2 再会
客室棟の談話室で、ニーナは綿がたっぷり詰められた椅子に身を埋めていた。寝室で着せられた花模様のドレスは美しかったが、今のニーナの目にはそれほど魅力的には映らない。とにかく今は体が重くて頭がよく働かず、それが怪我のせいなのか、寝食が思うようにとれていないからなのかは分からなかった。
ニーナが領主館で目を覚まして、五日が経っていた。始めは状況が理解できずに混乱する彼女に、医師やメイドが辛抱強く、なにがあったかを話してくれた。再び家族を失ったことを知り、取り付く場所もない深みに落ちていく感覚を味わったが、以前のように涙にくれる気には、なぜかなれなかった。
だが、それからが最悪だった。一度目を覚ますと、ニーナは眠れなくなっていた。常にまどろんでいるような、ぼんやりとした心地の中にいるのだが、いざ本当に眠ってしまうと、炎を見た。あの晩に襲来した男達の姿と、すべてを焼き尽くした炎を夢に見ては、悲鳴を上げて飛び起きるのを繰り返していた。
二度と安らかに眠れないのではないかと思われる中、どうにかベッドから出られるようになったニーナは寝室から連れ出され、伯爵家の御曹司と向かい合っていた。エリヤが会いに来た主な目的は、事件のあらましを確認するための聴取だった。彼がテーブルの上に広げて繰っているのは今日までの調査内容をまとめた資料らしく、その内容に沿って聞き取りは行われた。
ニーナが自分の身に起こったことを一通り話し終えると、エリヤは紙にいくらかの書き付けをして、資料の束を揃えた。
「ありがとう。申しわけなかった、辛い話をさせてしまって」
エリヤは気遣わしげに言ったが、ニーナは特に心が動くこともなく首を振った。
聴取を終えても、エリヤはすぐに立ち去らなかった。揃えた資料をテーブルに置き直し、憔悴して一まわり小さくなったかに見える少女を見つめる。
「眠れていないのか」
ニーナはわずかに目を伏せただけで答えなかったが、目元の隈と青ざめた頬が彼女の状態を如実に物語っていた。
「……あんたには関係ない」
ニーナがようやく絞り出したのは、貴族であるエリヤへの変わらぬ敵対心と反発だった。
「用が済んだのなら、もう行って。お願いだから、あたしに関わらないで」
なけなしの気力で発した言葉は震えていた。それでもエリヤが椅子から立ち上がる様子はない。
「残念だが、わたしの用件はまだ済んでいない」
彼はごく静かに言って上着のポケットに手を入れ、取り出したものをニーナに差し出した。
「捕らえた強盗団の一人が所持していた。君のものか?」
差し出されたものを見たニーナは、緩やかに押し寄せた驚きと共に目を見開いた。エリヤが持っていたのは、澄んだ水晶の首飾りだった。急に頬に血が巡ってくるのを感じながら、ニーナは手を伸ばしてそれを受け取った。間近でもう一度、間違いなく母の首飾りであることを確認すると、抱きしめるように首飾りを握った。
「もう戻らないかと思った……よかった」
かすかながらニーナが初めて笑みを見せ、エリヤは目元を和ませた。
「大事なもののようだね」
エリヤが言うと、ニーナはちらと彼を見て、俯き瞳をさまよわせた。
「……う」
ニーナは小さく口を動かし、ぼそりと呟いた。
「うん? なんだい?」
聞き取れなかったエリヤが少し顔を寄せ、ニーナはさらに顎を引いてもう一度呟いた。
「……とう」
「申しわけない、よく聞こえな……」
「ありがとうって言ったの! 何度も言わせないで!」
ニーナが突然叫ぶように言い、エリヤは驚いて体を引いた。少女は恥じ入るように再び顔を伏せたが、頬ははた目にも分かるほど真っ赤だった。しばらくぽかんとしていたエリヤだったが、堪え切れずに噴出した。
「……なんで笑うのよ」
おかしそうに喉を鳴らすエリヤをニーナは上目遣いに見た。あまりに彼が笑うので、ニーナはへそを曲げた。
「やっぱり今のなし。お礼なんか言うんじゃなかった」
むくれるニーナを、エリヤは笑いを収めながらなだめた。
「わたしが悪かった。そう怒らないでくれ」
だがニーナが機嫌を直す様子はなく――と言っても、エリヤの前で機嫌がよかったことなどないが――エリヤは苦笑して立ち上がった。
「少し元気が出たようだな。そのまま待っているといい」
エリヤは資料の束を持って、廊下へ出る扉へ向かうと、部屋の外へ声をかけた。
「入って来たまえ。顔を見せてやるといい」
エリヤは退くと、そこにはもう一人の若者が立っていた。
緋色の髪を見た瞬間、ニーナは立ち上がって駆け出していた。彼は部屋に入ったところで立ち止まり、数歩手前から跳躍したニーナをしっかり抱きとめた。幼い頃から知っている、温かな両腕が彼女を包み込む。彼に抱きしめられた時の安堵感は、大人の硬い腕になっても変わらなかった。
「ニーナ……君が無事でよかった」
若者が耳元で囁き、ニーナの中で張り詰めていたものが音を立てて切れた。ニーナは彼に縋り付き、わっと声を張り上げて泣き出した。
家族の死を聞いた時になぜ出なかったのか不思議なほど、涙は絶え間なく溢れた。これほど手放しで泣いたのはいつ以来か分からず、簡単に止められそうもない。
溜め込んだあらゆる感情をまとめて吐き出し、むせび泣く少女に、若者はただじっと寄り添い、彼女を抱きしめ続けてくれた。
* *
廊下に出たエリヤは後ろ手に扉を閉め、もたれながら軽く息をついた。これでやるべきことにどうにか一段落がついた。まだ全部が片付いたわけではないが、とりあえず、これまでの息つく暇もない忙しさからは解放されるはずだ。
「ため息なんかついて、失恋でもされまして」
急に声をかけられて、エリヤはぎょっとした。しかしそれを顔に出すことなく声の方に目を向ければ、ベロニカがこちらに歩み寄って来ていた。
「引き裂かれた男女が再び出会い、きつく抱き合って再会の喜びを分かち合う――ロマンスですわね」
指を組んでうっとりと語るベロニカに、エリヤはげんなりした。
「……見ていたのか」
「こんなに面白いこと、わたくしが見逃すと思いまして? お兄様も強敵が現れたものですわね。わたくしも燃えましてよ」
エリヤは頭痛がしてきそうだった。
「まったく。いつまでそんなことを言っているつもりだ」
「協力して差し上げると、言っているのですわ」
ベロニカは、ふふふ、と怪しげに笑った。
「あのカディーという方、素敵ですわね。変わった髪色もそうですけれど、優しくて、一途で、ミステリアス。その上とってもハンサム。わたくし、気に入りましてよ」
エリヤは呆れ返って脱力したが、異性に厳しい彼女がここまで言うのも意外だった。
「お兄様はニーナと、わたくしはカディーと結ばれてハッピーエンドというのも、悪くないと思いませんこと」
「君がどうしようと自由だが、わたしを巻き込まないでくれ」
「それは無理な相談ですわ。お兄様はそういう運命なのですもの」
うんざり顔のエリヤを見ながら、ベロニカは口元に指を当てて笑った。
「そうそう。こんなことを言いに来たのではありませんでしたわ」
ベロニカがやや態度を改めたので、エリヤももたれていた扉から体を浮かせた。彼女は周囲に目を配ると、談話室から離れるよう仕草だけで示す。中央棟へ続く渡りまで連れ立って移動してから、彼女は口を開いた。
「これは、わたくしが勝手に知ったことなのですけれど、お兄様のお耳にも入れておこうかと思いまして――お父様がニーナとカディーに、数日中に会われるつもりでいらっしゃいますわ」
エリヤは眉を寄せた。
「伯爵が? ずいぶん急だな」
「早めにはっきりさせるおつもりなのでしょう」
ベロニカの見解に、そういうことかとエリヤも納得する。
「なるほどな。状況を考えれば分からなくもないか」
「お兄様の方ではなにか分かりまして」
エリヤは顎に手を当てて、少し考えた。
「いや。町でカディーの目撃情報はいくつか出てきているが、それだけ、というのが正直なところだ」
ベロニカは肩をすくめた。
「わたくしの方も似たようなものですわ。かなりの確率で、お父様も同じと見て間違いなさそうですわね。あのお父様ですら、ディザーウッドに人が暮らしていることをご存じなかったんですもの。これだけ徹底していると、本人を尋問したところで素直に答えていただけるとも思えませんけれど」
カディーとの昨日のやり取りを思い出しながら、エリヤは同意した。
「わたしもカディーと話はしてみたが、結局なにも分からなかった。ニーナに聞けと言われたから、ひとまず飲んで、彼女とも話してみるつもりだが……おそらく、彼女には知らされていないこともあるんだろう。あくまで、わたしの推測だが」
「そうでしたの」
ベロニカもまた、わずかに考え込む表情をした。
「そうなると、やはりすべての鍵を握るのはカディー、ということになりますわね」
くすりと、彼女は笑った。
「素敵」
* *
嗚咽がすすり泣きに変わり、ニーナがようやく自分を取り戻した頃、カディーが彼女の頭をなでた。
「落ち着いた?」
ニーナは頷いたが、まだ彼から離れる気にはなれなかった。カディーのシャツに頬を擦り付けると、彼は子供をあやすよう背中を優しく叩いた。
「とても怖い思いをさせたね。ぼくがもっと近くにいれば……ごめん」
後悔をにじませるカディーの胸に顔をうずめたまま、ニーナは首を振った。
「カディーはなにも悪くない。仕方なかったのよ。それに、離れていたからこそ、あたしはカディーまで失わずに済んだ」
ニーナはカディーの服を強くつかんだ。
「皆いなくなってしまった……もう、なにも失いたくない。独りはいや」
「ニーナ……」
カディーは抱きしめる腕を緩め、そっとニーナの肩を押した。
「ニーナ、これを君に」
ニーナが名残惜しく体を離すと、彼はニーナの手を包むように取って、掌に硬いものを落とした。彼の手が退くと、そこに赤い輝きがあり、ニーナは目を見張った。それは、両端の尖った水晶が一つ付いた首飾りだった。
ニーナは、先ほどエリヤから受け取って、もう一方の手に握ったままだった首飾りを見た。二つは、まったく同じ意匠をしていた。唯一違う点は、カディーに渡された方が鮮やかな赤色をしていることだった。
「これ、どうしたの? なんでカディーがお母さんと同じ首飾りを?」
戸惑うニーナの手を再び包み、彼は首飾りを握らせた。
「お守りだよ。エベリーナも言っていただろう。これは君を守ってくれる」
久しぶりに聞いた母の名前は、切なく響いて聞こえた。ニーナは黙ると、もう一度、手の中の首飾りを見た。その緋色は温かく、カディーの髪の色と似ていた。両手を握り合わせるようにして、二つの首飾りを握りしめた。
母エベリーナは首飾りを渡してすぐに、いなくなってしまった。彼からの突然の贈りものに、喜びより先に不吉さを感じずにはいられなかった。
「分かった。大切にする。だから……カディーはいなくならないで」
哀願の後、しばらく沈黙があった。不安を掻き立てるには十分な間だった。それでもじっと答えを待っていると、ためらうようにゆっくり抱き寄せられた。
「ぼくは、君のそばにいるよ」
カディーの腕が心地よくて、ニーナは眠るように目を閉じた。





