7 ソングスペイ、記憶と思いに浸りつつ、中佐と接触、そしてそれを見る二人
ぺらぺら、と彼は手にした本を繰る。カシーリン教授の「言葉の力」だ。
そう厚い本ではない。
こういった大学の教授の書いた本にしては、明るい、優しい色の装丁と、細かすぎない文字のせいか、それは学術書というよりは、少女のためのエッセイ集と言ってもおかしくないような雰囲気がある。
実際、すぐに自分は読み終えてしまったことだし。
それに彼は、この言葉には慣れ親しんでいる。いやむしろ、この言葉自体が自然なもので、今の今までやってきた暮らしの中で使っていた言葉自体が嘘の様に思えて仕方がなく感じなくもない。
言葉というものは、いつまで経っても、その力を失わないものだ、とラーベル・ソングスペイ少尉は苦笑とともに思う。
この惑星を自分が離れてから、もう長い時間が経っている。幼い自分が、殆ど兄に横抱きにされるようにして、生まれ育った家を飛び出して以来。
目の前の光景に、意識を失って以来。
それから生きるためにと、歳の離れた兄や姉に詰め込まれた言葉に、生まれた場所の言葉は押し出されたと思っていた。だが違っていたようだ。
この惑星に足を踏み入れ、この州に入り込んだ途端、彼の口からは、するりとここの言葉が飛び出した。いや無論、それまでも、気を抜くと、その言葉は飛び出していたのだが、それは意識されることがなかった。
だが通る人々とすれ違うたびに、店の売り子と目が合うたびに、飛び出す言葉。そういうものは理屈ではないのだ。
学生のよく持つような肩掛けカバンを背負い、彼は熱心に本を読むふりをする。もうじき、約束の相手はやってくる。相手が指定したのは、この場所だった。
そこはかつて、彼が住んでいた家の前だった。
偶然だろうか、とソングスペイ少尉は思う。
彼の上司は、彼がこの惑星の出身ということは知らない筈である。書類を偽った訳ではない。彼と彼のきょうだいは、この惑星を飛び出す時に、その戸籍を抹消したのである。新しい戸籍は、全く違う言葉を話す、別の惑星だった。
だから無論、この家が彼のかつての住処だったことも。
彼はふっと壁を乗り越えて手を伸ばす木を見上げる。そこには黄色い、小さい花が満開だった。その見かけは派手ではない。むしろその花の派手なのは、香りだった。
キンモクセイは、その満開の時期、強烈な香りを辺りに漂わせる。
その香りは彼に、かつての日々を思い出させる。香りは、記憶を生々しく蘇らせるものだ。
だが今、その高い壁に続く門は閉ざされ、幾重にも鎖が巻かれている。
真っ直ぐその門から続く道の向こうにある屋敷もそうだろう。扉は閉ざされ、鍵が掛けられているか、さもなくば板を打ち付けられているだろう。
庭の木々も、手入れをされないから、無闇に伸び、またあるものは枯れ、葉をつけることもなく、乾いた木の幹だけが残っている。
だが、あの香りだけは。
キンモクセイの香りだけは、変わらずにそこに漂っているのだ。
元は白く、手入れでもされていたのではないかと思われる高い壁は、今は原色使いのペンキで、様々な扇動的な言葉や戯画があふれかえっている。そしてその強烈な色彩は、その中にある、穏やかな空間の存在を気付かせない。
この通りは、暇そうな学生が人を待つ顔をしているには、都合がいい。大学からやや離れてもいるし、だからと言って、若者の通りが少ない訳ではない。むしろ多い。
一歩足を伸ばせば、若者向けのファッションやサブカルチャー、本だの音楽だのを扱う小さな店が立ち並ぶ通りが何本かあるのだ。そして「ちょっとした広場」。
ちょっとした広場は、何かを表現したいと思い詰める、だけど金の無い学生にとっては、格好の場所である。今日も今日とて、そこには楽器をかき鳴らしたり、奇妙な動作を取る若者がたむろしている。
そもそもシェンフンは、人口の中の、学生の占める比率の高い街である。だからこそ、この都市に入り込むのに際して、彼らは学生という立場を取ったのだ。
ふと彼は眉をひそめた。この季節のかぐわしい香りに混じり、彼のよく知っているにおいが大気に混じり始める。ソングスペイ少尉は、そして少しばかり苦笑する。
「よぉ」
手を上げるでもなく、彼の上官は、声をかけた。最初にそんな格好をされた時には、とても自分のいつもの上官とは思えなかったのだが。
「どうだ?」
コルネル中佐は訊ねた。ソングスペイ少尉は、ポケットに手を突っ込み、壁にもたれたまま、まずまずですよ、と答えた。
「お前が入り込んでいるのは確か理学部だったな」
「ええ。さすがに医学群系というのはやや特殊ですから。中佐は確か社会学群でしたか」
「まあな。入り込んでいるのはどっちかといや、芸術学群だが」
「よく似合っていますよ」
「当然だ」
中佐はそう言って片方の眉を上げる。ざっざっ、と座り込み、生のギターをか
き鳴らす音が耳に飛び込んでくる。声を張り上げて、歌い出す者も居る。
「それで、どうだ?」
中佐は少尉の横の壁にもたれかかり、煙を大きく吐き出す。吸うか?と言う中佐に少尉はいいえ、と丁重に断りを入れる。
「どの方向から報告すれば良いですか?」
「まず大まかに、お前の見たところの、奴の周辺を言ってみろ」
周辺ですか、と少尉は短く硬い髪をかき回す。彼は同僚のグラーシュコと共に、付属病院のシミョーン医師の周辺に接近していた。医学群のある授業で教鞭も取っているらしく、割合よく校内にも出没しているらしい。
「派手ですね」
「派手、か?」
「はい。取り巻きが多いタイプです。現在の『取り巻き』は主に学生ですが、それ以外にもやはり多いようです。附属病院内にも、彼を中心とした動きが見えるようです」
「それは、奴が政治的な動きを見せたらついていくようなタイプか?」
「それはやや難しい所ですね」
ほう、とコルネル中佐は軽く顎を上げる。
中佐もまた少尉に言われるまでもなく、ある程度の情報は連絡員の口から聞いてもいた。
シミョーン医師は、カシーリン教授のようにその思想や方針が書かれた本がある訳ではない。
ただ、十五年前の大学の学費値上げ闘争に始まり、次々と「独立」を明言する外の州との交流、つい最近の、「学祭時の大通りの使用規制」に至るまで、実際の運動に参加し、その名前をつらねている。
そしてまた、当局との交渉に当たっているという点において、実績があることは事実だった。
ただ、あくまでそれがこの有名ではあるが狭い都市、学校に属している動きであるということではあるが。
「だから確かに彼が一声掛ければ学内のシンパは参加するとは思いますが、学内に止まるということも考えられます」
「そうだな」
そうでなくてはいけない。中佐は喫い尽くした煙草を足下に落とし、ぎり、と踵で地面になすりつける。途端にそれまで煙草のにおいにかき消されていたキンモクセイの匂いが押し寄せてくる。
「…もの凄い匂いだな」
「キンモクセイですか」
「そうなのか?」
「あ、上に…」
ふうん、と中佐はうなづく。何の興味も示していないように少尉の目には映る。
「でかい家だな」
不意に言われて少尉はえ、と中佐の方を向く。
「家、ですか?」
「そこの門から見えた。ずいぶんと金持ちの家だったようだな」
「ああ、そうですか?」
「気付かなかったのか?」
ええ、と少尉はうなづく。うなづいて、みせた。
*
「見たか?」
イリヤは訊ねた。
「見た」
ゾーヤはうなづいた。
「君に言われた通りだ。あの廃屋敷の前に、確かに居た」
そして彼女は厳しい顔つきになり、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
「ちょっとした広場」から一歩引っ込んだ通りの、百貨店の段差にべったりと腰を下ろし、学内新聞の編集長とその友人は数十分前から話し込んでいた。
当初は、世間話だった。
「コルネル君か? イリヤ、君は彼が怪しいというのか?」
彼女は灰色の瞳を動かすと、彼女の友人に訊ねる。友人は迷うことなくうなづく。
「確かに外見は怪しいが」
「中身も充分怪しいと思うけどな? 先日ヴェラの妹がカシーリン教授拉致の現場に居合わせただろ? その時彼女と一緒に居たのが、あのコルネル君、の友人らしいな」
「ヴェラはそんなことは言っていなかったが。君は聞いたのか? イリヤ」
いや、と彼は首を横に振る。
「ヴェラはああ見えて、妹のことになると口が固い。それは昔からそうだ」
「君は昔から彼女を知っているからな」
「ああよく知っている。彼女達がここに昔住んでいた頃から知っている」
それは初耳だ、とゾーヤはほんの微かに笑みを浮かべた。
「君はそんなこと私に言ったことはないではないか」
「君に特別、言う程の事柄ではないと思ったからさ。それともゾーヤ、君は俺に言って欲しかったとでも言うか?」
「ふん」
ゾーヤは鼻を鳴らしながら、すっきりとした眉を片方上げた。
「私がそういうことを言わないと知って言う。君のそういうところが私は嫌いだ」
「だが全般的に見れば、君は俺のことを好きだろう?」
「ふん」
再び彼女は鼻を鳴らす。
「あいにくな。どうにもこうにも自分がこう趣味が悪いのかと唖然とする」
「散々な言い方だな」
くくく、とイリヤは笑う。そんな時、イリヤの眼鏡の下の瞳は、宝の地図を見付けた子供のようにひらめく。
事件も革命も、この男にとっては同じなのだ、とゾーヤは知っている。そこが嫌なのだが、そこが好きである自分も知っている。理性的であれ、と律する自分の、唯一律しきれない部分だった。
感情は、理性では制御しきれない。
「吸うか?」
彼は彼女に細い煙草を差し出した。もらおう、と彼女はすっと細い指で一本取り出す。
「ヴェラは私が喫煙するのを嫌うからな。君と居る時くらいしか気楽には喫えない」
「よく我慢していると思うけどな?」
「ヴェラはああいうひとだ。彼女はとても正しいことを言う。だから私は気に入っている。彼女が妥協して声の一つも上げない事態など、私は好かない」
同じ煙の匂いが辺りに漂う。百貨店の高い壁の上に見える空が青い。高い秋空。
「まあ尤も、ヴェラがああなのは、妹のせいでもあるんだがな」
煙をぱあ、と吐き出しながらイリヤはやや呆れたように言う。
「また妹か。全く、羨ましい妹だ。ジーナと言ったな」
「君でさえそう思うか?」
「思う。女の私から見ても、ヴェラの中身を独占している相手というのは何やら羨まれる。まあそういう時、相手は気付かないのだがな」
「それを俺の前で言う訳?」
彼は苦笑を浮かべる。
「君は別だ。君は男で、あいにくどうして私は君が好きなのか自分でも理解できん」
そういうことを真顔で言うなよ、と編集長は言いたい気持ちはあったが、苦笑と共に押しとどめる。何せゾーヤはそう言う時にも、表情は殆ど変えないのだ。
「そもそも判らぬと言えば、君がどうして私を好きなのかにしても、君は私にまだ上手く説明してないぞ」
「そういうのは理屈ではないんじゃない?」
「言葉を扱う商売につきたい奴が、言う台詞じゃないな」
いえいえ、と編集長は手を振る。
「そういう部分もある、と知ってこその、言葉の力なんだよ」
「それはカシーリン教授の引用だろう?」
ちぇ、知ってるな、と彼は肩をすくめた。
「それに、説明と言えばイリヤ、わざわざ学内でなく私をここに連れ出したのは、それだけのことか?」
「いや」
彼はあごをしゃくる。くわえ煙草のまま、ゾーヤは彼の視線をたどった。
「…『絢爛の壁』がどうした?」
「壁はどうでもいい。ゾーヤそこにもたれてる奴を見てみな」
彼女は目を凝らす。そこには自分達と同じくらいの年頃の男が壁の外にまで身を乗り出す枝の下で、本を読んでいた。
「何だ? あれがどうした?」
「あれが、ラーベル君、なんだけどね」
「ラーベル。と言うと、先日君が、ヴェラに言っていた『幼なじみ』のことか?」
ああ、と彼はうなづく。
「…理学群で見かけたんだけどね。学生証には、ラーベル・ソングスペイという名だった」
「妙な名だな。ここの者ではないような」
「だが一応ここの市民ということになっている。ただし、彼を知っている者が、俺の知っている関係にはいない」
「ということは?」
ゾーヤは身を乗り出す。
「彼は、当局のスパイじゃないか、ということだ」
「…特高か?」
「かもしれないし、別口かもしれない。そもそも何を目的で入り込んでいるのかも、なかなか特定できない」
「ただ、『入り込んで』いる以上…」
「我々の敵である可能性は高い、ということだ」
学内新聞編集長の言葉に、彼女はうなづいた。
「やはり、学祭に向けての計画は、漏れているということなんだろうか?」
「表向きは、だな。裏はどうだろうな」
「裏か。裏裏裏。我々の生活というのは一体全体どうしてこうなのだろうな?」
ゾーヤは肩をすくめる。
「昔はそこまで徹底してはいなかった筈なんだ。何処からこの州はおかしくなったんだ? 私達が子供の頃はどうだ?テレビジョンはもっと楽しい番組をしていた筈だし、音楽も流れていたはずだ」
ちら、と彼女は広場で声を張り上げる若者の姿に目を止める。
「それがどうだ。今ではこういう生の場でしか、見ることができない。できないからここへやってくる。たまる。それがある一定の分量になると当局に摘発される。繰り返しだ」
「ああ」
編集長もまた、真顔になりうなづく。
「問題は、この現状が、慣れになってしまうことなんだ。そうだゾーヤ、確かに俺達がガキの頃、もっとこの州は自由があった筈なんだ。無論今でも不自由はしていない。実際他の惑星に比べ、ここは裕福だと聞く。餓えることはない。だけど、何かが、おかしいんだ」
「何が、だと君は思うんだ?編集長」
「どうして、この州だけが、帝国の命令をそのまま受け入れているのか。それとも帝国の命令は、そのまま届いているのかどうか。司政官が独裁したいがためだけに、帝国というバックを持ちたいだけなのか…帝国自体は、現在のこの状況よりマシな施政をする気があるのか」
「情報通ではなかったのか? 編集長」
うるさいな、とイリヤは彼女の肩を引き寄せる。
「俺だって、無闇やたらに怒鳴っている訳じゃないんだよ」
「別にそんなことは言ってはいないが」
彼女はそう言うと、バランスを崩してイリヤの胸に倒れ込んだ。その途端、吹き込む風に乗って、キンモクセイの花の香りがした。彼女の視線が、「絢爛の壁」に向く。
「あ」
どうした? と彼は彼女に訊ねた。あれ、と彼女は指を立てる。
「見覚えのある人物が、いるぞ」
どれ、と彼もまた彼女の指の先をたどる。…真っ赤な髪が、視界に入った。
「コルネル君か?」
「…だと、思う。あんな派手な髪、あんな悪趣味な配色を私は知らない」
「…何しに来たんだろう?…あれ?」
彼らの共通の知り合いは、何げなく「絢爛の壁」にもたれかかる。ただし、その横には、ラーベル・ソングスペイが居た。
「…何か話しているようだけど」
ソングスペイはそれまで読んでいた本を閉じていた。声が聞こえる訳ではないが、何かを話しているようなのは、見ていれば判る。
「知り合いなのだろうか? コルネル君は」
「だがこの間は、知らない様子だった。名を知らない知り合いという可能性もあるな」
「知り合いだったらどうだろう?」
「知り合いなのは、構わない。問題は、知り合いであるということを隠している場合だ」