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永久の森

ミノムシとおばあさん

作者: fin

 とても寒い季節です。


 道行く人々が白い息を吐きながら足早に通り過ぎていきます。


『みなさんきっと、暖かい場所に行くのですね』


 古い集合住宅が建ち並ぶその場所には、手入れのされてなくなった枯れかけの植木が佇んでいます。


 誰からも見向きもされないその木の枝では一匹のミノムシが暮らしていました。


 ぷらーん、ぷらーん。


 小枝を集めて作った蓑からこっそり顔を覗かせて、通りを歩く人々の様子を眺めます。

 

『人間さんたちはあんなに足が速いのです。ミノムシはあまり上手に動けないのですよ』


 ミノムシの住処から見えるのは薄汚れた集合住宅の壁と緑の少ない道路ばかりです。

 灰色のコンクリートに囲まれた景色の中、道行く人々の様子を眺める事がミノムシの数少ない楽しみの一つでした。


 どこか遠くに旅に出たいと思った事もありましたが、そのミノムシは小さいながらも分というものを心得ています。


『どんな小さな存在にも役目というものがあるのです。ミノムシはきっとここから人間さんたちを見守る事がお役目なのです』

 

 ぷらーん、ぷらーん。


 ミノムシはどこか楽しげに揺れました。


 しかし、その動きがふいにぴたりと止まります。

 道の向こうに犬を連れた人間を見つけたからです。


『ムム、これは危険な香りがするですよ……』


 ミノムシがそんな事を考えている間にも、犬は植木の下までやって来ておしっこをしてしまいました。


『あっ! 犬さんそんな所におしっこしないでほしいのです!』


 ――ワン、ワン、ワンッ!


 抗議の声が聞こえた訳ではないのでしょうが、ミノムシに気付いた犬がしきり吠えたてます。


『――ひぃっ! ごめんなさいです、許してほしいのです!』


 犬歯をむき出しにして吠えたてるその犬に、ミノムシはただぷるぷると怯えて震える事しかできません。


「ほらっ! 行くぞ!」


 飼い主が叱りつけてその犬を引っ張っていくと、ミノムシはやっと安心する事ができました。


『ふーっ、間一髪のところを助けていただいたのです。人間さんありがとうございます』


 ミノムシは嬉しそうに揺れました。


『人間さんはお優しいのですね』


 ミノムシは人間が大好きでした。


 ぷらーん、ぷらーん。

 

 かつては多くの世帯が暮らしたその集合住宅も、今ではすっかり空き室が増えて人通りもまばらです。


 ミノムシがしばらく退屈そうに揺れていると、今度は杖を突いたおばあさんが足元を確かめながらゆっくりと歩いてきます。 


『あっ! いつも通るおばあさんです! こんにちわなのです!』


 おばあさんを見つけたミノムシが嬉しそうに挨拶します。

 その声が聞こえた訳ではないのでしょうが、おばあさんもミノムシを見てニコニコと微笑みます。


 ミノムシはそのおばあさんの事が大好きでした。

 

 他の人々が気付かず素通りしていく中で、おばあさんだけは時折こうしてミノムシの様子を見ていってくれるからです。


「今日も寒いねぇ」


『はわわっ! 今日は話しかけて頂けたのです! ――ハ、ハイですよ! とってもお寒いのです!』


 ミノムシはおばあさんが去っていくのを嬉しそうに見送ります。


『早く戻ってきてほしいのです! 帰りもお話できたら嬉しいのです!』


 おばあさんはいつもこの時間に通ります。

 そして買い物袋を重そうに提げてまた戻ってくるのです。  


 ミノムシはまたぷらんぷらんと揺れながらおばあさんを待ち詫びます。


『あ、今度は人間さんの子供さんたちが来たのです!』


 下校時間を迎えた小学生でしょうか、数人の男の子たちがじゃれ合いながらミノムシのいる植木の前を通ります。


「おい、見ろよ」


「ミノムシだろ? つまんねー」


 男の子たちもミノムシに気付いたようです。


『こんにちわです! 今日もお寒いですね!』


 いつもより多くの人に気付いてもらえたミノムシは、その事がとっても嬉しくて、元気な声で挨拶をします。

 しかし、その声が人間に届くはずもありません。


 それに、もし聞こえたとしても結果はそう変わらなかった事でしょう。


 ひとりの子が植木の元までやって来て、枝からぶら下がっていたミノムシをぶしっとむしりとってしまいました。


『――ひ、ひぇぇっ! な、何をするのですか!?』


「お前らこれ知ってるか? 見てろよ……」


 男の子はミノムシの着ている簑の両端をびりびりと破いてしまいました。


『や、やめてくださいです! ひどい事しないでほしいのです!』


 ミノムシは突然の事態に簑の中で怯える事しかできません。


『もしかして、ミノムシが見ていたから怒っているのでしょうか!? ごめんなさいです! もうしないのです!』


 ミノムシは必死に許しを乞いますが、それが叶おうはずもありません。

 男の子は今度は小さな木の枝を拾うと、それでミノムシの頭を突きました。


『――痛っ、痛いのです! お願いなのです! もう許してくださいです!』


 一緒にいた男の子たちも興味が湧いてきたのか道端に座り込んで面白そうに見ています。


 簑にくるまり生活しているミノムシは肌が丈夫ではありません。

 痛みに耐えかねて後ずさるとそのまま蓑から転げ落ちてしまいました。


「うえっ! キモッ!」


 道路に転がるミノムシの姿を男の子たちは気味悪がりました。


『もう二度と見たりしないのです……だから、あの木に戻してください……お願いなのです……』


 コンクリートで固められた路上は簑の中で暮らすミノムシにとって凍えるほどに冷たい場所でした。

 それに自力で戻ろうにもギザギザした細かい起伏は這うだけでもミノムシの柔な体を傷つけてしまいます。

 

 痛みと寒さで動けなくなってしまったミノムシはおずおずと身を丸めました。


『痛いのです……寒いのです……』

 

 男の子たちはそんなミノムシの様子をしばらく気味悪そうに眺めていましたが、次第に飽きてくると一人が口を開きました。


「誰か踏めよ」


「やだよ。気持ち悪ィ」


「よし、俺にまかせろ……」


 ミノムシを恐ろしい大きな影が覆います。


 ひとりの男の子が靴の裏でミノムシを踏み潰そうと足を持ち上げていたのです。


『ごめんなさいです……ごめんなさいです……』


 ミノムシはとても悲しくて、とても恐ろしくて、それでもぎゅっと丸まり震えている事しかできません。


「何しとんの……?」


 それは先ほどミノムシが聞いた優しいおばあさんの声でした。


 急いで戻って来たのでしょうか、杖を支えに荒い息を整えています。


『おばあさん……』


 じっと動けずにいるミノムシをまた大きな影が覆いました。


 今度は優しい影でした。

 おばあさんがミノムシをそっと拾い上げてくれたのです。


「かわいそうに……こんな酷い事したらいかんよ……」


 おばあさんはそう言って子供たちをたしなめます。


「なんだよこのババア気持ち悪ィ!」


「白けるわー。行こうぜ……」  


「バァーーカッ!」


 男の子たちはおばあさんを口々に罵りながら去っていきます。


「もう、大丈夫だからねぇ……」


 おばあさんはミノムシを植木に戻してやろうとしましたが、途中で思いとどまりました。


『……』


 ミノムシはおばあさんの手の中でおとなしくしていました。

 おばあさんのがさがさした枯れ木のような手のひらがとても暖かかったからです。


 おばあさんの家はミノムシがいつも眺めていた古ぼけた集合住宅の四階にありました。


 老人の足で四階まで登り降りするのは大変な労力ですが、古い集合住宅にはエレベーターなどありません。

 いつも必要最低限の身の回りの品を買って帰るのですが、その日は手のひらにミノムシを乗せているため更に一苦労です。


 それでもなんとか自室まで辿り着いたおばあさんは、ベランダの小さなツバキの鉢植えにミノムシをそっと下ろしてやりました。


「ここならもういじめられんからねぇ……」


『……』


 ミノムシは環境の変化に戸惑いながらもせっせと蓑を作ります。

 おばあさんはその様子を優しく微笑みながら見守ってくれていました。


 新しい蓑にすっぽり包まれたミノムシは、少しだけ顔を覗かせて周囲の様子を伺います。


 うっすらとスモッグに煙る街の景色はあまり美しいものではありませんでしたが、それでもミノムシが今までいた場所よりずっと見晴らしの良い場所でした。


 遠くには大きなお山の姿も見えました。


『おおー、絶景なのですよ! ここはきっと並のミノムシでは辿り着けない場所なのです!』


 ミノムシは先ほどまでのつらい出来事はもうすっかり忘れてしまいました。

 そして嬉しそうに風に吹かれて揺れました。



「ミノスケや。今日は風が少し暖かいねぇ」


 ミノムシが朝日を浴びながら遠くのお山を見ていると、おばあさんが様子を身にベランダへと出てきてくれました。


『おばあさん、昨日はありがとうございました! 九死に一生を得たですよ! ところで、ミノスケさんとはどなたでしょう?』


 ミノムシの声はおばあさんにも届きません。

 優しい笑顔を見つめながらミノムシは懸命に考えます。


『ハッ! もしや、お名前なのでしょうか!? 今日からミノムシはミノスケなのですね! わーい、わーい!」


 おばあさんに名前を付けてもらったミノスケはたまらなく嬉しくてぷらんぷらんと揺れました。

 

『……ですが、おばあさん。一つ大きな間違いがあるのです。ミノスケはこう見えても立派な乙女なのですよ! ふふふっ!』


 ミノスケはまた楽しそうに揺れました。


 ぷらーん、ぷらーん。


 ミノスケの新しい住処となったおばあさんのお家のベランダは、人間から見れば狭くて薄汚れた場所でしたが、ミノスケにとっては天国のような場所でした。


 遠くのお山がよく見えて、ツバキの葉っぱもとても美味しかったからです。


 それに、何より優しいおばあさんと毎日お話しできる事がこの上ない喜びでした。


 おばあさんもミノスケの様子をいつも楽しげに見ています。


 もう長い事この古びた集合住宅に一人で住んでいたおばあさんにとっても、ミノスケは大切な友人となったのです。


 それからおばあさんは一日に何度もミノスケの様子を見に来てくれるようになりました。

 立て付けの悪いベランダのサッシが「ギギギ……」と軋む音がミノスケは大好きです。


「ミノスケや。今日も寒いねぇ」


『はいです! ですが、ミノスケは元気いっぱいなのですよ!』


 おばあさんにはミノスケの声が聞こえません。

 それでもミノスケはとても幸せでした。


 寒さがより一層身に染みる頃になるとおばあさんはあまり外に行かなくなりました。

 その分ミノスケと話す時間が増えています。


 ミノスケはその事が嬉しい反面、少し心配でもありました。


『おばあさんはちゃんとご飯を食べているのでしょうか……?』


 ミノスケはどこか心配そうに風に揺れます。


「ミノスケはいつも元気で良いねぇ。おばあちゃんになると体が弱ってしまってねぇ……」


『おばあさんにもミノスケの元気を分けてあげたいのです……』

 

 それからまたしばらくすると、おばあさんはベランダにもあまり出てこなくなってしまいました。


『今日も体調が良くないのでしょうか……? ミノスケは早くおばあさんとお話しがしたいのです』


 ぷらーん、ぷらーん。


 ミノスケはさみしそうに揺れながらおばあさんを待ち侘びます。


 しかし、もう二度とおばあさんがベランダに出て来る事はありませんでした。


 管理会社の人たちが、身寄りのなかったおばあさんの後片付けを始めます。


『明日はきっとお会いできるのです』


 ぷらーん、ぷらーん。


 遠くのお山に夕日がそっと沈んでいきます。


 ミノスケはその様子をじっと見つめながら、どこか悲しげに、いつまでも揺れているのでした。





 ~fin~




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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公のマイペースなところが印象的でした。ミノムシ視点で人間社会を観察し、子供や年配、ペットの犬などを自分なりに理解しようとしているところが良かったです。特にミノムシと比較して足が速いとい…
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