5 カシーリン教授の消失、そして二人が待ち伏せさせる
扉から、手がのぞいていた。
わずかに開いた扉からは灯りは漏れていない。中の部屋は灯りがついていないのか。
一度、ヴェラの方を向くと、彼女はうなづいた。やはりそこが、カシーリン教授の部屋らしい。
中佐は少しばかり足を速めた。足音はわざわざ消しはしない。したところで、ヴェラが居るのだから、意味がない。
腕に後1メートル、といったところで、彼はそれが女のものであることに気付いた。そしてそれが全く動いていない訳ではないことも。
彼はそこで初めて足音をひそめるフリをし、そっと扉に手をかけた。そして次の瞬間、扉を一気に開いた。
部屋の中に、廊下の微かな光が飛び込む。中佐は波長を切り替える。途端に視界は鮮明なものになる。足下には女、そして中には。
「…キム!」
彼は思わず口の中でその名を呼んでいた。
ヴェラにうなづいて見せ、戸口で倒れている… おそらくはこれが彼女の妹なのだろう… 女は彼女に任せ、彼は傍目には暗い室内に入っていく。
ぐるりと見渡すと、倒れている同僚以外の姿はどうやら無いようである。
…姿が無い?
照明のスイッチを探し、彼は灯りを点ける。
「…ひでえもんだ」
目を丸くしてつぶやく。
窓が開き、カーテンがばたばたと揺れ、書類が散乱している。
その直前まで、ここではお茶を呑みながらの会話が繰り広げられていたのだろう、ティーカップが転がり、中身がテーブルから、床にまで広がっていた。クッキーの袋からこぼれたかけらが、踏みつぶされたのか、粉々に砕かれている。
そしてその散乱した中に、「友人」が転がっていた。
中佐は「友人」を抱き起こすと、とりあえず生きてることを確認してから、軽く揺さぶった。
簡単な衝撃に、簡単にキムは目を覚ます。
「…あれあんた、何でここに居るの?」
「遅いから来てみれば…」
言いかけながら、彼はちら、と視線を横に移し、その向こう側に居るヴェラの存在を同僚に示した。ああ、とキムもうなづく。
「手を離してよ。大丈夫だから」
ああ、と中佐は自分が相手の首を抱え込んでいたことに気付く。ざ、とさらさらとした長い髪の毛が手のひらからざらりとすり抜けていく。
ふ、と何かが一瞬、目の端をかすめた。
何か、見覚えのあるようなものの様な気がした。だがそれが何であるのか、彼には思い出せなかった。
「そっちは大丈夫か?」
中佐はヴェラに問いかける。ええ、とヴェラはうなづく。どうやら彼女の妹は気を失っているだけらしい。
「一体何なの? この様子は…」
ヴェラは気丈にも、妹の様子を確かめると、次には部屋の状況を確かめたらしい。
「…それに、カシーリン教授は何処に居るの? この部屋の主は!」
はっきりとした声が、部屋中に響く。その声はどうやら開いた扉から、廊下にも伝わったらしい。他の部屋の扉が開く音を、中佐の耳は聞き取った。
「ねえあなた!」
ヴェラは妹を抱えて座ったまま、キムの方に向き直る。
「あなたここに居たんでしょ? 何があったの?」
キムはふらつく頭を押さえるような格好で、ヴェラの方を向いた。その間に中佐は部屋の中の様子をもう少しよく眺める。
「何があった… って」
「だって何があったって聞くのが当然じゃない! 何よこの部屋の中! ジーナはどうして倒れてたのよ!」
本当に響く声だ、と中佐はやや眉をひそめる。彼の耳には、あちこちの扉からばたばたと出てくる足音が飛び込んでくる。
「…教授が捕まったんだよ」
キムは疲れたような声を出してみせる。ヴェラの太くて形のいい眉が両方つり上がった。
「教授が捕まった?」
そして、その声とともに、足音は大きくなる。
「そうだよ。俺等が教授のところに質問に来ていた時に、奴ら、やって来たんだ」
「奴等とは… 誰なんだ? 君… 公安か?」
「…公安関係かどうかは判らないよ。だけど、何人かで、いきなり入り込んできて、彼女を眠らせて、俺を気絶させて… 何か気を失いばなに、あちこちでがちゃがちゃ壊れる音がしたけど…」
「じゃこの子」
ヴェラは妹をぎゅ、と抱きしめる。
「何か布を口塞いでいたから、薬品じゃないかな… 俺の方がひどいよ。まともに腹にくらってしまったし…」
そう言いながらキムは、自分の腹を撫でさする。中佐はその様子を見ながら、ポケットから煙草を取り出した。だがライターがなかなか見つからない。
立ち上がり、教授の机のまわりを軽く物色する。ああこれだ、と彼は机の上にあった小型のライターを手に取る。…取り… 火を点けると、そのままさりげなくポケットにと滑り込ませた。
「…しかし誰であれ、カシーリン教授が捕らわれたというのは…」
男子学生の一人がつぶやく。
「誰であれというのは問題があるが」
「誰であれ、ですよ、コベル助教授。公安であれ、反体制派であるにせよ、今彼を拘束するというのは…」
そこまで言った時、コベル助教授と呼ばれた四十くらいの男は、首を横に振った。聞かれたくない話か、と中佐は即座に受け取る。
「とりあえず、俺ら帰ってもいいですかね。こいつも何か擦り傷切り傷してるし、そこの子はちゃんとベッドで眠らせてやった方がいいんじゃないですかね?」
中佐はそう提案する。
「後でまた事情を聞くかもしれないから、君達の学群学部学科と学年、それに名前を」
「…芸術学群美術学部、映像美術学科2年の、ヴェラ・ウーモヴァと、人文学部文学部州内文学学科2年のジナイーダ・ウーモヴァよ」
「あ、あなたヴェラさんなんですか?」
男子学生の一人が、彼女の名に反応する。
「僕前の舞台見ました。貴女の演技はとても良かったです」
「ありがとう」
ヴェラはにっこりと営業用の笑いを作る。だがそれは一瞬だった。
「そう。だから用があるならあたしを訪ねればいいのよ。コルネル君、それにお友達さん、行きましょ、手伝って!」
ヴェラは女優の声で言い放つと、まだぐったりしている妹を持ち上げようとする。中佐とキムは慌てて近づく。貸して、とキムは姉の手からジナイーダを持ち上げた。
ヴェラはやや不審な目を向けたが、自分では持ち上がらないのはどうしようもない事実なので、大人しくこの自分の知らない男の行動に頼ることにした。
「そっと持ってよ」
「はいはい」
キムはいつもの笑いを浮かべて学生や助教授助手、の群の中を抜けていく。中佐もまた、その後に続いた。
再びエレベーターに乗り、扉が閉まったと同時に、ヴェラは口を開いた。
「…君は誰? 妹とどういう関係?」
「俺の友達だ、って言ったでしょ?」
キムに答えさせる前に、中佐は口をはさんだ。
「文学部の、最近お友達になったんだ。よろしくおねーさん」
そしてまたにっこりと笑う。まあ見事なもんだ、と中佐は思う。確かにこの笑いを見せられたら、普通の女子学生は、どうしていいか困るだろう。
幾つもの外の階段を降りて、また大通りに出る。重くない? と気をつかうヴェラにキムは大丈夫、とその都度答える。
色を変えつつある木々を横目に見ながら、中佐は無言で煙草をふかす。手を突っ込んだポケットには、あの卓上にあったライターが入っている。
寮の入り口まで来ると、その日の当番だったのだろうか、入り口の電話の近くで番をしていた女子学生が、どうしたの、と寮管室から飛びだしてきた。
「何でもないの。でもちょっと手を貸して」
ヴェラはキムに下ろしてちょうだい、と頼んだ。当番が慌てて椅子を部屋から持ち出してくる。キムはそっと彼女をその上に下ろした。だが目覚める気配はない。
よっぽど強い薬だったのか? と中佐は思う。
寮内放送がかかり、同じ階に住む姉妹の友人達がどやどやとやってきた。ぐったりとしたジナイーダと、二人の珍しい格好をした男に、女子学生の視線は集まる。中佐は連絡員の背中をつつくと、肩をすくめた。
「じゃおねーさん、俺達もう行くから」
「あ、ありがとう… お茶の一杯でも」
「そぉんなヒマあったら、妹の世話してやんな。何か強い薬のようだぜ?」
そして中佐はひらひら、と手を上げると扉を開けた。じゃあね、とにっこり笑ってキムもまたその後を追う。
*
「…それにしても、夜の紅葉ってのもいいもんだねえ」
とキムは言った。寮から大通りに向かう坂道の両側には、色を変える大きな葉の木々が立つ。
「あ? 俺は秋は好きじゃないと言ったろ」
「俺は好きだもん。色がある季節ってのはいいよね」
それだけ見ればな、と中佐もつられるように、街灯の碧い光に透けて見える木々の葉を眺める。
「そう言えば何か前、冬は嫌いだって言っていたな」
「ああ、覚えていてくれたの? それはそれは」
見なくても判る、と中佐は思う。この連絡員はいつもの笑いを浮かべているはずだ。
「俺は別に嫌いじゃないがな」
「そぉ? だって色も何もない世界でさ」
「雪でも多かったのか? お前の居たところは」
「雪ねえ。多かったよ。うん。灰色の空でさ。で、煙だけが真っ黒なんだ。そんな中で眠ったら、もう起きられないよね」
中佐はくわえていた煙草をその場に落とし、踵でぎゅっと踏みつぶす。立ち止まる彼をキムは数歩追い抜く。
「でもそれだけだよ」
ふうん、と中佐はうなづく。そして再び歩き出すと、何気ない調子で話しかけた。
「それで、お前、教授を何処に隠したんだ?」
「教授?」
「カシーリン教授を、だ」
「…ああ」
のんびりと歩く速度は変わらない。ゆるく編んだ長い髪が、やや冷えてきた風にざらりと揺れた。
「すぐ気付いたんだ」
「ああ。ライターに、刻みがあった。…教授は、末端の一人なんだな?」
うん、とキムはうなづく。
「あんたが単独行動の自由を持ってるのと同じ程度、俺は俺で、末端を動かす力をMからもらっているからね。ちょっとばかり、今は教授を隠しておきたかった」
「何で」
「教授には首班にはついてもらいたくないからね」
「ふん。顔には、別のを立てるのが、盟主の狙いか?」
「ここでは、たぶん、最初の首班は殺されるんだよ」
あっさりとキムは言った。それは彼にトマトジュースを放る時の口調と全く変わらないものだった。
「やけに断言するな」
「筋書きだよ。我らが盟主の。とりあえず騒ぎはそろそろ起こさなくてはならないね。だけど、ここでカシーリンを立てる訳にはいかない。できれば、ブラーヴィンかシミョーンにその役は当てたいところだよ。…そうできれば、シミョーンの方がいい」
「なるほど。ついでにこちらの逆スパイも割り出せたら一石二鳥という訳という訳だな。だがキム、二兎を追う者は… ってのは知ってるか?」
「知ってるさ」
「知っていて何でそうする?」
「それがMの命令だからさ。俺はそれを如何に効率よく遂行するか、ということが問題なんだもん」
そして、中佐の耳には、言外にあんたもそうだろう、という言葉が聞こえるような気がした。
「…あんたの言いたいことは判るよ。何でカシーリンなのか、ってことだろ?」
ああ、と中佐はうなづいた。いつの間にか坂は下りになり、もうそこに大通りが見えている。
「末端は末端だけどね、一応カシーリンは、我々の組織の内容にはきちんと踏み込んでいるらしいよ。彼の著作はそうだね。言い換えれば、結構うちのやり方や行動目標なんかを踏まえて書いてる。『放送の力』なんてその最たる例だ。だから発禁処分になる。…そのあたりはかなり馬鹿だね。我らが組織の一員としては」
「放送の力を判っているくせに、活用しようとしない?」
「そ。彼はその意味では怠慢だ」
なるほどな、と中佐は内心うなづく。こいつは思った以上にくわせ者だ。見た目と中身にずいぶんなずれが存在している。
「奴には、一度軍に破れるここの連中を、彼のよく知っている手段で再起させるという任務をあらためて指示した。俺は連絡員だからね。そういう権限はあるの」
「なるほど。俺はてっきりお前もMの銃かと思っていた」
足取りが止まる。
「何だ?」
中佐は訊ねた。
「銃で、ありたかったんだけどね」
「あれば良かったじゃないか。それともMがそれを許さなかったとでもいうのか?」
「Mの銃は、あんただ。俺はあんた程タフじゃないから、その役にはつけない。俺がどれだけ望んでも、それはできないんだ、ってMは言ったよ」
中佐は黙って、その金色の目を細めた。
「…あれだけの使い手なのに、か?」
「それとは別問題だよ。俺はあんた程タフじゃない。だから、銃であり続けることはできない」
どういう意味だろう、と中佐は思う。時々この連絡員の言葉は暗号めく。
何かが、隠れている。
それは判るのだ。一番大切なキーワードさえ判れば、全部の謎の解けるパズル。そんな印象が、この目の前の連絡員にはあるのだ。
さっき見えたのは、一体何だったのだろう?
だが中佐は、そこで見てやろうという下手な気は起こさなかった。彼はつぶやく。
「…どうやらそれどころじゃなさそうだな」
中佐はぐるりと辺りを見渡した。坂の終わりは、外からの車が入ってくる道と、大通りとの交差点である。坂の上からはらはらと風に落ちた色とりどりの葉の吹き溜まりのようなその場所にも、明るく常夜灯が輝いている。
ちら、とキムは中佐の方を見てにや、と笑った。微かに中佐は肩をすくめる。
彼らの左下には正課の運動用のコートがあった。
ふ、とキムの長い三つ編みが大きく上下に揺れた。
その姿は瞬く間に、そのコートへと降りていく階段へと動いている。それを追うようにして、中佐も駆け出した。
坂の脇の林がざ、と動く。中佐は降りかけていた階段を一気に飛び降りた。
十人はいないな、と彼は降りてくる足音に耳を傾ける。中佐は連絡員にどうする? と訊ねた。
「相手によるね。だけど予想はつく?」
「いや」
実際、考えられる選択肢は色々あるのだ。それにより、戦闘方法を変えなくてはならない。
無論一番簡単なのは、相手が自分達に明らかな殺意を持っている場合だった。ならば殺してしまえばいい。簡単なことだ。だが、そうでないとやや問題がある。とりあえずは見極めなくてはならない。
グラウンドの真ん中に誘い込んだのは、理由があった。このだだっ広い場所には、隠れる所が無い。道の上に点々と立つ常夜灯が、ナイトゲームの照明のように、この広い運動場に、隠れる所を無くしている。
瞬く間に、「十人は居ない」人数が、彼らを取り囲んだ。学生だな、と中佐は冷静に判断する。取り囲む様子はなかなか統制が取れているが、その体勢は、あくまで素人のそれだ。
「…何のつもりだよ?」
キムもまた、ポケットに手を突っ込んだまま、ぐるりとその囲みを眺めた。常夜灯に対して逆光のため、相手の顔は見えない。だが、少なくとも体育会系ではないな、と中佐は判断した。
筋肉のつき方が違うんだよな。
尤も自分やキムにしたところで、一見したところ、そういうものとは無関係であるように見えることは知っている。だからこそ、相手に油断が生まれることも。
「…お前等はカシーリン教授が誘拐された時に、その場に居たな?」
「その場に居合わせたのはこいつ。俺は後で来ただけよ」
「そうそう。居たのは俺よ俺」
「どっちだっていい。お前等は、教授の居場所に心当たりがあるはずだ」
それでも代表が喋っているあたりが、何やらこれが団体行動であることを思わせる。こういう団体行動は嫌だね、と中佐は思う。
軍隊といい、反帝国組織といい、大規模な団体に属している彼としては、なかなかにその立場を否定したような考えだが、嘘ではない。
「心当たりはないよ」
キムは答える。嘘をつけ、と集団の一人は続ける。のんびりとこちら側が答えれば答える程、相手は苛立ってくるようだった。
代表は、やれ、と自分以外の誰かに命じたようだった。途端に、代表から二人づつおいた、やや大柄な男達が、両側から彼らを羽交い締めにしようとする。
…しようとした、はずだった。
ぱん、と大きな音が、だだっ広いグラウンドに響いた。
次の瞬間、キムの後ろに、一人の学生が転がっていた。おお、と低い声が周囲に広がる。
中佐もまた、自分の側に、軽く肘鉄を食らわせたらしい。キムの動きに目を取られていた隙に、もう一人学生が、グラウンドと仲良くなっていた。
「力づくでやろうっていうの?」
キムはそれでもあくまでのんびりとした声で訊ねる。
「だったらさっさとやってくんない? あいにく俺はタフじゃないのよ」
あの基地で、軍警の猛者を十人抜きした男は、筋肉質とは無縁な学生達に言い放つ。中佐はどうする?と無言で訊ねる。連絡員はにこっと笑って応えた。