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竜伸といちかが見つめる中その頬を涙がゆっくりと伝って行く。
「ごめんね、いちかちゃん。みっともないよね。乙女なのにこんなに泣いたりして……」
「…………」
いちかは、無言で袂から取り出したハンカチでかさねの顔を拭った。
そして、竜伸とかさねを交互に見つめた後、ふっ、とその場から姿を消した。
橋の上は、元のふたりきりの状態に戻った。
かさねは、竜伸の正面に向き直ると恥ずかしそうに彼を見つめた。
「ごめんなさい。私は……竜伸さんがまた逢いたい、って言ってくれただけで十分です。直接は逢えませんけど、言ったじゃないですか、私達は同じ太陽の下にいるって」
かさねはきゅっと竜伸の手を握った。
「本当だったら、もっとスマートにお別れを言おうと思ってたんですけど……私ったらダメですね……」
そこまで言ってかさねは、顔を伏せた。石畳にぽたぽたとしずくが落ちる。細い肩を震わせ、しゃくりあげる少女を竜伸は成すすべもなく見つめていた。
(はは……情けねえ。ホント、情けねえ。かさねや女将さん達は、本当なら俺の事なんかほっといてもよかったんだ。
いや、むしろほっておくべきだったんだ。
それなのに、周りの人達とわざわざ交渉して、なんとか俺を助けようとしてくれた……。
それに、今のいちかだって…………)
打ちひしがれる竜伸の思いをよそに、夕日に照らされた水面はキラキラと輝き、ふたりの影帽子だけがただ、ただ所在無げに石畳の上に身を横たえていた。
相変わらずひとけのない運河。
一隻の小船が、ぽんぽんとリズミカルなエンジンの音を立てながら橋の下を通り過ぎて行った。
小船が通り過ぎ、辺りに再び静寂が戻る頃、ようやくかさねは顔を上げた。
「竜伸さん?」
「………………」
「竜伸さん……」
かさねは、袂から手拭いを取り出した。
そして――――
竜伸の頬をそっと拭った。
手ぬぐいの柔らかな感触が心地いい。
かさねは、丁寧に竜伸の頬を拭う。
そして、ふんわりとやさしく微笑んだ。
「竜伸さんも泣き虫ですね。男の子が泣いちゃダメですよ」
「……ああ。でも……かさねほどじゃないだろう?」
頬を赤らめかさねが小さく頷く。
頬に残る涙の跡の上を新たな涙が思い出したように一筋流れて行った。
「かさね、ちょっと借りるぜ」
かさねの手拭いを借りると竜伸は、そっとかさねの頬を拭ってやった。
丹念に彼女の顔を拭っている内にふたりの顔に笑みが浮かんだ。
「祟り神を鎮めるまでか……一緒にいられるのは…………」
「はい……。帰りたくなくなっちゃいましたか?」
首を心なしか傾け、おどけたふりをするかさね。
竜伸は、ふっ、と息を吐くと力なく微笑んだ。
無論、そんな訳はない。尋ねているかさねだって分かっていて聞いているのだ。
そう、そんな訳はない……筈なのだが……。
竜伸は、橋から見える街並みに目を向け、一人胸の中で呟く。
(俺も、もっとスマートにお別れを言わなくちゃな)
「かさね!」
「はい……?」
思わず応えたかさねに竜伸は破顔してその肩をパシンと叩いた。
きょとんとするかさねに竜伸は言った。
「最後は笑ってお別れしようぜ。これ以上泣くのは嫌だからな。笑え、かさね!」
「え、笑えって……そんな事言っても……」
かさねが困惑気味に竜伸の顔を見つめる。
そんな彼女に竜伸は、渾身の力を振り絞って微笑んだ。
目尻から溢れ出た涙が再び頬を伝う。
それでも、それでも竜伸は微笑んだ。
「竜伸さん……」
かさねは、竜伸の顔をまっすぐに見つめると、もう一度だけ袖で顔を拭い、
そして――
そして、少し寂しげな笑みを浮かべて微笑んでみせた。




