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何事かと、声の方を見るとアコーディオンの音色が響き始め、テーブルの間に立った黒縁の丸メガネを掛けたスーツ姿の男性が朗々とした声で歌い始めた。
艶のあるテノールが耳朶に心地いい。
聞くともなしに聞いていた竜伸に袂から取り出した懐中時計をチラリと一瞥したかさねが慌てて声を掛けた。
「あっ、いけない! もう、こんな時間! 竜伸さん、この街で竜伸さんに絶対に見てほしい物があるんです。途中なんですけど……いいですか?」
見れば、かさねは腰を浮かして今にも走り出しそうだ。
しかも、その顔に浮かぶ表情があまりに切実そうなので竜伸は思わず笑ってしまった。
「ああ、いいよ。なら、急ごうぜ」
そう言って竜伸は、すかさずテーブルの上のレシートに手を伸ばす。が、間一髪、かさねが慌てて両手でレシートを握りしめた。
「竜伸さん!」
「おい、割り勘って言ったろ。いいんだよ、この世界のお金を持って帰ったって使い道ないんだからさ。それに……」
竜伸の顔が仄かに赤くなる。
「かさねには、めちゃめちゃ世話になってんだからな。本当なら、俺が奢ったっていいくらいなんだぜ」
「でも、これは竜伸さんの壮行会なんだし、わ、私だって、竜伸さんにお世話になっているんですよ。ほら、祟り神から助けてもらってますし……。そ、それに……ああっ!」
ひょいっ、とかさねの隙をついてレシートを奪い取り竜伸がすかさずレジへ。
かさねが、慌てて追いすがりレジの前で竜伸のシャツの裾を掴んだ。
「ダメです、竜伸さん。やっぱり私が払います。払わせて下さい!」
「いや、だから……」
「もう、竜伸さんの分からず屋! キライになっちゃいますよ! ほ、本気なんですからね!!」
「困る! それはマジで困る!」
「え、ホント? じゃなくて、ええい、離して下さい! こっちに渡して!!」
「痛い! かさね、マジで痛い!」
「愛は、痛いんです!!!」
レジの前で押し問答するふたりに店員がため息交じりに店の奥から出て来た男性の顔を窺った。
のっそりと現れた黒いスーツのひげの男性はこの店の支配人らしい。レジの前の光景に目を丸くすると首を振って天を仰いだ。
「あのう、お客様……」
「「は、はい?」」
思わず動きを止めて、振り向くふたり。
レシートを頭上に掲げ精一杯背伸びし身をよじる竜伸とその竜伸にすがりつくかさね。
落ち着いてみれば、ひどく恥かしい。
どちらともなく体を離すとかさねが上目づかいに竜伸をチラリと見た。
(竜伸さんのせいですよ……)
(かさねだって……)
ぶつぶつとつつき合うふたりに支配人が、オホン! と渋い咳払いをしてみせると、ふたりは瞬時に真っ赤になった。我に返って恥じらうふたりに、支配人は「まったく、最近の若い者と来たら」とばかりに低い声で言った。
「他のお客様のご迷惑になりますので、その辺で……」
支配人の言葉を聞いて店の奥を覘いたふたりにレジに列を成した他の人達の冷たい視線が突き刺さる。
ふたりは、すごすごとお店を後にした。
勘定は、もちろん割り勘で。




