プロローグ2 夜の中、彼等は二つの言葉で語り合う
さて、と佐官用の宿舎の一室の前に立った時、彼は息をついた。さて?
「本気で応じる気なんですか?」
「…おい何とか理由つけて断れよ」
先刻から会う者会う者に言われる。彼は既にこの軍警基地の中で、有名人だった。
「だってまあ… 上官の命令だし…」
「そりゃ確かに!中佐はここの№4でもあるし、皆彼のことは尊敬しているし、そもそもここは軍隊だし…」
でも、なあ、と皆が皆、顔を見合わせて、この何やら不運に突き当たってしまったらしい新入りの顔を見るのだ。
何となく可笑しくなってくる自分に彼は気付く。珍しい感覚だった。
名前は? と立ち去り際、コルネル中佐は対戦相手だった長髪の彼に訊ねた。だから彼は乱れた髪を直しながら答えた。
「キム・ルマ少尉と申しますが。中佐どの」
すると相手はふうん、とやや皮肉気に笑った。そして珍しい名だな、と言い放ち、持っていた長棒を近くに居た兵士の一人に渡すと、中佐はさっさと立ち去った。
中佐の姿が見えなくなったところで、同僚となった同じ少尉であるラーベル・ソングスペイに聞いたところによると、どうもこの日、あの中佐は非番だったのだという。
任務があったのだろう、とソングスペイはため息混じりに言った。彼はふうん、とやや興味ありげにうなづいて見せた。
尤も、彼はそんなところには興味はない。
悪くはない。
ああいうタイプは嫌いではないのだ。はっきり言えば、見ていて楽しい。
だけど。自分に好きだとか嫌いだとかという感情があるかなんて、判断できた試しはないのだ。
とはいえ、そのことを考え出すと、答えなんて出た試しはない。だから思考は停止。それが一番。
軽く頭を振ると、彼は扉をノックする。
中から入れ、とチェンバロの声が聞こえたので、彼は扉を開けた。ベッドサイドの白熱のライトだけが点いた部屋の中、視界に赤の色が飛び込む。
紅い髪を無造作に広げて、コルネル中佐はアンダーウェアだけの上半身を枕に埋めて、シガレットをふかしながら、小さな固そうな本を眺めていた。靴は足下に放り出してある。
「よく来たな。キム・ルマ少尉」
本から視線を外すこともなく、中佐は煙草を脇の金属製の灰皿にすりつけた。灰色にくすんだ古典的な形をしたそれは、もとは銀色だったのだろうか。
だが今はその形跡など何処にいったのやら、所どころが熱で変形し、捨てられても磨かれることのない灰は既にその表面に融けて一部分と化しているようだった。
「何の本ですか」
ゆっくりと、彼は中佐に近づく。目はまだ本から離れない。のぞき込むと、辛子色の布で装丁されたような表紙には、百年ほど昔に中央で流行ったと言われている挿し絵画家の名前が書かれている。
のぞき込んだ拍子に、ざらりと彼の長い編んだ髪が、肩から滑り落ちた。
その隙を見計らったのか、中佐の右手がそこに伸びた。ぐ、と引っ張られる感触に、彼は反射的に姿勢を落とした。
「中佐」
「黙れ」
訝しげに相手の顔をのぞき込むと、中佐の視線は自分を通り越して、扉の方へと飛んでいる。
いつの間にか、左手には銃が握られていた。撃つつもりだろうか、と彼は妙に冷静な頭で考えていた。
だがそれは違った。チェンバロの声が、近くで、響いた。
「ピーピンク・トムは目を潰されても仕方ないんだがな?」
横目で見ると、銃口は、ぴったりと鍵穴に向いていた。
かたん、と扉の向こうで音がする。出刃亀か、と彼はやはり暢気に考えていた。まあ仕方がないだろうな、と思う。興味を持たせるような行動をしたのは自分なのだ。
だが気配が消えた、と思われる頃になっても、中佐の手は彼の髪から離れなかった。その手にぐるりと巻き付けられ、身動きが取れない。
「…痛いのですが」
「それで?」
にやり、と中佐は笑った。銃を元あった所に置き、今度は彼の手を引っ張る。
「なるほど」
その言葉を聞いて、今度は彼の方が、笑う方だった。音も無く、中佐の口が言葉を紡ぐ。
『お前が盟主の言っていた連絡員なんだな』
ああ、と彼は至近距離にある相手に向かってうなづいた。言葉は読み違えてはいけない。
『すぐに判ったのかい?』
彼も彼で、同じように、音の無い声を発する。口の動きだけが、その内容をお互いに伝えるのだ。そしてその口調は、上官に対するものではない。対等な相手に対するものが、その中には含まれている。
『わざと負けたな? 俺に手を出させるために』
『わざとじゃないさ。あんたは強い。俺なんかよりずっと。タフだね、あんたは』
は、と中佐は口の端で笑う。そしてようやく、手から手が放される。途端、それまでその皮膚を通して干渉しあっていた識別信号が、途切れた。
それは、彼らの正体を示す唯一のものでもあった。
「何をするつもりですか」
音声で、彼は中佐に訊ねる。
「何をって? 無論、想像の通りのことだろう?」
やはり音声で中佐は答える。これは聞かれてもいい部分。なるほどね、と彼は首を傾ける。それまでどっぶりと枕の中に浸かっていたような中佐の上半身が、急に跳ね上がる。
「そういう意味で来たんだろう?」
「上官の命令でしたら」
くくく、と中佐の口からそんな笑いが漏れる。この場所において、言葉は二重に存在する。聞かれてもいい言葉と、聞かれないための言葉。
くるり、と中佐は身体を反転させる。彼の身体もまた、その動きにつられるように、その位置を換えた。ぶつ、と軍服の襟のボタンが外されるのを感じる。
さすがにいい腕だ、とやはりそれでも冷静に彼は考えていた。目の前の相手の瞳の色が、ライトの光を反射して、昼間の光の下よりも、もっと金色に、メタリックに、つくりものめいて見える。
それもそのはずだ、と彼は思った。彼は中佐が何であるのか知っていた。
そして中佐もまた、この自分の組み敷いている下士官の正体を知っていた。
彼らは、反帝国組織「MM」の幹部構成員だった。
*
その昔一つの惑星の上で小競り合いを繰り返していた人類が、母なる惑星を捨ててから、その歴史の上では、大した時間は経っていない。
少なくとも、まだ五世紀程度しか経っていないのだ。そして進歩もない。
遠くへ遠くへ、と植民地を広げ、そこでそこなりに定住し、できる範囲の文化を広げ、そしてそれに一段落つくと、今度は隣の惑星に手を出す。
そんなことが長く続いた果てに起きた戦争は、人類が真空の海に線を引っ張った中の権力構造を一気に変えた。
すなわち、「帝国」の成立である。
それを文明上の後退と言ってしまうのはたやすい。だが、果たして、その「帝国」の「皇帝」が他の名前に変わっただけで、中身は大して変わらない、何とやらの主義を奉じた国が過去どれだけあっただろう?
そんなものさ、と中佐はシガレットをふかしながら思う。
そして「帝国」が存在する時には、必ずと言っていい程「反帝国組織」というものが存在する。
彼らが所属していたのは、その中で最も巨大で、かつ、その正体が知れない集団だった。名称にした所で、実際に使われているかなど、正しい所は誰も知らないのだ。
ただ真空の海を飛ぶ無数の電波の中、組織の地下放送から、暗号名「MM」と言うことだけが、その盟主である「M」の口から発せられた。それだけは、確実だった。
そして相応の意味が、各地に散らばる構成員によって想像され――― 口伝えに広がった中で「本当の名前」のように語られている。
実際のところは、本当の名など、やはり誰も知らないのだ。
そもそも組織は未だ、のヴェールに包まれまくりなのだ。幹部構成員の一人である彼も、今の今まで、こんな奴が、自分の同僚だとは全く知らなかった訳だ。
そう、未だに中佐は、幹部構成員が実際には何人居るのか、知らない。直接知っているのは、盟主一人だった。彼を拾い、その命と引き替えに、銃になることを使命づけた、盟主ただ一人だった。
少なくとも、今のところは直接その盟主の指令を受けて、任務を果たしていたのだ。
だがどうやら、その体制は何やら変わりつつあるらしい。
横では、つい二時間ほど前まで、その長い髪の毛を自分に絡み付かせていた相手が眠っていた。
全く、と彼は思う。「キム・ルマ少尉」は、事が終わったと思うや否や、電池が切れたように眠りに落ちてしまった。
倒れ込んだと思うと、次の瞬間には、軽い寝息を立てていた。
さすがに中佐もそれには呆れた。無防備にも程があるというものだ。
本当に幹部構成員なのか、と疑問すら抱きそうになる。
だが無論、これは本物なのだ。
手から伝わった識別信号は、その存在すら知られていない。一般の構成員にも。一般には一般のものがあるのだが、それとはまた別のものとは。
―――思考がとりとめもなくなっているのが判る。煙草をふかしながら、彼は読みかけの本に手を伸ばしていた。
格別この挿し絵画家が気に入っているという訳ではない。手にとったのは、その中に描かれている風景に、ふと心が揺れたからだった。秋の風景だった。
一面の紅葉。
真っ青な空。
祭りの風景。
―――彼の嫌いな光景だった。
戻ることの出来ない光景だった。
戻ることができないからと言って、彼はそれを追い求めるような性格ではない。過ぎてしまったことはどうあがいても戻って来ない。
かよわい女のように泣き叫んで何かに許しを乞えば失ったものが戻ってくるというなら、そうしてもいい。そうすることが恥であるとは彼は思ってはいない。
だがあいにく、そんな都合の良いことなど、この世界にはあり得ないのだ。
失われたものは、二度と戻ってこない。こぼれたミルクは戻らない。泣き叫ぼうがあがこうが、それは過ぎてしまった時間であり、死んだ者は戻ってこないし、失われた名前は、口にされることはないのだ。
現在の皇室の出身である天使種の、その古い種には、特有の能力の中に、ごくごく希に、時間をも越える者が居るらしい、とは聞いたことがある。だがそれにしたところで、ごくごく希であるなら、少なくとも自分には意味の無いことだった。
ぱら、とページを繰る。
そこには秋の光景秋の光景秋の光景。
強烈な程、綺麗な青の空。
そこに飛び散った血。襲いかかった炎。
銃殺の広場。
最期の景色。
決して良い記憶ではない。だが別に忘れたいとは思わない。それは起こってしまったことなのだ。
ぴく、とふと横の相手が動く気配があったので、彼は本を閉じた。
「…あ… まだ起きてたんですか」
それでも音声にする時には敬語が入っているあたりは、あなどれない。くくく、と中佐は含み笑いをする。
「ずいぶんとつれない態度だったじゃないか」
「あなたがタフなんですよ」
キム・ルマ少尉こと、連絡員のキムは言った。
「それにしてもよくまあ眠れるもんだ」
「自分はそうタフではないから、エネルギーの蓄積が必要なんですよ」
奇妙な言い方をする、とその時中佐は思った。
「ところでお前、次の作戦のことは聞いているか?」
これは表向きの話のことだった。中佐自身、司令部の方から、休みというのに急に呼ばれたのは、その表向きの任務のためだった。そしてこの連絡員は、そのための人員として、呼ばれたことになっている。
一応、とキムはうなづいた。
「場所は惑星ノーヴィエ・ミェスタ。確かその最初の移民の中心的な言葉で、『未知の場所』とかいう意味だったらしいですね。当初はノヴィナー、とかいう名の候補もあったらしいけど… まあそれはいいですね。辺境すぎる地域のために、我らが帝国軍の目がそうそう回らなくて、とうとうその居住区域の6/7までが、反帝国・独立の意を示しているとか」
「そうだな」
中佐は煙草を灰皿にすりつけながら、起き抜けからよく喋る奴だ、と思う。
「その7つを言えるか?」
「第二大陸レカの中にある州のことでしょう?一番大きいのが北東のメラ州。あとの六つはアガ・イダ・レダ・エマ・キアと言った名の州で…」
「残りの一つ。エラ州」
「そう、そこのエラ州に、近々大規模な反帝国運動が起こるんじゃないかと見られているから、こちらもそれに対しては、何らかの処置を取らなくてはならない――― と言われましたがね」
『言われたけど?』
中佐は言葉のモードを切り替えた。途端に相手の口からも、音が消える。
『あそこに関しては、我らが盟主Mは、そのまま行動を続けさせて、一種の独立区を作ればいい、と考えているらしい訳よ』
『ふん。確かにあれなら、そう間違いはないだろうな。距離的に、帝都からの離れ具合も、あれだけ離れれば上等だ。いっそのこと、妨害電波でも出して、奴ら、空間的に切り離してしまえば簡単なのにな』
『まあそれも考えつつね』
中佐はうなづいた。
惑星ノーヴィエ・ミェスタの独立運動は、発見の遅れた部類だった。
「何しろあそこは、辺境と言っても、方角がまずいですからね」
キムはよいしょ、と身体を起こしながらつぶやいた。そして長い髪を一つにまとめると、意外に起用にそれを三つ編みにし始める。こまめにまあ、と思いながらも、中佐は話の流れを追う。
「方角?」
「俺昔、地理とか好きだったんですけどね、我らが帝国の版図における辺境って言いましても、いろいろあるでしょう?」
「あるな」
中心があれば、辺境もある。それは当然の理である。
「それでも、辺境は辺境でも、結構警戒する地域というものがあるではないですか。ほら、帝都を中心に、ミフゾスタン星系方面に向かう方の辺境。向こうには結構我らが軍も出兵しますよね」
「ああ、俺も前に行かされた」
「それとか、アザマル星系方面。まああそこはそれでも帝都本星に近い辺境、と言ってしまえばおしまいですが…… とかともかく、色んな辺境に、それなりに我らが軍は出向いている訳ではないですか」
「そうだな」
ちょっとばかり「我らが軍」を強調しすぎだ、と彼は思うが、やはり黙っていた。
それに気付いたのか気付かないのか、平然と喋りながら、放り出した服のポケットからゴムを取り出すと、キムは三つ編みの端に器用に結んだ。
「ところがそのノーヴィエ・ミェスタのある星系に関しては、まず手を出してこなかった訳ですよ」
「ふむ」
「理由は明確にはなってはいませんが」
キムはそう言って、モードを換えた。
『予想される理由は、判るけどね』
『何だ?』
『捨てた母親の所には帰りたくないんじゃないの?』
なるほど、と中佐は肩をすくめた。確かにそうかもしれない。
ノーヴィエ・ミェスタは、人類が捨ててきた惑星「地球」に最も近い所にある居住惑星なのだ。
無意識にせよ故意にせよ、帝国政府がその存在から目を逸らしてきた可能性はある。
そして幸い、今までその星域は、帝国政府からの格別な援助も要らない程度には豊かではあった。
かと言って中央政界や財界に進出してこようという程の余計な気概も感じられないようであったので、それはそれで良いとばかりに、放っておいた、という可能性が大きい。
都合よく考えたかった、という?
「何で昔、地球は捨てられたか知ってますか?」
不意に膝を抱え込んでキムは音声で訊ねた。いいや、と中佐は首を横に振る。どうやらすぐに引っぱり出せる程度に記憶していなかったと見える。実際今考えてみても、大して興味のある事柄ではない。
「何故だ?」
だが相手が何やら言いたそうなので、彼はうながしてみた。
「埋もれているんですよ」
妙に楽しそうに、連絡員はつぶやいた。
「何に」
「花に」
花?
「何だそりゃ」
そんな話、聞いたことがない。彼は思わず眉を寄せた。
「花に埋もれた程度で、人間は地球を捨てたっていうのか?」
「聞いた話ですよ、あくまで」
誰か、は口に出さない。だが彼には何となし、その話の出所は予想がついた。
「…何百年か前に、都市コンビュータが一斉に狂った時期があったんですよ」
「都市コンビュータか?」
「ええ。当時地球はドーム都市全盛期でした。実際、もう地表は汚染の程度甚だしく… 住めたもんじゃなかったですからね」
「じゃ花なんか咲けなかったんじゃないか?」
『咲いたのは合成花。合成花は花じゃないよ』
さりげなく、キムは一瞬だけモードを変えた。
「…でその時に、地球にあった合成花が一斉に狂い咲きを始めて、異常繁殖をしたんですよ。その勢いや凄まじいもので、まずドームいっぱいに溢れた。…でとうとう人間はそこから追い出されたという次第」
合成花か、と彼は何となし納得する。それは彼の知識の中に存在する単語だった。「花で埋もれた地球」よりはずっとたやすくそれは記憶回路に作用する。
「で、今ではその花はドームからもあふれ出しているという訳か?」
「どうでしょうね。もう誰も行ったことがある訳ではないから判らないですが。その昔は、ずいぶんと流行ったらしいですがね。安価な人工の花」
「もう今は無いのか?そこ以外には」
「どうなんでしょうね。公式には無いことになっていますが」
『公式には?』
中佐はモードを変えた。
『Mは、それについては俺に何も言わなかった』
やっぱり出所はそこか、と彼は思う。
彼らが盟主。Mという、何やらはるか昔の自然神と同じ名を持つ彼らが盟主は、時々、何処までこの世界の物事を知っているのか、想像がつかない。
そもそも、彼は盟主の正体どころか、本当の年齢も想像がつかない。
確実に言えるのは、見た通りの年齢ではない、ということだ。
彼が出会った時、その外見は、平均的二十代の人間に見えた。だが時折出会う、幹部格に近い人間、盟主に直接目通りできる人間から聞いた話では、数十年前もあの姿だったらしい。
長い黒い髪、黒いくっきりとした瞳、そして整った白い顔に浮かぶ、仮面を思わせる無表情な美。静質な美。
直接は閉じたその唇から滅多に聞くこともできない声、だけど地下放送では聞くことができる声から、その性別が何とか男性であることを伺わせるが、直接相対している時には、それすらも曖昧になる。
盟主の姿を思い出すたび、遠い昔の絵画の中からそのまま出てきたと言われても、彼は否定できないような、そんな何やら説明のし難い気持ちに襲われるのだ。
不可思議な存在だった。
だがそれは大した問題ではない。兎にも角にも彼は盟主によって、死ぬ筈だった身体をこの現実に引き戻され、その銃となることを約束したために新しい身体と名と存在を与えられ、この世界で再び生きているのである。
疑問を持つかもしれない。だが持ったところで、自分が盟主の銃であり続けるだろうことは、彼はよく知っていた。
『もしかしたら、まだ何処かにはあるのかもしれないけど、その存在自体が結構隠されている可能性があるんだ。だから伝説にしたらしい』
『伝説にした?』
『いつの間にか消えていったもの、はそうなるよね』
確かにな、と彼は思う。
下手に回収・箝口令を引くと、それは裏の世界のマーケットのターゲットになるのは想像に難くない。だが飽きやすい世間の波の中で忘れられていくものに関しては、人々はさほどの値をつけない。かつてあったものとして次第に忘れられていく。
『何だか知らないけど、それに関しては、存在自体が埋もれるのを待っていたふしがある』
「ふうん」
いずれにせよ、彼らが盟主は、色々なことを知っているということだ、と中佐はとりあえずその問題には自分の中でピリオドを打った。
実際、彼らの盟主は本当に色々なことを知っていた。帝国政府内部の情報はもとより、皇室内の情報にしても、驚く程自在にそれを入手し、活用している。
そしてそういった現在の知識や情報だけでなく、過去の知識についてもそれは同様だった。
そしてその知識の一部を、彼にも記憶することを強要した。勧めた訳でもない。教えた訳でもない。強要である。有無を言わせぬ命令だった。
彼はそれを実行した。それが生きていくための条件の一つであった以上、当然のことだった。その知識の中には、必要であると思われることもあったし、何故それを記憶しなくてはならないのか、想像もできないことも多々あった。
例えば、彼自身について。
彼の現在の、人工の身体についての知識を持っておくことは必要であるとは思う。何せ自分は軍人なのだ。いつ何があっても、死なないための措置を取る必要はある。…それで駄目ならそれこそお仕舞いである。
だからそこまでは理解できる。それは必要だ。
だが、「それに関連して」何故他の歴史上のメカニクルやそれに近いものに関する知識までを完璧に叩き込まなくてはならないのか、というのは疑問である。
だが持ったところで答えの出ないことは分かり切っている。聞いたところであの盟主が答えるとは思えない。だから彼はその疑問は奥底にしまい込んだ。
やがてその疑問は、しまい込んだことも忘れてしまうだろう。
「何の本なんですか?」
傍らに置いた本に、キムは視線を落とす。中佐はその様子をちらりと横目で見ると、軽く吐き出すように言った。
「見たければ見ろ」
ありがとうございます、と声がする。
「ああ綺麗な風景だ」
好きなのか、などと余分なことは聞いてこない。なかなかその調子が心地よかったので、つい彼の口がすべった。
「こういうのが好きなのか?」
「綺麗な景色は好きですよ。だいたい」
「だいたい。じゃ嫌いな綺麗な景色もあるのか?」
編まれた髪を手に取りながら彼は訊ねる。微かに引っ張られる感覚に気がついたのか、キムは冬、とつぶやいた。
「冬?」
「冬は嫌いですよ。寒いから」
そう言って、キムは笑った。
妙にその笑いを見て、彼は苛立つ自分に気付いた。