上
これは、当たり前な日常を送っている私達に。
心から贈りたい物語。
上.
私は、どうやら死んだらしい。
『らしい』というのは、今自分の死体の前に浮いているのではなく、立っているからである。
現在、十月三日。午後六時二分。
約一分前、私、木村春香は、白い乗用車に跳ねられたのだ。
ふう、と小さなため息を一つした後、辺りをぐるりと見渡す。
山の中だった。
深く黒い闇が、沢山ある木々の一本一本に、しん、と潜んでいるかのようである。
どうしてこんな所へ来たのだろう。
思い出そうと、少し目線を下へと下げる。
その時だ。
キラリとした何かが、私の死体のそばに落ちているのが目に入った。
ゆっくりと近づき、それを拾い上げる。
ペンダントだった。
小さな白いガラス玉がハートの形にいくつもちりばめられており、かすかな月明かりを受け、それらが乱れた光を映し出す。
これは、今日まで付き合っていた先輩に貰ったものである。
ああ。
思い出した。
私は今日、彼にふられたのだ。
他に好きな子ができたから、と。
私はその後どうしても一人になりたかったので、ふらふらと学校の近くにあるこの山の中へと入ったのだ。
運が悪かったなあと思いながら、そのペンダントをまた地面の上に置く。
そして、はっと気が付いた。
私は今、物に触れることができたのだ。
さらに、私には影があった。
ぼんやりと、私の足のところに暗いものがくっついている。
なるほど、と思う。
死んだ、ということ以外では、生前とほとんど変わりはないようだ。
そういえば確か、ある本にこう書いてあるのを読んだことがある。
『己の亡骸が発見されるまでは、魂はあの世へ行くことができない。』
ということは、すぐ目の前に転がっている『私』が見つかるまでは、ずっとこのままでいられるのだ。
ならば、隠せばいい。
私は、本当の『私』の腕を掴んだ。
いや、掴もうとした。
しかし、どういうわけか、触れることができないのだ。
私が透けているのではない。
本当の『私』が透けているのだ。
白い壁に映し出されたスライドを掴もうとしているように、スカリスカリと通り抜けてしまうのである。
幸い、ここは山の中なので人通りはほとんどないが、やはり隠せないとなると見つかるのは時間の問題だろう。
さあ、消える前に何をしよう。
貯めてきたお小遣いを全て使って、行った事もないような高級レストランで食事でもするか。
それもいいかもしれない。
でも、何か違う気がする。
本当に、最期にするべきこと。
ぱっと、母の顔が頭に浮かぶ。
母に、会いたい。
私はくるりと向きを変え、家へ向かって走り出した。