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ちょうどそこへノックする音が響き、先ほど部屋から出て言った秘書の少女がドアから顔を出した。
「おうの様。貴族院議長の砲眼さまよりお電話です。折り返されますか?」
「ああ、やっぱり来たね。坊やの事をどこで嗅ぎつけたのやら……。かさね――」
「はい、私はこの辺でお暇させていただきます――あっ! 忘れるところでした。
いちかちゃ――じゃなくて『渕ヶ根のいちか』に逢ってからお暇しようと思うんですけど……今日は姿が見えないんですが……。事務所にもいなかったし……」
おうのは、ドアから顔を出していた少女に手招きすると、手元に机の端のメモ帳を手繰り寄せつつ苦笑した。
「あの子は、坊やの仕事が終わった日ぐらいから体調を崩していてね。
で、ほら、今年の二月頃だったか、あの子風邪で大熱あるのに無理してぶっ倒れた事があったろ? だから、今回は大事をとって無理やり休ませたのさ。
寮の場所は知ってるね? まあ、暇があったら見舞いにでも行ってやっとくれ」
「分かりました。では、私はこれで」
失礼します、と頭を下げるかさねに受話器を握ったおうのが、いいから早くお行きよ、と笑顔で手を振って見送ってくれた。
かさねは、扉の前で見送ってくれた秘書の少女にも会釈を返し目の前の階段を下りて行く。最上階の筆頭頭取のオフィスからは、ビルの中央を貫く大階段を下りて階下へ向う方が下手にエレベーターを使うより早い。
二階の事務所があるフロアまで下りると――
「いちかちゃん?」
いちかが、いつもの漆黒の着物と袴姿で、同じ姿の後輩の乙女に支えられながらよろよろと階上に向って階段を上がって来るところだった。
「いちか姉さん、無理しないで下さい。やっぱり無茶ですよ」
「いちかちゃん!」
かさねが慌てて一段抜かしでいちかの元まで下りて行くと、かさねに気が付いたいちかは青ざめた顔を僅かに綻ばせた。
その額には、薄らと脂汗が滲んでいる。
「いちかちゃん、大丈夫なの? 具合すごく悪そうだよ」
「うん……。大丈夫……」
「大丈夫じゃありませんよ! かさね姉さんからも言って下さい。いちか姉さん、どうしても、おうの様の所に行くって聞かなくて……」
「いちかちゃん……」
かさねが問い掛けると、いちかは力なく微笑み、うううん、と首を振る。
「大丈夫。会うだけ。すぐに帰るから……だから、心配しないで。ね?」
「…………」
苦しそうにそう告げるいちかの翡翠色の瞳が強い意思を宿して光っていた。
かさねは、口の中で小さく呻き、そして逡巡する。
昔からそうだが、いちかは下手に止めたりする方が返って厄介なのだ。
その事は、金色堂の仲間なら皆知っているし、そもそもいちかは『例会』の直属に選ばれるほどの乙女だ。自身の事は、自身で始末するだけの覚悟と才覚もある。
(いちかちゃん、おへそ曲げるとツンツンしてかわいいんだけどな)
そんな事を頭の片隅で考えつつ、かさねはいちかの傍らでその肩を支えている後輩の少女へ目配せする。「えぇ?」と少女は、泣き出しそうな顔で、かさねを見つめ返して来たが、やがて、大きなため息を吐いて言った。
「いちか姉さん、約束ですよ。おうの様に会ったら、すぐ寮に帰ってベッドに入る。絶対ですからね」
「うん。……約束する。ごめんね二人とも、ワガママ言っちゃって」
「あまり無理しないでね。今日の夜、お店閉めたら、みんなで寮にお見舞いに行くから」
「うん。ありがと、かさねちゃん」
かさねは、もう一度後輩の乙女の少女に頷いてみせると、二人を通すために脇へと身を寄せた。
その横をいちかが後輩に肩を借りながら息を喘がせつつ階段を上って行く。
階上の踊り場を通りその姿が見えなくなるまで見送ってかさねもその場を後にする。
なんだか、妙に胸の内がもやもやして落ち着かなかった。
何事も無いといいのだけれど。




