2話 出会い、決断 前篇
2017.12/4 改稿
この広大な雪山で、この場所に来たのは偶然であった。誰かに呼ばれている、行かなければならないなどと言う、どこかの英雄譚にでも書かれていそうなことはなかった。
私は、私の感情と思考によってのみ、ここに来たのだ。それも狩りをするという単純なことを目的として。
目の前で、今まさにその命の灯が消えつつある少年を眺めながらそう思った。この地方では珍しい―――いや、まず居るかどうか怪しい黒曜の髪だ。それに見たこともない奇妙な服。雪山に着てくるものではないだろうことは分かる。
この少年に興味が湧いた。普段ならばまず信じることはないのだが、今だけは運命というものを信じるだろうな。
まずは、目の前で死にかけているのをなんとかしなければならない。興味があるに関わらず、目の前で人が死んでいくのを見物するような趣味は持っていない。
倒れて気を失い、死にかけている少年を背負い、自分が暮らしている拠点へと向かう。
この少年の症状はそこまで複雑なものではない。重度の低体温症だ。原因は間違いなく、この濡れて冷え切った衣服と吹雪だろう。
処置として最優先に行うべきは、この天候を防げる場所まで移動することだ。それに、移動中にさらに体温が下がらないように温めなければならない。
まずは急いでこの場所から離れなければならない。それからすぐに治療をする必要がある。
吹雪による視界の影響など関係がない。急いで拠点に戻ってきた。移動している途中で、吹雪がさらに強くなってしまった。なるべく少年の身体が冷えないように注意して移動していたのだが、大分冷えてしまった。
すぐに少年を暖炉のそばに横に寝かす。暖炉に薪を雑であるが詰め込み、魔法で火を点ける。火種が小さいとすぐに消えてしまうかもしれないことを考えて、普段よりも火力は強めにしておく。
部屋が温まるまでの間に、少年の着ている服を全て脱がしていく。この黒色の奇妙な服はぐっしょりと濡れきっていて使い物にならない。
濡れているだけじゃない。冷えて固まってしまっているところもある。
体温を下げる原因の一つである、濡れて役に立たなくなった衣服を全て脱がし終え、それらの代わりに毛布を体に巻きつけていく。
あまりきつく巻かず、ある程度のゆとりを作りながら幾重にも巻いておく。きつくし過ぎると、逆にさらに体を冷やすことになる。
毛布を巻きつけて、次に簡易ではあるが湯たんぽの代わりを用意する。ずっとここで活動していたから、代わりにできるものはいくらでもある。
奥の倉庫から材料を急いで運んでくる。簡単に湯たんぽを作成するのと並行して暖炉の上に雪を詰めた鍋を置いておく。
鍋の中に入れた雪が融け切る前に必要な分の湯たんぽを作らなければならない。暖炉にくべた薪がなくならないように気を付けながら作業を続けていく。
途中、何回か薪が終わりそうになったらあらかじめ持ってきていた薪をくべていく。
必要な数の湯たんぽを作ることにあまり時間をかけずに済んだ。
雪を溶かして作ったお湯を湯たんぽに入れて、わきの下や股下に置いていく。お湯の温度はそこまで高くなく、湯たんぽに入れる前に少し雪を入れてある程度温度を下げたものを入れている。
とりあえず、いまできることはやった。あとはこの少年が目を覚ますのを待つだけである。
まだ、体を暖めるように注意しておこうか。
なんとか大事にはならなかったとは言え、まだ気を抜くことはできない。こんな場所で気絶するまでいたという事実は、彼の体力が限界であったということを如実に示している。
幸いなことに、服を脱いでいなかったことは助かった。雪山、特に吹雪いている中で死ぬ原因の多くは重度の凍傷からの低体温症だ。それゆえに、遺体の多くは裸で見つかることが多い。
まあ、それでも。遺体が見つかるだけでも随分な幸運ではあるが、死んでしまっていたら元も子もないだろう。
顔色は、先よりかは若干よくなっている。呼吸も同じく、安定した。
身体を確認する。指先や足先がやや凍傷にかかっている。先は体温を上げることを第一に考えていたためにここまで気を配ることはできなかった。
いや、性格には優先度の違いなのではあるが。
急激に暖めるのは逆効果であり、それは症状を緩和、治癒するどころか更に悪化させる。
残っていたお湯を桶にはり、温度を少し下げたものの中に指を入れておく。
まずは全体をゆるく温めてからだ。
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目を覚まして、すぐに感じたことは暖かいであった。あまり覚えていないが、それでも吹雪の中を歩き回って、最後には気を失ったのだろう。
ひどく熱く、その場で服を脱ぎ棄ててしまいたい衝動に駆られていたことははっきりと思い出せる。
じんわりと、体を包む熱が頭の働きを正常にさせていく。火の強烈な熱ではない、落ち着いた温もりが、僕の心を落ち着かせていく。
ここは、いったい。外ではないことは、この今の状態が証明している。あの雪山でこの温もりを手に入れることは不可能だ。あれは温もりではない。体を焼くかの如き強烈なまでの痛さだった。
脳に足りていなかった酸素が行きわたり、段々と思考が澄んでいく。
どうやら僕は横になっているようで、そして暖炉の近くで分厚い毛布に包まれていた。
身体を少し動かすと、何かが当たる感触がする。ぶよぶよとしたもので、温かい。
横になった状態で周囲を見渡すと、ここは建物の中のようで、木材を加工して作ったのだろう壁が見える。
辺りを見渡していると、不意に誰かに声をかけられた。女性らしい高い声であるが、低い声だ。意識的に低くしているのだろうか。
背中から感じる不可視の圧力に、似合う声だ、と思いが浮かぶ。
「目が覚めたのか」
横になっているために、声の主を探すことはできない。どうやらこの主が僕を助けてくれたようだ。
声を出すよりも早く、頷いた僕の姿を見たのか足音が遠ざかっていく。幾ばくもしないうちに、帰ってきたようだ。
何か持っていたものを置いて、僕の体を起こす。
声の主は、やはり女性だったようだ。今にも燃えだしそうな程に綺麗な紅い色をした髪をひとまとめに結わえている。
目の前に、小さな木製のコップが差し出される。ほんのりと湯気が立ち上る、琥珀色の液体は、暖炉の火を浴びて|黄金≪こがね≫に輝いている。
「気付にはちょうどいいものだ。少し飲みづらいだろうが、ゆっくりと飲みな」
つんと薫る独特の匂いと、ほんの少しだけする木の香り。強い匂いから、この琥珀の液体が酒、それも恐らくはウイスキーかブランデーの類だろうと想像できる。
差し出されたコップを受け取り、その中身をちびちびと飲む。アルコール特有の強烈な風味が、喉をかすかに焼いていく。
どこか心地よいそれに合わせて、体が内から温まっていくのが分かる。酒だけではないのだろう。飲んでいるうちに気づいたことだが、甘い味がする。
これは確かに、女性が言っていたように気付にはぴったりのものだろう。先も寒くはなかったが、それでもどこか冷えている気がした。
コップの中身が半分を切る頃には、ある程度の余裕が生まれていた。今のこの状態について深く考えることができるようになるまでには回復していた。
目の前の女性について。僕に何があったのか。どうして助けられたのか。様々なことが頭の中で生まれては渦にのまれていく。
「君について、少し聞きたいことがあるんだ」
口元をかすかに持ち上げながら、君もそうだろう、と言われる。
どうやら目の前の女性には、僕が考えていたことは丸わかりであったようだ。
互いの自己紹介から始まり、そのあとから質問が始まった。
彼女の名前はエリス・エーデンというらしく、ここで生活しているらしい。
辺りを見渡すと、確かに部屋の至る所に生活の匂いを感じることができる。ただ少し気になるのは、部屋の隅に立て掛けられた真黒な鞘に納められた剣だ。
それも気になるが、今は聞きたいことがある。この場所がどこなのか。
長くなるだろうと思った僕の疑問は、しかしエリスさんの次の言葉ですぐに解決した。
「まず最初に聞きたいことは君がどこから来たのかだ。疑ったりするような事はしないから素直に話してほしい」
ここに来るまでの経緯。それは、教室にいたこと。授業中に幾何学模様がいくつも浮かび上がったこと。気づいたら知り合いが床に倒れて気を失っていたこと。
そして。最後に覚えているのは、体中にひどく粘り気の強い、黒い何かが覆いかぶさってきたこと。
僕の話しを最後まで聞いたエリスさんは、眉を顰めていた。しかし、その表情は僕の話しを疑っているという訳ではないようだ。
「君は。アメミヤ・シグレ君は、今まで私が会ってきた彼らと同じであることが分かったよ」
その一言は、諦めと、それと納得の感情を含んだものであった。
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