6 末端工作員を操る者、ジーナの記憶の欠損
常夜灯の光の下、学生達の身体がぐったりと転がっている。
ここにおびき出したのは、もう一つ理由があった。案外ここは、この時間に上の道を通る者には気付かれにくいのだ。
死角という程ではないが、その距離が意外にあるので、何をやっているのか、判りにくいのである。
ぱんぱん、と服のほこりを払いながら、キムはふう、と息をついた。
「終わったよ」
「ふふん。案外時間がかかったじゃねえの」
「手加減してたんだよ、一応」
まあ仕方ないな、と5センチ程伸ばした親指の爪をしまいながら中佐は苦笑いする。学生相手に自分が本気を出したら、事態がはっきりしない中ではまずいことにもなりかねない。
「さて」
キムは乱れた髪をざっと払うと、地面と仲良くなっている代表の襟を左手でぐっと掴んで上半身をずり上げた。
そして空いた方の手で、ぱんぱん、と大きくその頬をはたく。代表は顔を歪めながら、目を開いた。その目には、この一見穏やかな表情をしている目の前の相手に対する脅えが浮かんでいる。
「誰の命令で動いているわけ?」
先ほどと同じ、のんびりした口調。
「し、知らない…」
「知らない訳ないだろ? ねえ」
キムはそう言って、ポケットから小さなものを取り出して、それを相手の手の甲に当てた。途端に相手はぎゃあ、と鋭い声を上げた。
「言え。お前はどの『上』の命令を受けた?」
なるほど、と中佐はその様子を見ながら思う。別の権限という奴か。
組織の人間は、入団する時に、その手に組織員同士の識別のための精密機械を埋め込まれている。組織内での地位によってその接触した際の認識信号は変わってくるらしいが、どうやらそれを利用したものらしい。それを知っているということ、そしてそれに対して痛撃を加えられるということは。
「俺が誰だか判るか?」
「…も、申し訳ございません」
キムは代表の男を地面に落とした。男はまだぶるぶると震えながらうつむいている。顔を上げることもできないらしい。
そしてのんびりとした声が、重ねて問う。
「言え。誰がお前等にそんなことを命じた? 直接の『上』は誰だ?」
「…自分は、名前は知りません…」
だろうな、と中佐は妙にくつろいだ気分でこの様子を眺めている。
「それは当然だよな?誰がわざわざ本当の名など言う? 俺が聞いているのは、認識信号だよ。何回それはお前の手のひらで鳴った?」
「さ、三回です。ですから…」
「なるほどな。それではお前らは逆らえないだろうな」
自分の持つそれとは、別の体系がそこにあることは中佐も知っている。おそらくこの目の前で平身低頭している相手は、二回か一回、本当に末端の部類に入るのだろう。
信号は、この、何処の誰がいつどうして「同志」であるのか判らない状況の中で、唯一、そして絶対な組織内での階級を示すものだった。
組織員はそれには決して逆らえない。
キムはもういい、と吐き捨てる様に言うと、立ち上がる様に命じた。
「行け。適当に散らばり、学生をやっていればいい。やがてその時が起きた時に、お前等はお前等にふさわしい程度に、騒乱を起こすのだ。それがお前等の持つ役割だ。これは俺の下す命令だ」
つまりはその「上」が何を言っても聞く必要はない、ということか、と中佐は解釈する。
「下手な動きをしたら今度はどうなるは判っているな?」
「は、はい…」
アドレナリンの上昇。恐怖が全身の汗を吹き出させる臭い。
ふん、と中佐はグラウンドから背を向けた。キムもまた、その後を追いかけるように走ってくる。
掴まえた、と言うかのように、キムは中佐の肩を掴まえる。その手を外しながら、中佐はにやりと笑った。
「この悪人め」
「あんた程じゃないよ」
道の上に戻った頃には、吹く風のせいか、落ち葉の位置が先ほどとずいぶんと変わっていた。P棟付近のキンモクセイの香りが、ぼんやりと漂ってくる。
「それにしても、ソングスペイは焦っているな」
「奴だろうね」
二人の間で、既に小物を送った相手は名指しとなっていた。
「認識信号は、感知したのか?」
「まあね。だけど軍の中にも、末端はちまちまと居るから、信号イクォール即今回のターゲットと思うことはできないよね」
「そもそも何で奴は、そんなややこしいことをしようとしている?」
知りたい? とキムは首を傾げる。
「情報は多い方がいいだろう?」
そうだね、と今度はうなづいた。
*
「ジーナっ!!」
ぼんやりと目を開く妹に、ポットを手にしたまま、ヴェラはほぉ、と息をついた。
「…ヴェラ? 何で…」
「ねーさんって言いなさいよっ!… 心配したんだから」
「何?」
ジナイーダはゆるゆると手を伸ばし、視線は天井のまま、顔にかかる髪の毛をかき上げた。あの天井の染みには見覚えがある。自分の部屋だ。
…何であたしは自分の部屋に居るんだろう?
そしてそう思った時、彼女は勢いよく飛び起きた。
だがまだ薬の効いている身体は、そう簡単には調子が戻らない。起きたと思ったら、途端に頭の芯が揺らぎ、身体がふわっと浮くような感覚がある。そしてばふ、と再び彼女はベッドに倒れ込んだ。
ヴェラはポットとカップを勢いよく置くと、妹のベッドに駆け寄る。
「何やってんのよ! あんたまだ薬が効いてるんだから」
「薬って… 何、何があったっていうの?」
「あたしが聞きたいわよこの馬鹿!」
「馬鹿とは何よ!」
叫んで、途端に頭にずき、と走る痛みにジナイーダは顔をしかめる。
「な、何よお、これ…」
「だから、薬… あんた、カシーリン教授のとこであったこと、覚えてないの?」
「教授のとこで?」
「キム君だっけ? 彼とその友達があんたをここまで持ってきてくれたんだからね」
「キム君が?」
途端にジナイーダは自分の頬が熱くなるのを感じる。
「どういう友達かはあたしはどうでもいいけど、彼もあの場には倒れていたのよ? 何があったの? あんた等と、教授と」
「…別に… ただあたしは、キム君が教授の本に興味があるから、一度ゼミに連れてってって言うから…」
「ゼミに? 彼はあんたが教授のゼミに居るって知ってたの?」
ジナイーダはうなづいた。間違いではない。
「だって彼、同じ授業取っていたわ。文学部よ」
「…ああ、そうね」
ヴェラは口ごもる。どうしたと言うのだろう、とジナイーダは何やら苛立つ自分に気付く。一体最近のヴェラは何を言いたいのかさっぱり判らない。
そういえば、と彼女は頭の中をよぎる長い髪の彼の姿から、一つの記憶を引っぱり出す。確か彼と最初に出会ったのは。ジナイーダはぱっと顔を上げて、姉の顔に視線を移した。
「…ねえヴェラ、こないだアナタ、何言いかけたのよ」
「何って… 何よ」
「ほら、こないだあたしを大階段で待たせた時」
「…ああ、あの時ね」
「ヴェラあたしに、何か誰かが戻って来てるって言ったでしょ?」
「…言ったわよ」
「だから、あの時、何を言いたかったのよ、あたしに」
ふう、とヴェラはため息をつく。
そして勉強机から椅子をずるずると持ち出すと、ベッド脇に腰掛ける。ジナイーダは何やら姉の様子がやはり奇妙であることに気付く。
そしてぎく、と心臓が飛び上がるのを感じる。姉は自分の手をぎゅっと握りしめ、うつむいていた。
「…ヴェラ、…ねえ」
「ねーさんって呼びなさいってば。同じ学年だろーが姉は姉よ」
「でもヴェラはヴェラよ」
「…この馬鹿。…ラーベルが帰ってきてるのよ」
「それは聞いたわ」
「だけどあんたは、覚えていなかったじゃないの」
「何を?」
ヴェラは顔を上げる。自分とよく似た、だけど自分よりずっと強い瞳が目の前にあるのをジナイーダは感じる。
「…じゃああんた、ラーベルがどうして戻ってきたのか判らない?」
戻ってきた。ということは、少なくとも、ここに居た訳ではないということだ。
「何処かに住んでいたの? 引っ越して…」
確かに自分達も、引っ越したのだ。あのキンモクセイの香りの漂う家から、バウナンに。
引っ越した。
ではそこはバウナンではない。
「ちょっと待って…」
「ジーナ」
何かが、隠れている。
「ねえジーナ。あたし達は、あのキンモクセイの家は、何処にあったのか覚えていないの? あれは、シェンフンよ? ここなのよ?」
ジナイーダは目を大きく見開いた。
そう言えば、そうだ。
キンモクセイがこの時期に咲くのは、この辺りなのだ。彼女達の住んでいたバウナンは、この中心の都市よりずっと北の都市だ。花の咲く時期も確かに違う。
「あたし達は、あの頃、シェンフンの中心街よりはやや外れた町に住んでいたわ。そして隣は、町一番の実業家のリャズコウさんの家だったわ」
「…」
「だけどリャズコウさんは、ある日特高に捕まって、それからすぐに、あのキンモクセイの家は閉ざされて、家族が何処に行ったのかも知れなくなった。ラーベルもそうよ。彼は歳の離れたきょうだいに連れられて、この州から… いえ、かなり取り急いで、この惑星から出て行った、と噂で聞いたわ」
「…何それ」
ジナイーダはつぶやく。そんな話、初耳だった。
「そしてあんたは何もそのことについては覚えていないのよ」
「覚えているいないも… あたしそんなの、初耳よ!」
彼女は姉に詰め寄る。そうだ。そんな話、聞いたことがない。だが姉は首を横に振った。
「あんたは知ってる筈よ。あの頃何も見ていなかった訳じゃないじゃない。あたしとずっと一緒に居たんだから。だけどあんたはバウナンに越してから、ずっとその事を口に出さなかった。あたしはてっきり良くない思い出だから、口にしないようにしていたのかと思った。だけど違う。違ったわよ。あんたは、覚えてなかったのよ」
「な…」
ジナイーダは首を大きく振る。そして同じ言葉を自分の中で繰り返す。そんな話、聞いたことが無い!
「…でもそのことを今あれこれ言っても仕方ないよね。だけど、そのラーベルが、戻ってきてるのよ? このシェンワンに」
「…だって、特高に親が捕らえられたからって、彼が戻ってきてよくないってことはないでしょう?」
「あんたは何も知らないのよ、ジーナ! 彼はそれに、リャズコウって名で戻ってきてるんじゃないのよ? リャズコウって名を隠してるのよ? それでも帰ってくるなんて…」
そしてまたしっかりと手を握る。気のせいか、姉の手はやや震えているようだった。
「…そもそも何でリャズコウさんが捕まったのか、あんたは覚えてないんだから…」