6話 ある日の出来事
2018,1/1 改稿
エリスさんがすることに、何か事前に知らされたことがあったかと聞かれたら。そんなことは一つもなかったと僕は答えるだろう。
いや、修行内容を前日に伝えるくらいのことはあった。大抵は話した内容の3倍ほど厳しいものであったが。
そう遠くない距離から、何かの咆哮が聞こえる。いま最も聞きたくない声だ。
くだらないことで気を紛らわしていたのだが、どうやらそんな暇もないらしい。痕跡を残すことなく撤退をしたと思ったのだが、これでなかなか、実戦の難しさよ。
ここ最近は朝から晩まで吹雪が吹き続いているせい時間の感覚をつかみにくい。それだけじゃない。強烈な風によって飛んでいく雪が視界を奪っていく。
精神的な疲労に加えて、この寒さだ。最大限の注意をしていたのにも関わらず、気が付いたら魔獣の縄張り奥深くに入り込んでいた。
大木に刻まれた爪痕からようやく周囲の状況を把握して中心から離れたはずだ。匂いも、足跡も、足音も。侵入者の痕跡は消せる限り消してきたはずだ。
確実に近づいてきているそれに、悪態を吐きたくなる。
雪面に残った小さなくぼみを頼りに歩みを進めるそれに、意識を集中させる。あるところを境にぷつりと切れたそれに気が付くまでもう少し。
気配を隠し続け、ようやく奴が間合いに入ったことを確認する。チャンスは一度きり。奴は地上を警戒し続けている。上空からの奇襲は気づくのに時間がかかるはずだ。
音を殺して、腰に括り付けた鞘から剣を抜く。脚に力を込める。
足場にしていた枝を揺らすことなく飛び降りた。視界には奴の頭上が広がっている。このままいけば一撃で仕留めることができるはずだ。
全体重をかけた一撃を今まさに仕掛けようとしたその時だった。半ば無意識に身体を捻っていた。
体勢を無理に変えたのだから当然問題は起きる。脳天を捉えるつもりで放った一刀は、その剣先を頭蓋に捉えることなく、眼を掠めただけであった。
四足のうち、前足で宙を突くかのように飛び出た攻撃は、服を削りとるだけで終わった。
必殺の一撃は失敗し、事態はあまり好ましくない。しかし、それは好ましくないだけであり最悪ではない。
このサバイバルを始めてから日に日に鋭さを増していく直感には助けられているばかりだ。
考えるよりも、認識するよりも早く体が反応していた。もしあれが少しでも遅れていたならば、今頃は空を舞っていたことだろう。
こうなってしまったら、撤退するのは悪手だ。剣を握り直す。両手に問題はないようだ。
消費する魔力量と威力を考えて、最善手を導き出す。
木々は豊富かつ空気中の魔素の量も申し分ないが、ヴァートルでは効果が薄い。
自然と共に生きるエルフ族の魔法体系であるヴァートルは、自然が答えてくれなければ真価を発揮することはない。
純粋たるエルフ族ならば、解決策を知っているのだろうがない物ねだりだ。
あまり自由が効かないが、人族の魔法がいいだろう。文法の制限に縛られることになるが、要求性能は満たせるはずだ。
一般魔法理論の中でも比較的制限の少ないものを選んでいく。文法さえ忠実に守って入れさえすれば、大抵の魔法を発動できるのが強みだ。
それに相手の片目をかすっただけだとはいえ、封じることができたのは幸いだ。この死角を上手く使って立ち回れば、そう苦戦することはないだろう。
属性は炎。射程は中距離で問題はないだろう。威力はそこまでなくていい。
極限まで無駄をなくし、外に漏れ出ることのないようにして必要分だけの魔力を練り上げる。しっかりとできている。まだ奴はこちらが魔法を使おうとしていることに気づいていない。とはいえ、既に隙といえるほどの隙はもうない。
奴はしっかりとこちらを睨んでいる。僕を敵として見ているのだ。うかつに動くことはできない。
「ファイヤーピナーカ、ファイヤーバレット!」
練り上げた魔法を簡略式詠唱で発動させる。右手を突きだすようにして放たれた二撃は、それぞれ炎の矢と弾丸となりて魔獣を襲う。
こちらの出方を警戒されているためにピナーカは回避された。それに焦りはない。避けられることは予測済みのことであり、そのための第二撃を予想回避地点に向かって放っている。
バレットが飛んできていたことに気づいたとき時には、すでに回避できる距離ではなかった。炎属性としての単純な威力の高さよりも貫通力を優先して組まれたそれは、この雪山を生き抜くために厚くなった体表を容易く貫いた。
着弾を視認するのと同時に、左に向かって駆け出す。両脚に力を込めて大地を蹴る。
足音を立てないようにして、死角に潜り込む。
バレットが貫いた穴はそれほど深くない。だらりと傷口から鮮血が流れ続けているものの、その勢いは大分弱くなってきている。
あいた穴の大きさは拳ひとつくらいだろうか。できる限り毛皮に傷を付けたくはない。
拠点に幾つかの毛皮はあるものの、防寒具として使うにはいささか大きさが足りないのだ。
その毛皮のほとんどが食料調達のために狩った野生動物なのだから仕方ない。
衣食住の全てを現地調達で解決しなければならないのだ。
意図しない会敵であったが、倒す以外に方法はないのだ。ならば有効活用できるようにしなければ今後の手間が増える。
魔素が濃い場所か、あるいは魔素を溜めこんでいたものを体内に摂りこんだ猪あたりが魔獣化したのだろう。
顎から突き出ている2本の牙から、ベースとなった動物を予測する。しかし、猪のままだったならば肉を剥ぎ取ることができたのが残念だ。
毛皮もいいが、食料の方が重要だ。特に野菜や果物類の確保は、このサバイバル生活を始めてから十数日経った今でも苦労することの一つである。
溜息をつきながら、死角からの一撃を放つ。無強化のままの長剣では刃が折れてしまうことを考えて、強化の魔法をかけておく。
できれば詠唱込みのものを施しておきたいが、悔しいことに今の僕ではそれは難しい。単純に刀身のまわりを魔力で包む。
奴の首に向かって勢いよく剣を振り下ろす。上段からの振り下ろしだ。毛皮に切っ先が触れる寸前に奴はこちらの攻撃に気づいたようだった。
完全に見えていない場所から仕掛けたそれを、かすかな風切り音と野生の勘で気づいたのだろうか。
刃が肉を切り分けていく生々しい感触に、未だ慣れないことに顔をしかめながら振りぬく。
少しの静寂のあとに、ゆっくりと首が地面に落ちる。すっぱりと斬られた断面からは滝のように血があふれ出てきている。
そこまで苦戦しなかったとはいえ、この雪山で発生した魔獣だ。未だ知識でしか知らないことであるが、世界でも有数の危険地帯であるらしい。
知らずのうちに強張っていた体のこりをほぐしていく。魔獣との戦闘はそれほど時間が掛かっていないが、負担は大きかったようだ。
腰にさしてあるナイフを使って痛めないようにして毛皮を剥ぎ取っていく。最初のうちは慣れないせいで使い物にならないものを量産していた。
それが今では随分と進歩したものだ。部位ごとに切り分けていきながら、一枚の毛皮として剥ぎ取る。
魔獣化した動物の肉は食べることができない。溜まった魔素が濃縮されたそれは強力な毒性を発生させるからだ。
牙の状態はかなりよく、できればそれも剥ぎ取って持ち帰りたいものである。しかし、現状で牙の使い道はない。戦闘で体力、気力ともに消耗していることもある。
今回は諦めるとしよう。
毛皮を丁寧に丸めて片手で持つ。このまま使うこともできるが、それはあまり好ましくない。少し時間はかかるがなめすつもりだ。
拠点に帰る道中で、食べられる植物を採取していく。大木の付近に多く群生している野草や小さな赤い実を集めていく。
全てを採取するような馬鹿なことはしない。最初のうちは貴重な食糧であるからと採っていたが、後々苦労した。
生態系バランスを崩さない程度に少しずつ集めていく。拠点に着いたころにはかなりの数と種類が集まっていた。
拠点といってもエリスさんと生活していたような立派なものではない。そこらの大木を切り倒した丸太やら木材をちょうどよい深さの洞窟に押し込んだだけの簡素なものだ。
吹き荒れる雪を防ぐことができ、風を通さない。おまけに入口に少し手を加えるだけでかなりのカモフラージュができ、生活に気を付ければ外からの侵入者は少ない。
天然の洞窟であるがゆえに、ときおり融通の利かないことがあるが工夫次第でどうとでもなる。
それに今回のこれはサバイバルだ。豪華さや便利性を求めることは目的に合わない。最低限の衣食住を用意できれば問題はない。
岩を積み上げただけの暖炉に薪を並べる。拠点を離れるまえに火は消してしまったのでもう一度起こさなければならない。
受け皿に溜まった灰をすくいあげて木桶に移し替える。移す最中に下に零さないように注意を払う。
この灰が洗剤となり石鹸となるのだ。ほんの少しだろうと無駄にすることはできない。
薪を円錐になるように立てて魔法で種火を与える。あとは放置していても勝手に点く。剥ぎ取った毛皮を作業場に放り込むついでに幾つかの干し肉を持ってくる。少し離れた所に塩山があったお蔭で量産することができた。
暖炉の上に岩板を置く。鉄製の調理道具なぞないため、少し凝った料理をするために考えついた方法だ。
干し肉を板の上に並べていく。吹雪が来る前に採取したハーブを数種類ほど上にのせておく。肉を焼くのに合わせて桶に溜めた水を汲みにいく。
洞窟の壁からしみ出す水を溜めた他に、外の雪を溶かした分も加えている。桶も何回か新調したものだ。今ではかなりの大きさになっている。
大木から削り出した木製のコップに水を注いで、暖炉のそばに戻って来る。
十分に熱を持った岩板は置かれた肉を焼きあげている。数種のハーブが放つ匂いが食欲をそそる。
箸を器用に使って形を崩すことなく口に入れていく。壁に掛けた板をぼうと眺める。
これを食べきったら、印をまた一つ付けなければな。
口のなかに残る塩気を水で流し込んでいく。
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