兎の大欺瞞
18/12/31 投稿
22/05/11 文章を修正しました
山の麓には一軒の民家がある。
そこは老夫婦が住まう場所で、孝行者の兎がよく訪れていた。
ある日、兎は民家の厨房で狸が縛り上げられているのを見つける。
「お婆さん、これはいったい……?」
兎が尋ねると、忙しそうにしていた媼が答える。
「そいつが例の畑荒らしの奴だよ」
実はこの頃、老夫婦の畑は何者かによって食い荒らされるという事態が起きていたのだ。
それが今日、ついに正体が暴かれたということらしい。
「そうですか、狸君の仕業だった訳ですか」
兎は逆さ吊りの狸の顔をまじまじと見つめる。
すると、狸が体を大きく揺らして答える。
「違う。断じて我ではない」
相当長い間吊るされていたのか、その声には元気がなかった。
無実を訴える狸の瞳を兎はしばし見つめる。
狸の顔には、恐怖と期待の情が浮かんでいた。
「狸君はこう言っているけど……?」
兎は媼の方に振り向いて、確認を問う。
すると媼は調理の手を止め、ため息交じりに兎に諭した。
「兎君、君は利口な子だから分からないのだろうけど、彼は嘘を吐いているのよ。なにせこの後、狸汁にされるんだからねえ。それが怖くて嘘を吐いているのさ。そのうえ兎君を騙そうというのだから、まったく性質の悪い奴だよ」
それは全く狸を信じていない様子。
なにか決定的な瞬間でも目撃したのだろうか?
媼が考えを改めるような余地はなさそうである。
そうだとしても、狸が嘘を吐いているようには見えないのが、兎の正直なところであった。
「そうなんですね、危うく騙されるところでした」
それでも兎は満面の笑顔を媼に向ける。
これに、狸は鳴き声を僅かに漏らす。
もう兎は狸に唆されないと判断した媼は、しばらくの間、兎に火の番を任せることにした。
勿論媼は、絶対に縄を解いてはいけないとの忠告も忘れない。
兎は了解し、外へ出ていく媼を見送った。
媼が出ていったのを見送ってしばらく。
突然、兎は狸の方に振り向いて、麻縄を解きだした。
「兎君!? いったいどうして!?」
狸は驚愕する。
完全に諦めていたところを、まさかの救いの手が出たからだ。
それも孝行者の兎が、言いつけを破ってまで助けてくれるとは。
「ボクは君がやってないって信じてる。それは目を見れば分かるさ。だから、はやく逃げるんだ。そしてもう二度とこの家に近づいては駄目だよ」
「でも……!」
そうなると兎はどうするのだろうか?
もっとも、狸にとっては自分の命の心配をすべきで、そんな暇はない。
ないのだが、狸のお人好し的性格が、ただ逃げ帰ることを許さない。
「なあに、このために孝行してきたんだ。あとはボクに任せなって。さあ、お婆さんが返ってくる前に早く……!」
狸の目からは涙があふれ出した。
まったく、兎はなんて良い奴なんだろう。
まだ血の巡りが戻っていない脚をふらつかせながら、狸は感謝の言葉を表す。
「兎君、ありがとう! この恩は必ず返すよ」
そう言うと、狸はこわばった足を引きずりながら、山へと帰っていった。
狸が山の奥深くへと進んでいったのをしっかり確認した兎は、厨房に戻る。
置いてある杵を手に取り、それを軽々と振りまわす。
杵の空を切る音が心地よい。
満足した兎は杵を床に突いて、独り言ちる。
「餅つきなんて、久しぶりだなあ」
* * *
「お爺さん、大変だー!」
山で畑仕事をしている翁の元に一匹の白兎が、凄い形相をして駆けてきた。
「どうしたんじゃ、そんなに慌てて」
「お婆さんが……お婆さんが……」
兎はわなわなと震えた手で家の方を指差す。
嫌な予感がした翁は鍬を放り投げ、家に急いで向かう。
家に戻ると、厨房には媼が血だらけになって倒れていた。
「婆さん! 婆さん!」
しかし、返事はない。
「ボクが来たときには、既に……」
妻は死んだのだと悟った翁は、溢れ出る涙と声を堪える。
まさかこの歳になって、こんな不幸に見舞われようとは。
すると視界の端に解けた麻縄と、血に塗れた杵を捉える。
「これは……。そうか、あいつの仕業か! あの狸が言葉巧みにお婆さんを騙して……、この、杵でっ……!」
杵を強く握りしめる翁は、狸に激しい憎悪の情を向ける。
その後ろで、同じく兎も拳を強く握りしめた。
「……許せない! 畑を荒らすだけでなく、反省もせずに、こんな酷いことを……! ……ボクが、必ず、お婆さんの仇をとりますっ!」
* * *
それから数ヶ月後のある日、狸は兎と漁に出かけていた。
それまでにも兎は狸と何度か交流を重ねていた。
それらを通して知ったことは、狸が大食いであること正直者であること、お人好しであること、そして馬鹿ではないことだった。
どうしてこれが悪賢いという印象を持たれるようになったのか、甚だ不思議である。
その原因が狐の風説流布によるものであることを知っている兎でさえ、驚くほどだ。
まったく、正直であることは得しないなと兎は思う。
さて、この日、兎と狸の乗る2隻の船が湖を渡っていた。
湖の真ん中で釣りをするのである。
狸が乗っているのは木船。
泥船だなんてのは後世の創作で、狸もそこまで馬鹿じゃない。
ただちょっと、狸の乗る船には細工をしてあるのだ。
「むむっ、大変だ兎君! 我の船が浸水している!」
その細工とは、狸の乗る船に泥の補修を施し、沈みやすくしているのだ。
これが誇張されて泥船になったのだろう。
不審に思われない程度の細工は難しく、兎はとても苦労したものである。
兎も角、狸の乗る船はどんどんと水に浸食されている。
狸が必死に助けを求め、兎もすぐに狸のもとへと駆けつけていく。
しかし、両者の間にはそれなりの距離があった。
兎が狸の元に着いた頃には、既に狸は水中でばたばたと溺れかけていた。
「助け…ゴボゴボ… 兎、君……ゴボゴボ…」
そんな狸の頭を、何と兎は艪で殴りつける。
ようやく兎がまともじゃないことに気付いた狸だが、もはや手遅れだった。
「ゴボゴボ…苦し…ぃ…」
再び海面に顔を出す狸。
すると、また兎は狸の頭を艪で殴りつける。
「苦しいなら、楽にしてあげるよ。ボクって優しいね」
「!?」
そう言って兎は狸の頭に艪を振り下ろす。
何度も何度も。
四、五回も殴れば狸の頭からは血がだらだらと流れ出ていた。
そして、その頃にはもう狸は大量の水を飲んでいて、呼吸もまともに行えなくなっていた。
狸が水面から再び頭を出すことはなかった。
狸は死んだ。
* * *
こうして兎は見事お婆さんの仇を取る事に成功した。
そして、この復讐劇は勧善懲悪の物語として世に広まり、数百年後まで語り継がれる誰もが知る話となった。俗に言う『かちかち山』である。
しかし、その真実は誰も知らない。
兎が畑を荒らし、媼を杵で撲殺し、狸に罪を擦り付けたと言うことを。
兎の仇討ちは大手柄でも何でもない、何百何千万人もの人々を騙した大欺瞞であることを。