2 上の姉と派手な道化師、そして学生下宿での密談
部室の扉を開けると赤い髪が視界に入ったので、彼女は思わずぽかんと口を開けた。音に反応してこちらを向いた相手と、思わず目線が合う。
金色の瞳。
そして彼女の口からとりあえず出たのは、こんな言葉だった。
「…禁煙よここは」
ヴェラはそう言ってから大きく眉を寄せた。
「何処にもそんなこと書いてないがな?」
男は口の端から煙を漏らしながらくくく、と笑う。
この部室は、新校舎が立つ前は油絵専攻のアトリエだった場所だけに、入り込む陽の光の量は多い。この時間、東日に、男の髪はいっそう鮮やかに赤く見える。
「書いてあるわよ。それが読めない?」
そしてまた、こちらを向く相手の、見慣れない金色の瞳にも内心どぎまぎしながら、彼女は男の背後を指さす。
見慣れない。そんな瞳、彼女は今まで見たことがないのだ。猫のようだ、と一瞬思い、次の瞬間、猫は猫でも、絶対可愛らしい猫ではないわ、もっと馬鹿でかい猫だわ、と思い直す。
そんな彼女の思いはともかく、あらら、と男は自分の背中にある掲示物を振り返ると、次にふうん、という表情をし、肩をすくめた。
そして一度大きく煙を吸いこむと吸い殻を床に落とし、ぎゅ、と踵で潰す。男は顔と口元をひゅっと上げると、低くはない、微妙に響く声で彼女に話しかけた。
「悪かったねえ。てっきり俺はこいつは飾りかと思ったんだがなあ」
「飾りじゃないわよ」
彼女は腕を前で組むと、内心の動揺をその腕で押し隠して、つかつかと男の前まで歩み寄る。
男は手の甲で自分の背後の張り紙を叩く。そこにはラテン・アルファベットで禁煙(NO SMOKING)と書かれている。
「だってここの公用語じゃないしねえ。だったら何か意匠科の奴が作ったロゴタイプかなとか思うけどな?」
う、と彼女は思う。確かにそれは言えてはいる。何故ならここの公用語はキリール・アルファベットで書かれているのだから。
形は似ていても、AはAではなくAであり、CはCでもCでもなくCなのだ。
だが痛いところを点かれたからとて、素直にああそうですかと言えないのが彼女の性格である。
「かぶれている奴が多いって、そう言いたいの?」
外の文化に、とヴェラは含みを入れる。別に、と相手は興味なさそうにつぶやくと、腕を背もたれに放りだし、再び椅子に身体をどっぷりと沈めた。
「それはいいけど、あんた誰? 綺麗なおねーさん」
彼は手持ちぶさたの様に指を動かしながらヴェラに訊ねる。よほどヘヴィスモーカーなのだろう。確かに吸っている格好は実に様になっていたが。
彼女のまだ知らない、強い匂いがまだ部屋の中に残っている。
この匂いのせいだ、と彼女は思う。どうも初めっから気圧されている。調子が出ない。このあたしとしたことが!
「…あたしはここの部員よ」
「ああ、女優さん」
「そういうあなたこそ何よ。見ない顔じゃない。部員の誰かに用なの?全くの部外者だったら出て行ってよ」
「んー? あんた俺のこと聞いてないの?」
金色の瞳が、ひどく意外そうにゆらめいた。
「聞いていないって…」
「だって俺呼んだの、あんた達だろ? 今度の公演で人数が足りないって」
「あ」
ヴェラは反射的に声を立てていた。
「…あなたまさか、今日来るっていう客員団員…」
「当たり」
ああ… と、思わず彼女は手のひらで自分の額を打った。
確かに部外者が今日ここに居るなら、その可能性は大きかったのだ。なのに、どうして考えつかなかったんだろう。
ああそうだ、もう一つのことに気を取られていたからだ。彼女はため息をつく。
「まあおねーさん座らない? 何かずいぶんと疲れてるように見えるけどねえ?」
「…余計なお世話よ!」
ヴェラはくくく、と含み笑いを立てる彼に背を向けて、部室内の簡易台所へと向かった。
別に今日彼女はお茶当番という訳ではなかったが、どうもあの男の近くで他の部員を待つ気にはならなかったのだ。
ああ全く、と内心ぼやきながら、彼女は落ちてくる長い前髪をかき上げた。
どうもさっきから調子が狂って仕方がない。妹にしたってそうだ。…いや妹の反応は予想ができた。予想通りだったから、苛立ってているのだ…
十分ほどして、部員が一人二人と入ってきて、やはり珍しい格好のこの客員団員に対して、どうしていいのか判らない、という表情を見せた。
「一体誰が彼を呼んだの? モゼスト?」
ヴェラはやや視線を上げると、部員の一人であるゾーヤに訊ねる。彼女は鉄色の固そうな髪を襟よりやや長く伸ばした、灰青の瞳を持つ社会学群の一年先輩の女子だった。
「いや部長じゃない。呼んだのは部長だけど、紹介したのは、編集長だ。少なくとも私はそう聞いている」
「イリヤ?」
ヴェラは学内新聞の編集長の名を出す。彼女の妹の専攻の先輩にあたるこの人物は、確かに顔が広いのだ。
「今回の演目、人数というか、内容に合う役者がいまいち今回見つからない、と部長が嘆いていただろう?」
「そうだったわね。インパクトの強い、だけど何処か道化めいた…」
「確かにその読みは間違いないと私も思うのだが」
殆ど愛想というものを何処かに置いてきたような口調でゾーヤは説明する。ヴェラもそれにはうなづくしかない。確かに編集長イリヤは顔が広いのだ。この日の彼女を何やら悩ませている情報を持ち込んだのも、彼だった。
「じゃあ紹介がてら、今日はイリヤも来るかしら」
「たぶん来るのではないか?部長と違って、実習も実験も多くはあるまい。確か奴はもう卒論の執筆にかかれる筈だ。来ない理由もあるまいし」
そうよね、とヴェラはうなづく。その様子を見て、ゾーヤはぽん、と彼女の肩を無言で叩く。
「私は茶を呑むが、君は呑むか?」
「いただくわ。湯沸かしにお湯はあるから。早く湧かし過ぎてしまって、どうしようと思っていたところなの」
「それはありがたい。だがいい加減簡易ポットの一つも余ってないものか? 確かに予算に余りはないが」
そう言うとゾーヤは、台所の隅に居心地悪そうに置かれている小さな冷蔵庫の中から、紺色の茶葉の缶を取り出した。
細々としたものは、部員がそれぞれ少しづつ持ち寄ったものだった。冷蔵庫も、卒業して抜けていく部員が寄付したものだった。
「ほらヴェラ。熱いから気を付けてくれ」
「ありがとう」
ヴェラは大きなカップを受け取りながら、ほっとする自分が判る。
表情はさほど変わらないが、ゾーヤのこういう所はヴェラにとってはひどくありがたかった。
言葉にしろ、態度にしろ、彼女にはひどく乾いた感触がある。一つ違いの妹との生活が、日々交わす言葉にせよ、態度にせよ、妙に湿り気が多いように感じるせいか、この表情の少ない相手との接触は彼女には心地よかった。
「それにしても、あの人物はなかなか興味深いな」
「あなたがそう思うの?」
「そうそうお目にかかれる類ではないな」
確かに、とヴェラも思う。
*
「よ、お帰り」
ベッドに寝そべって本を読んでいた連絡員は、扉の開く音に身体を起こした。
真っ赤な髪に、悪趣味な程に補色な緑のクロッシェ帽をかぶった中佐が戻ってきたのだ。
帽子だけではない。身につけているジャケットやら中に着ているTシャツ、靴に靴下に至るまで、どうしてこんなにとんでもない配色になるんだ、というくらい強烈な配色だった。
彼はその姿を見るたびに、何やら笑いが止められない自分に気付く。とんでもないくせに、まあ似合っていること似合っていること。
まあだが、その笑いはちょっとばかり横に置いて。編んだ長い髪を後ろに回して、彼は本を閉じた。図書館で借りてきた、ジナイーダから聞いた「参考図書」だった。
中佐は帽子と上着を取ると自分のベッドに放り投げる。そして自分自身をも放り出すと、煙草に火を付け、天井の染みを眺めた。
彼らが居たのは、学生向きの共同下宿だった。
キムは備え付けの棚からトマトジュースのパックを一つ取ると、軽く投げた。中佐は片手でたやすく受け取ると、ふうん、とストローを差込みながらパッケージを観察する。
「おいキム、こいつはスーパーで買ったのか?」
「んにゃ。学生用共同組合があってさ。そこのほうが安いって、可愛い女の子に教えてもらった。ほら、マークがついてるだろ?」
「ああ本当だ。ほー…」
「あんたこそ、結構遅かったじゃん」
煙草をひとまず灰皿に置き、ちゅ、とトマトジュースを一口すすった中佐は、つまらなさそうに答える。
「あー? いきなり歓迎会よ。学生ってのは、くだらん事が好きだ全く」
「あ、いーなあ。早速呑み会?」
「呑み会って言ったってなー。貧乏学生の集まりだから、まあ滅茶苦茶だ」
くす、と笑いながら、ふとその口調があまり好意的ではないことにキムは気付いた。
中佐がそういう集まり自体が嫌いではないことは、キムもこの惑星に来る前の宿舎でのそれで知っているのだが。
…彼らがこの惑星ノーヴィエ・ミェスタにやってきたのは、ほんの二週間ほど前だった。
この惑星には、大陸が三つあるが、最も大きい第一大陸は、居住するにはやや平均気温が低すぎた。住んで住めないことはないが、最初の移民はそこまで手を伸ばさなくてはならない程の数ではなかった。
従って、そこは主に資源の産出と、農業工場に使用されている。つまりは、人々の倉庫であり、食料庫な大陸なのだ。
働く人間の帰るべき家は、居住区である第二大陸に持っていることがほとんどである。そしてその両方に住処を持つことが可能な程度には、この惑星の住民は、富んでいた。
実際、この惑星に住む人々は、植民以来、そんな外的環境に苦しんだことはさほどに無いとも言える。
第二大陸は、その位置からか、海流や山脈の関係からか、気候が安定していて、極端な天災が起こることはない。
第一大陸のほうがそれは大きいが、それは当初から懸念されていたことなので、それ相応の施設が、企業の力で作られていた。その程度は、企業の義務として果たしていたらしい。
つまりは、ある程度の理想的な発展をしていたということだった。
もう一つの、第三大陸は、第一大陸に対し、赤道を挟んだ反対側とも言える場所にある。
そこは未だ手をつけられていない状態、とも言える。とりあえずそこまで手を出す必要はないのだ。
そして彼らは、その第三大陸に近い側の島に上陸し、そこからエラ州近くのシャオリン島へ移り、更にそこから州内へと潜入した。
「そういや、ソングスペイを学内で見たか? お前」
「んにゃ。奴は確かあんたの方が見やすいんじゃないですかね。社会学群の方へ入り込んだんでしょ?」
「ああ」
そう言って中佐は再びちゅ、とトマトジュースを吸う。
「あれとグラーシュコは、ここの公用語とキリールを簡単に使えるからな。あまりそういう奴がいないってのは人材も不足したもんだ」
「まあ俺もそういうふれ込みで異動させられたことになっているからねえ」
キムは中佐のベッドの前まで、勉強机の椅子を引きずり出し、反対向きに座る。背もたれに両腕を乗せ、にんまりと笑ってみせた。
「それで、あんたの方はどうだったの?」
「ふふん。実際の舞台を踏む訳にはいかないがな。あそこへ通う理由は充分ってことだ」
「道化師の役だっけ?」
「まあな。お前こそ、とっかかりが何とかなったようだな?」
そう言って中佐は、それまでキムが読んでいた本を指す。
「まあね。カシーリン教授の授業を受けてるって言ったら、結構簡単に」
「カシーリンか」
ずず、と中佐はトマトジュースの最後の一滴まで吸い込み、そのままゴミ箱へと放った。空になったパックは、ぱこ、と気の抜けるような音を立てる。
「エラ州内で、現在反体制側と見られている奴らの先頭に立っていると思われるのは三人」
中佐はつぶやく。
「中央大学の文学部のカシーリン教授、附属病院のシミョーン医師、それに数年前司政官から、一方的に退職勧告を受けたブラーヴィン司法委員」
「ブラーヴィンは今キア州よりのコソンに居るんだろ?」
「ああ。だからそっちには別の連中を行かせている。歳のいった奴でも大丈夫だからな。全くもう、この年齢って奴には参ったもんだ」
キムはそれを聞いて苦笑する。
「そもそもあんたがその役をできるあたりが不思議だけどね。不審がられたことないの? その地位のわりに若く見えるって」
「さあどうだかね。まあ俺が純粋な生身じゃないことくらい、軍内の誰だって知ってるだろ?」
そう言って中佐は、灰皿に置いた煙草に手を出した。既に半分燃え尽きている。灰を落としてくわえると、彼は大きくそれを吸った。
それを見ながらそうだね、とキムもうなづいた。戦歴が華々しいと言ったところで、無傷で帰ってきてる訳じゃない。そのたびに失ったところを埋めている、と言えば、それは疑われることはまずない。
尤も、彼が軍にその名前で入ってきた時、既に殆どを失っていたことについては、誰も知らないのだが。
「ソングスペイとグラーシュコは上手くシミョーン寄りの人間に近づけたかな」
「近づけなくては意味がないだろう?それに奴は絶対近づくはずだ」
中佐は煙を吐き出す。そうだね、とキムはうなづいた。
「奴は、コンタクトするはずだよな。マジで参加するためにさ」
「全く」
コルネル中佐はそう言って、キムを手招きする。
彼はその手のまま、ベッドに寝転がる中佐の脇に腰掛けた。中佐は煙草を灰皿に押しつけると、その手をキムの腰に伸ばした。彼もまた体勢を変える。栗色の編んだ髪が極彩色の上にざらりと落ちた。
その髪の毛の間に手を差し入れて梳こうとしたら、彼は自分の手が止められるのを感じた。
キムは笑みを浮かべると黙って首を振り、自分で止めていたゴムを抜き取った。さらさらとした長い髪は、重力に従う。
乾いているな、と中佐は思う。時々キムの笑顔は、貼り付いたようなものになる。彼は何となく引っかかるものを感じたが、その正体が何やら掴めないので、とりあえずそれは保留としている。本当に判るべきものなら、その時はいつかやって来る。少なくとも自分が気にしているのなら。
接近する唇がつぶやく。
「あんたさあ、どっちかが逆スパイだって踏んでる?」
ああ、と中佐もまたつぶやく。
各家庭の電話に盗聴器が取り付けられていることは、学生の間で当たり前のように語られているから、彼らも知ってはいる。
本当の言葉は、直接会って、相手の顔を確かめながらというのが、彼らの常識だった。
情報の統制と、発言の不自由という空気がこの州内には漂っていた。
学生達は「文学」というヴェールをかぶって自由を語り、「演劇」という仮面をつけて事実を口にする。
学生達は寮内にそれぞれラジオを持ち込み、外の情報を得ようとする。周波数を合わせ、外の声に耳を傾ける。この部屋にも無論あった。
最も綺麗に電波が入るのは、この州内の放送であるが、近隣の州の電波も捨てたものではない。乱れるノイズの中、学生達はヘッドフォンをぎゅっと耳に押し当て、本当の情報を手に入れようとする。
―――何せこの州で現在流れているものと言えば。
そして接近して確かめ合う言葉が、一番確実なのは皆判っていることである。学生のフリをしている者にとっても、それは有効だった。
「で、どっちだと思う?」
「お前は?」
相手との位置を器用に変えながらも、中佐の言葉はあくまで冷静だった。そしてその受け手も。
「7:3でソングスペイかな」
キムは答える。
「何で」
中佐は短く問い返す。目線を天井に飛ばしながら、キムは端からはぶつぶつと言ってる程度にしか聞こえない声を出す。ゆっくりと手が相手の背中に回る。
「上手すぎるからね。言葉が。と言うか、宿舎でぶつかった時、ここの言葉で『すみません(Извините)』が出た」
「なるほど。実はここの出身、ということもあるか」
キムはうなづく。
「俺耳いいのよ。それに結構判断力もね」
「自分で言う奴の言葉は信用ならんがな」
「あれあんた、信用してたの?」
中佐はその言葉に肩をすくめ、片手でぷつぷつとボタンを外していく。
負けじと相手もまた、極彩色のシャツに手を伸ばしている。中佐は面倒は嫌いだったので、それはそれとして動きには逆らわない。
「それであんたはどうなのよ。どっちがそうだと思ってる? 軍に居ながら我らが組織に加入してなおかつその顔をしながら、ここに起こるべくして起こる反乱を阻止しようなんて奴」
彼はにやりと笑った。言い回しがこの連絡員の、今回の仕事の目標に対する呆れ返りを物語っている。
「だったら最初から軍の仕事だけを素直にやっていりゃいいものをな。労力の無駄だ」
「全くだよね… っと」
連絡員は目を細めた。
「それに… してもさ、あの時のソングスペイとグラーシュコの顔ったら、笑いをかみ殺すのに大変だったよ」
「いやに仏頂面をしてると思ったら」
「…我慢してたんだよ。笑っちゃ可哀相だと思ってね」
ふうん、と中佐は両眉を上げると、相手の髪を手に巻き付けた。
表情からして、引っ張られる感触は嫌いじゃないらしい。
不思議なものだ、と彼は思う。そうされるのは嫌いじゃないくせに、それをかき上げられるのは嫌う。
最初からそうだった。中佐はこういう時の相手が嫌がって見せることをするのは大好きだったが、本当に嫌だと思われることはしなかった。そのくらいの見極めはついていた。
まあいいさ、とそのたび彼は思う。
「何かすげえ、気の毒に、と言いたそうでさ。あんたそれ知ってたでしょ」
中佐はそれには黙って、口を塞ぐことで答えた。