中
中.
私の住んでいた家は、決して綺麗とは言えない。
古くて小さい、母の実家である。
祖父も祖母も、私が高校に入る前に亡くなっており、母と私の二人だけで住んでいた。
父と母は三年前に離婚した。
父が赴任先で女を作ったのだ。
それから母は小さな印刷会社に勤め、私を高校に通わせるために、一生懸命働いてくれていた。
ガラリと古い引き戸を開ける。
それに嵌め込まれた曇りガラスが、うるさく音をたてる。
その瞬間に、ふわりと、お味噌汁のいい匂いが私を出迎えてくれた。
居間へ行くと、母がテーブルの上に料理を並べていた。
「ただいま。」
と言うと、母は顔をこちらへ向けた。
「おかえりなさい。ごめんなさい、全然気が付かなかったわ。変ねえ、どうしてかしら。」
首を傾げる母を見て、少し淋しくなる。
たぶんそれは、私が死んでいるからだろう。
「もうご飯だから、早く着替えてらっしゃい。」
「はあい。」
私はいつものように面倒臭そうに返事をして、トントンと二階へと上がる。
自分の部屋に入ったとき、全てがとても愛しく思えた。
使い古した勉強机も、いつも寝ている水色のベッドも、幼い頃から部屋にあるベビー箪笥も。
服を着替えて、制服をハンガーに掛ける。
なんだか、彼らにお礼がしたいと思った。
感謝を込めて、何かを捧げたいと思った。
そうだ!
私はゆっくりと歩いていってピアノの前に立つ。
蓋を開ける。
少し黄ばんだ鍵盤が顔を出す。
私はそっと指を置き、弾き始めた。
ショパンの『別れの曲』。
私はこの曲がとても好きだ。
哀愁の中の美しさと激しさが、交互に胸の奥を打つ。
途中母が、「今何時だと思ってるの!」と怒るのが聞こえたけれど、止めなかった。
今ここで止めたら、きっと後悔する。
私は心を込めて、鍵盤を叩き続けた。
終ったとき、少し息が弾んでいた。
呼吸を整えるため、深呼吸を三回。
冷たい空気が心地良い。
部屋の中を、一周ぐるりと見渡す。
そして、しっかりと頭を下げた。
今日まで本当にありがとう、と。




