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「え?」
震えるような声に振り向いた竜伸を、すみれ色の瞳が見つめていた。
相変わらずどこまでも澄み切ったかさねの瞳。
込み上げて来る気恥しさを懸命にごまかしつつ竜伸は言った。
「いや……かさねがいてくれたから俺は帰るために頑張ろうって気持ちになれたんだ。
俺一人だったらどうだっただろうな……。もう、諦めてたかもしれないな」
「そんな、私なんて……」
「もちろん、比売神さまとか女将さんとか、みんなが手伝ってくれて、励ましてくれるのもすごくうれしい。だけど、かさねは誰よりも熱心だろ。だからさ。
だけど…………正直、かさねが、まだ責任を感じて自分を責めてるんじゃないかって気にもなってるんだ」
照れ臭ささと余計な事を言っているのではないかという思いから徐々に音量の小さくなって行く竜伸の言葉。そんな竜伸の言葉にかさねは悲しげな表情を浮かべて俯いた。
「ごめんなさい、却って心配かけてますよね……。でも、私が竜伸さんを元の世界に帰らせてあげたいって思うのは、それだけが理由じゃありません。その……竜伸さんは、現世の国ではご家族と暮らされているんですか?」
「ああ。姉貴とお袋とばあちゃんとの四人暮らし。親父は仕事で家を空けてるんだ。少し遠い所にいる」
「心配されてるでしょうね……」
「そうだな……。親不孝、ばあちゃん不孝だよな……」
「いいえ、そうじゃないんです」
これまでに無いほど強く竜伸を見つめるかさねの瞳に薄く涙が浮かんでいた。
ぽつりと呟くようにかさねは言った。
「今の私には血の繋がった家族はいません。
……私は捨て子でした――――市電の停車場に捨てられたんです。
三歳の時でした。
お父さんが、ある日家からずっと離れた知らない停車場で言ったんです。必ず戻って来るからいい子で待っているんだよ、って。
でも……でも、お父さんはいつまで待っても戻って来ませんでした。
夕方が来て、夜になって……さびしくって、寒くって……私はわんわん泣きました。
そうです、気付いたんです……お父さんは戻って来ないんだって、自分はいらない子なんだって、だから……だからここに捨てられたんだって。私はお父さんとお母さんが大好きだったのに……」
すみれ色の瞳にみるみる涙が盛り上がり、頬を激しく伝い始めた。
「……そんな私を救ってくれたのが、女将さんと比売神さまでした。
あの日、たまたまその停車場を通りかかった比売神さまが私を見つけて、その時比売神さまの『お守』だった女将さんを慌てて呼んで……。
初めて会った女将さんはすごく綺麗でやさしくて……私、女神さまみたい、って思いました。
でも、本物の女神の比売神さまのことは、変な言葉遣いの女の子としか思ってなかったんです……。ふふふ。可笑しいですね」
そして――
「その日から、私の隣にはいつも女将さんと比売神さまがいて……金色堂を女将さんが居抜きで買い取る前でしたから、もうずいぶん昔です。
あそこは、その頃俵屋さんて言う別のミルクホールでした。
私と女将さんはあの建物の三階の部屋に住んでたんです。今、みんなでご飯を食べているテーブルが私達三人のお気に入りの場所で……ふふ、よく考えたら今でもあのテーブルでご飯を食べてるんですね。
私は女将さんが仕事の間は、あのテーブルに座って比売神さまや女将さんの仲間の乙女の人達、俵屋の店員さん達に面倒を見てもらってました。
女将さんが仕事で帰れない夜は、私が寂しくないように、って比売神さまがよく一緒に寝てくれましたっけ。比売神さまは、とてもお話上手なんですよ。私が寂しがるといつも神さま達のおかしな話をして私を笑わせてくれました。
それで……しばらくして女将さんの元に弟子になる為に、いちかちゃん、それにやよいちゃんが来て……いちかちゃんは、ちょっと理由があってすぐに別の所へ行ってしまいましたけど……私も本格的に修行を始めて。
その頃でした。女将さんは私を本当の娘として引き取ってくれたんです。嬉しかった……本当に嬉しかった。あの日の事を今でも覚えています」
でも、竜伸さん――
言葉を切ってかさねは竜伸の手を取った。
竜伸を見つめるかさねの目にもう涙は無かった。




