ニーナ」
建物の方角から呼ぶ声がして、ニーナは振り向いた。こちらに歩いてくるカディーの姿を見つけ、立ち上がって彼に駆け寄る。少し甘えるようにニーナが腕を絡めれば、彼は髪を撫でてくれた。それだけで、張り詰めていた気持ちが解ける気がした。
「もう体調は大丈夫なのかい」
「平気。カディーが来てくれたもの」
カディーは微笑むと、今度はエリヤへと顔を向けた。
「ニーナからなにか聞いたかい」
二人の様子をぼんやり見ていたエリヤは、少し焦った様子で答えた。
「いや。わたしは、なにも」
「そうか」
カディーは探るようにエリヤを見たが、すぐに興味を失ったように背中を向けた。
「ニーナ、部屋に戻ろう」
「うん」
ニーナはカディーの腕をつかんだまま、並んで玄関ホールへ入った。
「ねえ、カディー」
呼びかけると、彼は歩きながら目線だけこちらに向けた。
「伯爵と、なにか話した?」
「まあ、少しだけね」
「……なんて、言っていた?」
恐る恐る言うと、カディーは安心させるように笑んだ。
「ニーナはなにも心配しなくていい。ぼくを信じて」
彼の多彩に輝く青紫の瞳を見て、ニーナも笑みを返した。
「もちろん信じてるわ。カディーはいつだって正しいもの。今だって、カディーならなにが最善か知ってる。そうでしょう?」
「そうだといいんだけど」
「絶対にそうよ」
あやぶむカディーに、ニーナは断言した。
「あたし、カディーがいればなにがあっても大丈夫って気がするの」
「そこまで言われたら、期待にそえるように頑張らないとね」
困ったように笑いながらも彼は応え、ニーナは満面の笑みを浮かべた。彼さえいればなんとかなる。心からそう思っていた。





