未必の恋
「お疲れさまでーす」
薄暗いバックヤードで一人、値付けをする彼の直ぐ横を通り過ぎた。
いつもなら快活な彼の返事が返ってくるのに、今日は何故か黙ったまま。
いつもと違う彼の気配に何気なく足を止めたその瞬間、私は思わず彼を振り返った。
『え?』
声が聞こえた気がする…。そして何故か、胸がドキンッと高鳴った。
『いけない…』
頭のどこかで声がする…けれど、私の瞳はその背中に吸い寄せられると釘付けになってしまい、何かに操られた様に、そっと手を伸ばしてしまった。私の指先が彼に届いた瞬間、彼の動きがピタリと止まる。まるで、全神経を集中しているかの様に息を潜めているのを感じた。
『…あ!』
電流が流れたような感覚に、我に返った私は急ぎ足でその場を離れた。
『恥ずかしい…なんて事をしたの…』
顔を赤らめて階段を駆け上がりながら、私の頭は真っ白だった。
そんなはしたない事、いつもの私なら出来ないはずなのに、その時の私はどうしてもその背中に触れたくなって、その衝動を抑えられなかった…。
夢中でトイレに飛び込むと蛇口を捻った。流れる水の音を聞きながら、彼の息づかい、ワイシャツの下の引き締まった肌の温もり…思わず握りしめた指に残るその感触が忘れられない…。
私はずっと前から、射抜く様に見つめる彼にどうしても勝てなかった。
彼の近くを通り過ぎる瞬間、彼はいつもすっ、と息を止める…私の気配を全身で感じ取ろうとする様に、その動きを止めるのだ。
食事する私を見つめる彼、体の線をなぞる様に見つめる彼…明るい彼が、私と二人きりになると妙に黙り込んでしまう…その沈黙と、その視線に私は負けてしまった…。
「資材室に居る」
彼からのメールだ。私は慌てて席を立つと、トイレに行くフリをして事務所を飛出した。
扉を開けると、棚の前で在庫整理をしている彼が居た。
見つめ合ったまま、磁石が吸い寄せられる様に近づくと、言葉も無く口づける。やがて、彼の唇が耳元から首筋を撫でた。思わずもれてしまう吐息を押えようとするけれど、熱くなる体をどうする事もできない。
「…今夜、来て…」
しがみつく様に背中に腕を回すと擦れた声で囁いた。
彼は私を見つめ、痺れる様なキスをする…私の意識は遠くかすむと『もう、どうなってもいい…』そう思っていた。
分かってる―――いけない事は…あなたの薬指には、銀色の指輪が光っている…。
「先に帰って待ってるわ。なるべく早くね」
私は定時に会社を出るとメールを送り、駅から十五分程のマンションへ帰宅した。
大急ぎでシャワーを浴びると『彼に食べさせてあげよう』昨日のカレーは味も染みてて美味しい。私は鍋を火にかけた。
ほどなくして玄関のチャイムが鳴りドアを開けると、目の前にはスーツ姿の彼が立っていた。
「お疲れさま…」
『お帰りなさい』なんて言えない…。
見つめ合ったまま彼は後ろ手に閉めた玄関で、もつれ合う様にキスをする。
言葉なんて要らない―――彼は激しく、強く、優しく私を抱き、求め合う。
私とあなたは、もう、誰にも止められない…。あなたしか、見えない…。
目眩のような感覚に溺れていく私は、仕事中も気もそぞろ。
私達は職場でも人目を盗んで逢瀬を重ねた。片時も離れられなかった。
あなたの姿が見えると手元の仕事が疎かになってしまう…『悟られてはいけない』私は注意深く立ち居振る舞うけれど、でも、周りの人は薄々気付いているのかもしれない…。近頃、周りがよそよそしかった。
けれど、あなたと二人なら誰に見られても構わない…私の瞳に映るのはあなただけ…。
だから、
「そろそろ帰るよ」
そう言って、あなたが帰りの時間を気にするのが切ない。
「ねぇ…」
私はわざと彼に抱きつくと引き止める様にキスをねだった。彼はそんな私に応えながらも時間を気にしている。
「……帰らないで」
胸元で呟く私に
「…明日、休みだから…」
「…休みだから?」
彼の言葉を繰り返し呟く私。見つめ合うと彼は微笑み
「…明日来るよ」
「明日じゃイヤ…」
思わず私は涙ぐんだ。
「……ごめん…」
呟く彼の耳元で
「イヤよ…」
―― あなたを離したくない ――
出張だと妻に嘘をついて出てきた彼は今日も明日の朝まで一緒。でも、明日の出勤は別々…。
何度も彼に抱かれ、こんな真夜中まで一緒に居られるなんて…私は夢の様な気分…けれど…
「怖いわ…」
彼の腕の中で呟くと
「うん? ……何が?」
少し甘い、くぐもる声で彼が訊いた。
「……明日の…朝になるのが…」
朝は嫌い…彼が帰ってしまうから…。
彼は私を抱き寄せると、腕に力を込めながら
「ずっと一緒にいるよ…」
低い声で囁いた。
「ずっと…っていつまで…?」
探る様に尋ねる疑り深い私…。でも……そんな私に彼は微かに笑った。
「ねぇ……いつまで?」
怯えた私は甘えた声で彼に確かめる。『一生? 永遠…?』約束が欲しい…彼の口から言ってほしかった…。
「…ずっと…」
彼は少し間を置くと、あるか無きかの声で私の髪に顔を埋めながら囁いた。
自分の体を押し付ける様に抱きしめると、全身で彼を感じる…呼吸が重なる…心臓の鼓動が聞こえる…私の耳にはそれ以外何も聞こえなかった…。
彼を帰すくらいなら、このまま二人で深い海へ沈めてほしい…。
もっと近くに、もっと一緒に……脚を絡め、手の指先まで絡めて頬を寄せると、まるで一つにとけ合う様で…目が覚めた後、離れてしまえる事が信じられない…。
:: :: :: :: ::
「……ホント?」
驚きを隠せない彼は、心底驚いた様子でそのまま言葉を失った。
「…生理がこないの」
二ヶ月だった。ひとけの無い、夜の休憩室で彼は黙り込んだまま。
「…私、産みたいの…」
彼の目を見つめて言った。彼が本当に好きだった。本当に好きな人のこどもが欲しい…私の長年の夢。
「…」
ソファーに腰を下ろした彼は腕を組み、難しい顔で黙り込んだまま。
彼の妻は不妊症だった。彼も妻もこどもを欲しがり、夫婦で不妊治療の真っ最中。
あれほど、夢中で何度も求め合った日々の中…私と彼はこうなる事を本当に、予想していなかったのだろうか…後になって考えても判然としない…。
「…産ませて…お願い…」
彼の目を見つめると、彼の手に重ねて置いた私の手に、無意識に力がこもった。それでも彼は言葉も無く、床を見つめていた。
「…お願い…」
私は一人でこどもを産んだ。彼の妻はひどくショックを受け、彼は容易に別れる事が出来なかった。
それでも信じて待っていた私の元へ
「引っ越そう」
ようやく離婚し、家を出てきた彼は、三人で暮らす家を探そうと言ってくれた。
そして今―
毎朝目が覚めると真っ先にあなたの寝顔が瞳の中に飛び込んで来る。今朝は鼾をかいていた。
ふと、遠い昔の夢を見ていた私は、その顔を可笑しく、そして愛おしく眺めた。
ベッドをそっと抜け出して、幼稚園のお弁当を作るひと時、私は思う。
―― 平凡で、地味だけど、幸せな日が今日も始まる ――
あの日、あの時、あなたの背中に思わず触れた瞬間から、運命が大きく変わった…。
ひとりぼっちの孤独な私に、こんな穏やかで絵に描いた様な幸せな毎日が待っているとは思わず…いつの間にか、あなたは私の唯一人の人になっていた。
娘が大きくなった時、二人の出会いをどう話せばいいだろう…ふと胸を過る罪の意識。
―― けれど、分かってほしい…愛したの、その全てを心から ――
そうして、新しい人生を与えてくれたあなたと永久に歩む日が、今日も始まる…。
〈了〉
08.11.15